外紀 卷之一

前文

現代語訳

 思うに、黄帝は当時あらゆる国を建国し、交趾を西南の果てとし、遠く百粵の外周部にあらしめた。堯は南交に住むよう羲氏に命じ、南方を交趾の地と定めた。禹は九州を分け、百粵を楊州の領域とし、互いに連なった。成周の時、越裳と称するようになった。越の名が使われ始めるのは、ここであると云われている。


漢文

 按黃帝時建萬國、以交趾界於西南、遠在百粵之表。堯命羲氏宅南交、定南方交趾之地。禹別九州、百粵為楊州域、交屬焉。成周時、始稱越裳。越之名肇於此云。
鴻厖氏紀
(起壬戌至癸卯 凡二千六百二十二年)

書き下し文

 按ずるに、黃帝の時に萬國を建て、交趾を以て西南に界し、百粵の表に遠く在り。堯は羲氏に命じて南交に邸宅 すま はせしめ、南方を交趾の地と定む。禹は九州を別ち、百粵を楊州の域と為し、焉れと交屬す。成周の時、始めて越裳と稱す。越の名の はぢめ は此に於いてと云ふ。
鴻厖氏紀
(壬戌至癸卯に起き、凡そ二千六百二十二年)

外紀 卷之一

鴻厖氏紀
(壬戌至癸卯から凡そ二千六百二十二年)

涇陽王

貉龍君

䧺王
(凡そ十八世、皆が䧺王を号す)

蜀氏紀
(甲辰至癸巳から凡そ五十年)

安陽王