雄王
雄王
現代語訳
雄王。貉龍君の子である(諱は欠けている)。都は峯州(現在の白鶴縣がこれである)。
雄王は王位に就くと、国を建て文郎国と號した(その国は東に夾南海、西に抵巴蜀があり、北は洞庭湖まで、南は胡孫国に接し、占城国に即す。現在の廣南がこれである)。国を十五部に分け、交趾、朱鳶、武寧、福祿、越裳、寧海、陽泉、陸海、武定、懷驩、九真、平文、新興、九德とし、臣属させた。この『文郎』というのは、王が都とする場所のことである。宰相を置いて『貉侯』とし、将軍を『貉將』とした(将軍は後に訛って『雄将』となった)。王子を『官郎』、王女を『媚嬝』とした。有司を『蒲正』とし、代々父をもって子に伝えることを『父道』という。世主は皆が『雄王』を號した。当時の山麓の民は、江河濮水を見、皆で魚や
漢文
雄王。貉龍君之子也(缺諱)。都峯州(今白鶴縣是也)。
雄王之立也、建國號文郎國(其國東夾南海、西抵巴蜀、北至洞庭湖、南接胡孫國、即占城國、今廣南是也)。分國為十五部、曰交趾、曰朱鳶、曰武寧、曰福祿、曰越裳、曰寧海、曰陽泉、曰陸海、曰武定、曰懷驩、曰九真、曰平文、曰新興、曰九德、以臣屬焉。其曰文郎、王所都也。置相曰貉侯、將曰貉將(將後訛為雄將)。王子曰官郎、王女曰媚嬝。有司曰蒲正、世世以父傳子、曰父道。世主皆號雄王。時山麓之民、見江河濮水、皆聚魚蝦、率相漁食、為蛟蛇所傷、白於王。王曰、山蠻之種、與水族實殊。彼好同惡異、故有此病。乃令人墨跡畫水恠於身。自是蛟龍見之、無咬傷之害、百粵文身之俗、蓋始此。
書き下し文
雄王。貉龍君の子なり(諱を缺す)。都は峯州(今の白鶴縣、是れなり)。
雄王の立つるや、國を建て文郎國と號す(其の國東に夾南海、西に抵巴蜀、北は洞庭湖に至り、南は胡孫國に接し、占城國に即し、今の廣南、是れなり)。國を分けて十五部を為し、曰く交趾、曰く朱鳶、曰く武寧、曰く福祿、曰く越裳、曰く寧海、曰く陽泉、曰く陸海、曰く武定、曰く懷驩、曰く九真、曰く平文、曰く新興、曰く九德、以て臣屬す。其れ文郎と曰ふは、王の
雄王六世
現代語訳
雄王六世の頃、武寧部扶董鄉に富家の翁がいた。一人の男児を生み、三歲余りで莫大な飲み食いをしたが、言葉を発したり笑うことができなかった。たまたま国内に非常事態が起こり、王は人をやって敵を追い払うことができる者を探し求めた。その日、その小児が突然しゃべることができるようになり、その母に天の使いをお迎えしたと告げ、「願わくば、一振りの剣と一頭の馬をお与えください。君の憂いを取り払いましょう。」と言った。王が剣と馬を賜うと、小児はすぐに馬に乗って躍り出て劔を振るって前進し、官軍が後に従って賊を武寧山の麓で破った。賊は自ら武器を後ろに向けて互いに攻撃しあい、死者は甚だ多く、その残党も男児を囲んで拝み、天に向かって叫び声をあげ、そのまま皆が降伏に来た。小児は馬に乗って躍り出し、空に昇って去った。王は小児の住居であった園宅を開くように命じ、廟を立て、時々に祀った。後に李太祖が小児を封じて沖天神王とした。(その神祠は扶董鄉の建初寺の側にある。)
漢文
雄王六世、武寧部扶董鄉、有富家翁、生一男、三歲餘、飲食肥大、不能言笑。適國內有警、王令人求能却敵者。其日、小兒忽能言、告其母邀天使來、曰願得一劔一馬、君無憂也。王賜之劔馬、小兒即躍馬揮劔而前、官軍從後、破賊于武寧山脚。賊自倒戈相攻、死者甚衆、餘黨羅拜、呼天將、即皆來降。小兒躍馬、騰空而去。王命開所居園宅、立廟、時祀焉。後李太祖封為沖天神王。(其神祠在扶董鄉建初寺側。)
書き下し文
雄王六世、武寧部扶董鄉、富家の翁有り、一男を生じ、三歲餘り、飲食は肥大なるも言笑するに能はず。
周成王
現代語訳
周成王の時、我が越は周に騁礼し始め(第何世のことかは不明である)、越裳氏を称し、白雉を献上した。周公は、「政令施していなければ、君子はその人を臣下とはしない」と言い、指南車を作るように命じて本国に送還した。
漢文
周成王時、我越始騁于周(未詳第幾世)、稱越裳氏、獻白雉。周公曰、政令不施、君子不臣其人。命作指南車、送還本國。
書き下し文
