安陽王
安陽王
現代語訳
安陽王。在位五十年。
姓は蜀、諱は泮。巴蜀の人である。都は封溪(現在の古螺城がこれである)。
甲辰元年(周赧王五十八年、公元前二五七年)。文郎国を変鈍した後、王は国號を甌貉国と改めた。かつて、王が頻繁に軍を興して雄王を攻めていた。雄王の兵は強く将軍は勇猛であったので、王はよく敗北していた。雄王は王に言った。「我に神力あり。蜀など畏るるに足らんわ。」こうして武備を廃して再び整えることもないまま、酒食を求めてこれを楽しんでいると、蜀軍が近くまで迫っているのに、まだ酔いに沈んで醒めることなく、そのまま血を吐いで井戸に堕ちて死去し、その衆勢は戈を後ろに向けて蜀に降伏した。こうして王は城を越裳に築き、広さ千丈、巻貝のように螺旋を描き、螺城と號し、あるいは思龍城(唐人は崑崙城と呼ぶ。その城が最も高いからである)と名付けた。その城を築き終えると螺旋が崩れ落ち、これを思い患った王は、すぐに物忌みをして天地山川の神祇に祈祷し、再度土工を興して建築した。
漢文
安陽王。在位五十年。
姓蜀、諱泮。巴蜀人也。都封溪(今古螺城是也)。
甲辰元年(周赧王五十八年)(公元前二五七年)。王既併文郎國、改國號曰甌貉國。初王屢興兵攻雄王。雄王兵強將勇、王屢敗。雄王謂王曰、我有神力、蜀不畏乎。遂廢武備而不修、需酒食以為樂。蜀軍逼近、猶沈醉未醒、乃吐血堕井薨、其衆倒戈降蜀。王於是築城于越裳、廣千丈、盤旋如螺形、故號螺城。又名思龍城(唐人呼曰崑崙城、謂其城最高也)。其城築畢旋崩、王患之、乃齋戒禱于天地山川神祇、再興功築之。
書き下し文
安陽王。在位五十年。
姓は蜀、諱は泮。巴蜀の人なり。都は封溪(今の古螺城、是れなり)
甲辰元年(周赧王五十八年)(公元前二五七年)。王は既に文郎國を併せ、國號を改めて甌貉國と曰ふ。初め王は
丙午三年
現代語訳
丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽然と城門に神人が現れ、城を指して笑って「いつ工築は完成するのだ?」と言った。王はこの者を殿上に招き入れて質問すると、「江使が来るのを待たれよ。」と答え、すぐに立ち去った。後日の早朝、王が城門を出ると、その通りに東の江から浮かんで来る金亀が現れ、江使を称して人によく説き、未来の事を談じた。甚だ喜んだ王は、これを金盤に盛り、盤を殿上に置いて城が崩れた理由を問うた。金亀は言った。「この土地の山川の精氣に前王の子が憑りつき、国の仇に報いるために七耀山に隠れている。山中にいる鬼は、前代の楽師が死んでそこで葬られ、化けて鬼となったものだ。山の傍に館がある。館主の翁の悟空という者には娘一人と一羽の白雞がいるが、これは精の余氣である。往来する凡人が、この夜宿にたどり着くと必ず死ぬのは、鬼が害するからだ。集まるように呼び掛けて群を成しているから、その城を墮壊させているのである。もし白雞を殺し、この精氣は除けば、その城自然と完固するだろう。」王は金亀を引き連れて館に着くと、正体を隠して宿泊者となった。館主の翁は「あなた様は貴人でございましょう。どうか速かに行き去り、ここに留まって災禍に遭わないようにして下され。」と言ったが、王は笑った。「死生に命あり。鬼魅に何ができるだろうか。宿に留まろうぞ。」ぞろぞろと夜に鬼の精が外から来て、門を開けろと叫ぶのが聞こえたが、金亀はこれを怒鳴りつけ、鬼は入ることができなかった。夜明けの時、衆鬼は散り散りに逃げ出した。金亀は王に追跡するように提案し、七耀山まで辿り着くと、精氣がほとんどすべてが隠れ込んでしまった。王は館に帰還し、翌日の朝、館の主の翁は「間違いなく王は死んだであろう」と考え、人を呼んで館に差し向け、葬儀をしようとした。王を見ると欣然と笑って語りかけ、走って拜礼をして言った。「あなたさま、どうやってこのようになさることができたのか。間違いなく聖人でしょう。」王は白雞を取り上げ、殺してこれを祭るようにと乞うた。雞を殺すと娘も死んだ。すぐに人をやって山を掘らせると、古楽器とその骸骨が見つかり、焼却して骨を砕き、灰にして江河に散らすと、遂に妖氣は絶たれた。これより城を築けば、半年もすることなく完成した。金亀は挨拶をして帰ろうとしたが、王は感謝して請うた。「荷君の恩により、この城は頑丈なものになりましたが、もし外から侵略があれば、どうやってそれを防げばよいのでしょうか。」そこで金亀は自らの爪を剥ぎ取り、王に渡して言った。「国家の安危は自らに天数が備わり、人もまたこれを防ぐ。もし賊が来たのを見ても、この霊爪を用いて弩機を造り、賊に向かって矢を射れば、憂うことはない。」王は臣下の皐魯(一説に皐通と伝わる)に命じ、機弩を造らせ、爪を機に用い、『霊光金爪神弩』と名付けた。
唐の高王が平南が詔を下し、兵が帰還中に武寧州を過ぎる時のこと、夜に異人を夢を見ると、皐魯と称して言った。「昔、安陽王を輔弼し、敵を斥けた大功を得て貉侯の位に就いたのに、中傷を受けて去ることになった。死没の後、天帝はそれが無罪であったことを憐れに思い、一條江山を賜い、管領、都統、將軍として寇賊を征討から農時の刈入れと種まき、これらすべてを主宰にするようよう命じられた。現在、既に明公に従って逆虜を討ち平げたのに、また本部まで来て謝を告げないのは、非礼である。」ハッとした高王は、すぐに僚属に語り、詩に詠った。「なんと美しいことか交州の地、悠悠としてあらゆるものが載来し、古賢とまで出会うことができた。もはや周公の零台にも負けないことであろう!」
漢文
丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽有神人到城門、指城笑曰、工築何時成乎。王接入殿上問之、答曰、待江使來。即辭去。後日早、王出城門、果見金龜從東浮江來、稱江使、能說人言、談未來事。王甚喜、以金盤盛之、置盤殿上、問城崩之由。金龜曰、此本土山川精氣、前王子附之、為國報仇、隱於七耀山。山中有鬼、是前代伶人死、葬於此、化為鬼。山傍有館、館主翁曰悟空者、有一女并白雞一隻、是精之餘氣。凡人往來、至此夜宿必死、鬼害之也。所以能嘯聚成群、墮壞其城。若殺白雞、除此精氣、則其城自爾完固。王將金龜就館、假為宿泊人。館主翁曰、郎君即貴人也、願速行、勿留取禍。王笑曰、死生有命、鬼魅何能為、乃留宿焉。夜聞鬼精從外來、呼開門。金龜叱之、鬼不能入。鷄鳴時衆鬼走散。金龜請王追躡之、至七耀山、精氣収藏殆盡。。王還館。明旦館主翁以為王必死、呼人就館、欲行収葬。見王欣笑語、趨拜曰、郎君安得若此、必聖人也。王乞取白雞、殺而祭之。雞殺、女亦死。即令人掘山、得古樂器及其骸骨、燒碎為灰、散之江河、妖氣遂絕。自此築城不過半月而成。金龜辭歸、王感謝請曰、荷君之恩、其城已固。如有外侮、何禦之。金龜乃脫其爪付王、曰、國家安危、自有天數、人亦防之。倘見賊來、用此靈爪為弩機、向賊發箭、無憂也。王命臣皐魯(一云皐通)、造機弩、以爪為機、名曰靈光金爪神弩。唐高王平南詔、兵還過武寧州、夜夢異人、稱皐魯、曰、昔輔安陽王有却敵大功、被貉侯譖去之。沒後、天帝憫其無過、命賜一條江山、管領都統將軍、征討寇賊及農時稼穡、皆主之。今既從明公討平逆虜、復至本部、不告謝、非禮也。高王寤、以語僚屬、有詩曰:美矣交州地、悠悠萬載來、古賢能得見、終不負靈臺。
書き下し文
丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽として神人有り城門に到り、城を指して笑ひて曰く、工築何時成らむや。王は殿上に接入して之れに問へば、答へて曰く、江使の來たるを待たれよ、と。即ち辭去す。後日の早、王は城門を出でれば、果たして金龜の東に從ひ江に浮き來たるを見、江使と稱し、能く人に說きて言ひ、未來の事を談ず。王甚だ喜び、金盤を以て之れを盛り、盤を殿上に置き、城崩るるの由を問ふ。金龜曰く、此れ本土の山川の精氣、前の王子は之れに附し、國の為に仇に報いて七耀山に隱る。山中に鬼有り、是れ前代に伶人死し、此に葬られ、化して鬼と為る。山の傍に館有り、館主の翁の悟空と曰ふ者、
壬子九年
現代語訳
壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊の凡そ七国が成立し、この年に周は滅亡した。
漢文
壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊凡七國。是歲周亡。
書き下し文
壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊凡そ七國。是の歲周亡ぶ。
庚辰三十七年
現代語訳
庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦が六国を併合し、皇帝を称した。当時、我が交趾の慈廉人の李翁仲、身長は二丈三尺(約七メートル)、年少の頃に郷吧に往き、力役を供していたが、長官の鞭打ちを受けることになった。こうして秦に入って仕え、司隷校尉にまでなった。始皇帝が天下を得ると、将兵に臨洮を守備させ、声は匈奴を振るわせ、老年に及んで田里に帰って死去した。これを特異なものだと考えた始皇帝は、銅を鑄して像を作成すると、咸陽の司馬門に置き、腹の中に数十人を容れ、これを濳かに揺り動かしたので、匈奴は校尉が生きていると考え、(国境を)侵犯しようとはしなかった(唐の趙昌は交州都護となり、常夜翁仲と春秋左氏傳を講じる夢を見ていた。このことに因んで彼の故宅を訪れてみると、これ(銅像)があったので、祠を立て祭事を執り行い、高王は南詔を破るに至っても、常に顯應助順した。高王は祠の字を重修し、木を彫って像を立て、李校尉と號した。その神祠は慈廉縣の瑞香社にある)。
漢文
庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦併六國、稱皇帝。時我交趾慈廉人李翁仲、身長二丈三尺。少時往郷吧供力役、為長官所笞。遂入仕秦、至司隷校尉。始皇得天下、使將兵守臨洮、聲振匈奴、及老歸田里卒。始皇以為異、鑄銅為像、置咸陽司馬門、腹中容數十人、濳搖動之、匈奴以為生校尉、不敢犯(唐趙昌為交州都護、常夜夢與翁仲講春秋左氏傳。因訪其故宅、在焉。立祠致祭、迨高王破南詔、常顯應助順。高王重修祠字、彫木立像、號李校尉。其神祠在慈廉縣瑞香社)。
書き下し文
庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦六國を併し、皇帝を稱す。時に我が交趾の慈廉人の李翁仲、身長二丈三尺たり。少き時に郷吧に往きて力役を供するも、長官の笞さるる所と為る。遂に秦に入り仕え、司隷校尉に至る。始皇は天下を得、將兵をして臨洮を守らせしめ、聲は匈奴に振ひ、老に及び田里に歸して卒す。始皇以て異と為し、銅を鑄して像を
丁亥四十四年
現代語訳
丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦は諸道に逋亡人、贄壻、賈人を放って軍兵とし、校尉の屠睢に樓船の士を将帥させ、史祿には糧を鑿渠まで運ばせ、嶺南に深入すると、陸梁の地を略取し、桂林(現在の廣西明貴縣がこれである)を置いた。南海(現在の廣東に即す)、象郡(安南に即す)が任囂を南海尉とし、趙佗を龍川令(龍川、南海属縣)とし、謫徒の兵五十萬人を統領して五嶺に示威した。任囂と趙佗は謀略によって我が国を侵した。(贄壻。男は財聘(婚姻に際しての財資)がなく、一身をもって自ら妻の家に人質として入る。これを贄壻という。人身を
漢文
丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦發諸道逋亡人、贄壻、賈人為兵、使校尉屠睢將樓船之士、使史祿鑿渠運糧、深入嶺南、略取陸梁地、置桂林(今廣西明貴縣是也)、南海(即今廣東)、象郡(即安南)、以任囂為南海尉、趙佗為龍川令(龍川、南海属縣)、領謫徒兵五十萬人戍五嶺。囂、佗因謀侵我(贄壻、男無財聘、以身自質於妻家、曰贄壻。如人身之肬贄、是餘剩之物。陸梁地、嶺南人多處山陸間、其性強梁、故曰陸梁)。
書き下し文
丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦は諸道に逋亡人、贄壻、賈人を
辛卯四十八年
現代語訳
辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦の始皇帝が沙丘で崩御した。任囂と趙佗は軍隊を統帥して侵しに来た。趙佗は北江に駐軍し、遊山に遷って王と戦い、王は靈弩をもってこれを射つと、趙佗は敗走した。この時、任囂は水軍を統帥して小江にいた(都護府に即し、後に訛って東湖となり、現在は東湖津である)が、土地神を犯し、病が感染して帰り、趙佗に「秦が滅亡したぞ。計略を用いて泮を攻め、そして国を立てようではないか。」と言ったが、趙佗は王に神弩があるので敵うことができぬと知り、撤退して武寧山を守備し、使者を通じて講和した。王は喜び、そこで平江(現在の東岸天德江がこれである)で分割し、それ以北を趙佗が治め、それ以南を王が治めた。趙佗の子の仲始は宿衛に入侍すると、王女の媚珠に求婚し、それを許可した。仲始は媚珠を誘い、こっそりと靈弩を見、濳かにその
漢文
辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦始皇崩于沙丘。任囂、趙佗帥師來侵。佗駐軍北江僊遊山與王戰、王以靈弩射之、佗敗走。時囂將舟師在小江(即都護府、後訛為東湖、今東湖津)、犯土神、染病歸、謂佗曰、秦亡矣、用計攻泮、可以立國。佗知王有神弩不可敵、退守武寧山、通使講和。王喜、乃分平江(今東岸天德江是也)、以北佗治之、以南王治之。佗遣子仲始入侍宿衛、求婚王女媚珠、許之。仲始誘媚珠、竊觀靈弩、濳毀其機、易之。託以北歸省親、謂媚珠曰、夫婦恩情不可相忘、如兩國失和、南北隔別、我來到此、如何得相見。媚珠曰、妾有鵞毛錦褥常附於身、到處拔毛置岐路、以示之。仲始歸以告佗。
書き下し文
辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦始皇、沙丘に崩す。任囂、趙佗は師を
癸巳五十年
現代語訳
癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂が病にかかって死に、趙佗に言った。「陳勝等が乱を起こし、民心はまだどこに寄附すればいいかわからないと聞いた。この土地は僻地で遠いものだが、私は群盜の侵犯がここまで辿り着かないかと恐れている。道(秦の開いた越道のこと)を絶つとともに、自ら備え、諸侯の変化を待ちたいと思う。」この時、病は甚しく、言うことに「番禺(漢でいう南城)は山や川を間に隔て、東西それぞれ数千里、頗る秦人がいて互いに
漢文
癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂病且死、謂佗曰、聞陳勝等作亂、民心未知所附。此土僻遠、吾恐群盜侵犯至此、欲與絕道(秦所開越道也)、自備、待諸侯變。會病甚、曰、番禺(漢曰南城)負山阻水、東西各數千里、頗有秦人相輔、亦足建國興王、為一方之主也。郡中長吏無足與謀者、故特召公告之。因以佗自代。囂死、佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關、曰、盜兵且至、急絕道聚兵自守。檄至、州郡皆應之。於是盡殺秦所置長吏、以其親黨代為守。佗發兵攻王、王不知弩機已失、圍棋笑曰、佗不畏吾神弩耶。佗軍逼近、王擧弩已折矣。尋走敗、坐媚珠於馬上、與王南奔。仲始認鵝毛追之。王至海濱、途窮無舟楫、連呼金龜速來救我。金龜湧出水上、叱曰、乘馬後者是賊也、蓋殺之。王拔劍欲斬媚珠。媚珠祝曰、忠信一節為人所詐、願化為珠玉、雪此讐耻。王竟斬之。血流水上、蛤蚌含入心、化為明珠。王持七寸文犀入海去(今辟水犀也。世傳演州高舍社夜山是其處)。仲始追及之、見媚珠已死、慟哭抱其尸、歸葬螺城、化為玉石。仲始懷惜媚珠、還於粧浴處、悲想不自勝、竟投身井底死。後人得東海明珠、以井水洗之、色愈光瑩。
書き下し文
癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂病且つ死、佗に謂ひて曰く、陳勝等亂を作し、民心未だ附する所を知らざると聞けり。此の土僻遠にして、吾は群盜の侵犯して此に至らむことを恐る。道(秦の開く所の越道なり)を絕つと與に、自ら備え、諸侯の變ずるを待たむと欲す。
史臣呉士連
現代語訳
史臣呉士連は言った。
「金亀の説話は信じられるものだろうか。莘が神を降すと、石がしゃべった……なんてこともあるのだから、そういうこともあるかもしれない。思うに、神は人に憑依することで執行し、物に託すことで言葉するものだ。国家がこれから興ろうとすれば、神明がその徳を監督するために降る。これから滅亡しようとすれば、神もまたここにその悪を観察するために降る。ゆえに神を待つことで興ることもあり、同様にそれをもって滅亡することもある。安陽王が土工を興して築城の労役をさせたことで、民力を節することをしなかった。故に神は金龜に託してそのことを告げさせたのだ。「
右安陽王は、甲辰に起こり、癸巳に終わった。その間は凡そ五十年。
漢文
史臣吳士連曰、金龜之說信乎。有莘降神、石能言、容或有之。蓋神依人而行、託物以言也。國之將興、神明降之、以監其德。將亡、神亦降之、以觀其惡。故有待神以興、亦有以亡。安陽王興功築城之役、有不節民力、故神託金龜告之。非怨讟動乎民、而能然耶、猶似之也。及其憂後患而要請於神、則私意起矣。私意一萌、則天理随滅。神安得不羞以禍耶。其脫靈爪付之、謂足以却敵、其禍之萌乎。如神有賜虢土田之命、而虢随以亡也。厥後果然、何莫非依人而行也。如無要請之言、但循理而行、安知國祚之不長久乎。至於媚珠鵝毛表道之事、未必有也。如或有之、僅一見焉可也。後趙越王女、再模倣言之、何耶。蓋編史者、以蜀、趙亡國之由、皆出於女婿。故因一事而兩言之歟。然則鬼能隳城亦信乎。曰伯有為厲之類也、彼立其後、得所歸而止。此除其妖、無所附而止。至於史記安陽王敗亡、因神弩易機、趙越王敗亡、因兜鍪失爪、乃假辭以神其物爾。若夫固國禦戎、自有其道、得道者多助而興、失道者寡助而亡、非為此也。
右安陽王、起甲辰、終癸巳、凡五十年。
大越史記外紀全書卷之一終
書き下し文
史臣吳士連曰く、金龜の說信ぜむかな。莘の神を降す有り、石能く言ふなれば、
右安陽王、甲辰に起き、癸巳に終え、凡そ五十年。
大越史記外紀全書卷之一終