周成王の時、我が越は周に騁すを始む(未だ第幾世か詳ならず)、越裳氏と稱し、白雉を獻ず。周公曰く、政令施さざれば、君子は其の人を臣とせず、と。命じて指南車を作させしめ、本國に送還す。
雄王季世
現代語訳
時は末期に属す頃、王に媚娘という娘がいた。美くしく艷やかで、それを聞いた蜀王は、王を訪ねて結婚したいと願い出た。王はその通りにしようとしたが、雄侯がそれを止め、「彼は我が国を乗っ取ろうとし、婚姻はその口実に使おうとしているだけです。」と言った。このことから蜀王は怨みを心に懐いた。王は配偶者を求め、群臣に言った。「この娘は仙女の種族だ。才徳兼備の者よ、婚姻を結ぶがよい。」その時、外から庭下に来て拜見し、婚姻を求める二人の者が見えた。王は奇異に思ってその者たちに問うと、「一人は山精、一人は水精という者です。私たちは境内にいたのですが、明王に聖女がいると聞いて、請命したく思い来たのです。」と答えた。王は言った。「私には一人の娘しかいないのだ。二人の賢者を得ることなどできるはずがなかろう。うーむ……それでは、後日
傘圓は我が越の巔山であり、その靈が応じることの明確な証拠の最たるものとなっている。媚娘が山精に嫁いだ後、蜀王は憤怒し、「必ず文郎を滅ぼし、その国を併呑せよ」と自らの子孫に託した。孫の蜀泮には勇猛さと知略があり、その代になってこれを攻め取った。
漢文
時屬季世、王有女、曰媚娘、美而艷。蜀王聞之、詣王求為婚。王欲從之、雄侯止之曰、彼欲圖我、以婚姻為由耳。蜀王以是銜怨。王欲求可配者、謂群臣曰、此女是僊種、才德兼備者、方可為姻。時見二人外來拜見庭下、求為婚姻。王異而問之。對曰、一為山精、一為水精。皆在境內、聞明王有聖女、敢來請命。王曰、我有一女、豈得兩賢乎。乃約來日能具聘禮先來即與。兩賢應諾、拜謝而歸。明日山精將珍寳、金銀、山禽、野獸等物來獻。王如約嫁之。山精迎回傘圓高峯居之。水精亦將騁(聘の誤り?)財後至、恨悔不及。激遂興雲作雨、水漲溢、率水族追之。王與山精、張鐵網橫截慈廉上流以扞之。水精從別江、自莅仁入廣威山脚、緣岸上喝江口、出大江、入陀江、擊傘圓、處處鑿為淵為潭、積水圖襲之。山精神化、呼得蠻人、編竹為籬禦水、以弩射之、鱗介諸種、中箭避走、終莫能犯也(俗傳山精水精是後世讐、每年大水、常相攻云)。
傘圓乃我越巔山、其靈應最為顯驗。媚娘既嫁山精、蜀王憤怒、囑其子孫、必滅文郎而併其國。至孫蜀泮、有勇略、乃攻取之。
書き下し文
時は季世に屬し、王に
傘圓乃ち我が越の巔山、其の靈の應ずる最たる
史臣呉士連
現代語訳
史臣呉士連は言った。
「雄王の世には、諸侯や藩屏が立てられ、国が十五部に分けられた。十五部の外には、それぞれ長佐がいて、庶子がその次代に分けて治めさせた。それは母に従って山に帰った五十人の子であり、どうしてそうではなかったとわかるだろうか。おそらく母は君長となり、諸子それぞれが一つひとつの地方の主となったのだ。だから現在の蛮酋には、男父道、女父道という呼称がある。これを観れば(今朝で輔導と改められたのは、これである)、それが道理であろう。山精水精の話については、まったく甚だひどいでたらめではないか怪しいものだ。書を信じることは書がないことより駄目だ。とりあえずこの昔話を述べておくとともに、疑わしいことを伝える。
右鴻厖氏は、涇陽王壬戌以来、帝宜と同時期に封を受け、それを雄王の末期まで伝え、周赧王五十七年癸卯になって終り、二千六百二十二年続いた。
漢文
史臣吳士連曰、雄王之世、建侯立屏、分國為十五部。十五部之外、各有長佐、而庶子以其次分治焉。其五十子從母歸山、安知不如是耶。蓋母為君長、諸子各主一方也。以今蠻酋有男父道、女父道之稱、觀之(今朝改為輔導是也)、理或然也。若山精水精之事、亦甚恠誕、信書不如無書、姑述其舊、以傳疑焉。
右鴻厖氏、自涇陽王壬戌受封、與帝宜同時、傳至雄王季世、當周赧王五十七年癸卯終、該二千六百二十二年。
書き下し文
史臣吳士連曰く、雄王の世、侯を建て屏を立て、國を分けて十五部と為す。十五部の外、
右鴻厖氏、涇陽王壬戌より帝宜と同時に封を受け、雄王の季世に至るまで傳へ、當に周赧王五十七年癸卯に終り、二千六百二十二年に
底本
改易
日九真→曰九真