安陽王

安陽王

現代語訳

 安陽王。在位五十年。
 姓は蜀、諱は泮。巴蜀の人である。都は封溪(現在の古螺城がこれである)。
 甲辰元年(周赧王五十八年、公元前二五七年)。文郎国を変鈍した後、王は国號を甌貉国と改めた。かつて、王が頻繁に軍を興して雄王を攻めていた。雄王の兵は強く将軍は勇猛であったので、王はよく敗北していた。雄王は王に言った。「我に神力あり。蜀など畏るるに足らんわ。」こうして武備を廃して再び整えることもないまま、酒食を求めてこれを楽しんでいると、蜀軍が近くまで迫っているのに、まだ酔いに沈んで醒めることなく、そのまま血を吐いで井戸に堕ちて死去し、その衆勢は戈を後ろに向けて蜀に降伏した。こうして王は城を越裳に築き、広さ千丈、巻貝のように螺旋を描き、螺城と號し、あるいは思龍城(唐人は崑崙城と呼ぶ。その城が最も高いからである)と名付けた。その城を築き終えると螺旋が崩れ落ち、これを思い患った王は、すぐに物忌みをして天地山川の神祇に祈祷し、再度土工を興して建築した。


漢文

 安陽王。在位五十年。
 姓蜀、諱泮。巴蜀人也。都封溪(今古螺城是也)。
 甲辰元年(周赧王五十八年)(公元前二五七年)。王既併文郎國、改國號曰甌貉國。初王屢興兵攻雄王。雄王兵強將勇、王屢敗。雄王謂王曰、我有神力、蜀不畏乎。遂廢武備而不修、需酒食以為樂。蜀軍逼近、猶沈醉未醒、乃吐血堕井薨、其衆倒戈降蜀。王於是築城于越裳、廣千丈、盤旋如螺形、故號螺城。又名思龍城(唐人呼曰崑崙城、謂其城最高也)。其城築畢旋崩、王患之、乃齋戒禱于天地山川神祇、再興功築之。

書き下し文

 安陽王。在位五十年。
 姓は蜀、諱は泮。巴蜀の人なり。都は封溪(今の古螺城、是れなり)
 甲辰元年(周赧王五十八年)(公元前二五七年)。王は既に文郎國を併せ、國號を改めて甌貉國と曰ふ。初め王は しばしば 兵を興し雄王を攻む。雄王の兵は強く將は勇ましくも、王は しばしば 敗る。雄王は王に謂ひて曰く、我に神力有り、蜀は畏にあらざらむや、と。遂に武備を廢して修めず、酒食に需して以て樂と為す。蜀軍は近くに逼るも、猶ほ沈醉して未だ醒めず、乃ち血を吐き井に堕ちて薨じ、其の衆は戈を まわ して蜀に降る。王は是に於いて城を越裳に築き、廣さ千丈、盤旋すること螺形の如し、故に螺城と號す。又た思龍城(唐人呼びて曰く崑崙城、其の城の最高たるを謂ふなり)と名づく。其の城築き畢え旋は崩れ、王之れを患い、乃ち齋戒して天地山川の神祇に禱り、再び功を興して之れを築く。

丙午三年

現代語訳

 丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽然と城門に神人が現れ、城を指して笑って「いつ工築は完成するのだ?」と言った。王はこの者を殿上に招き入れて質問すると、「江使が来るのを待たれよ。」と答え、すぐに立ち去った。後日の早朝、王が城門を出ると、その通りに東の江から浮かんで来る金亀が現れ、江使を称して人によく説き、未来の事を談じた。甚だ喜んだ王は、これを金盤に盛り、盤を殿上に置いて城が崩れた理由を問うた。金亀は言った。「この土地の山川の精氣に前王の子が憑りつき、国の仇に報いるために七耀山に隠れている。山中にいる鬼は、前代の楽師が死んでそこで葬られ、化けて鬼となったものだ。山の傍に館がある。館主の翁の悟空という者には娘一人と一羽の白雞がいるが、これは精の余氣である。往来する凡人が、この夜宿にたどり着くと必ず死ぬのは、鬼が害するからだ。集まるように呼び掛けて群を成しているから、その城を墮壊させているのである。もし白雞を殺し、この精氣は除けば、その城自然と完固するだろう。」王は金亀を引き連れて館に着くと、正体を隠して宿泊者となった。館主の翁は「あなた様は貴人でございましょう。どうか速かに行き去り、ここに留まって災禍に遭わないようにして下され。」と言ったが、王は笑った。「死生に命あり。鬼魅に何ができるだろうか。宿に留まろうぞ。」ぞろぞろと夜に鬼の精が外から来て、門を開けろと叫ぶのが聞こえたが、金亀はこれを怒鳴りつけ、鬼は入ることができなかった。夜明けの時、衆鬼は散り散りに逃げ出した。金亀は王に追跡するように提案し、七耀山まで辿り着くと、精氣がほとんどすべてが隠れ込んでしまった。王は館に帰還し、翌日の朝、館の主の翁は「間違いなく王は死んだであろう」と考え、人を呼んで館に差し向け、葬儀をしようとした。王を見ると欣然と笑って語りかけ、走って拜礼をして言った。「あなたさま、どうやってこのようになさることができたのか。間違いなく聖人でしょう。」王は白雞を取り上げ、殺してこれを祭るようにと乞うた。雞を殺すと娘も死んだ。すぐに人をやって山を掘らせると、古楽器とその骸骨が見つかり、焼却して骨を砕き、灰にして江河に散らすと、遂に妖氣は絶たれた。これより城を築けば、半年もすることなく完成した。金亀は挨拶をして帰ろうとしたが、王は感謝して請うた。「荷君の恩により、この城は頑丈なものになりましたが、もし外から侵略があれば、どうやってそれを防げばよいのでしょうか。」そこで金亀は自らの爪を剥ぎ取り、王に渡して言った。「国家の安危は自らに天数が備わり、人もまたこれを防ぐ。もし賊が来たのを見ても、この霊爪を用いて弩機を造り、賊に向かって矢を射れば、憂うことはない。」王は臣下の皐魯(一説に皐通と伝わる)に命じ、機弩を造らせ、爪を機に用い、『霊光金爪神弩』と名付けた。

 唐の高王が平南が詔を下し、兵が帰還中に武寧州を過ぎる時のこと、夜に異人を夢を見ると、皐魯と称して言った。「昔、安陽王を輔弼し、敵を斥けた大功を得て貉侯の位に就いたのに、中傷を受けて去ることになった。死没の後、天帝はそれが無罪であったことを憐れに思い、一條江山を賜い、管領、都統、將軍として寇賊を征討から農時の刈入れと種まき、これらすべてを主宰にするようよう命じられた。現在、既に明公に従って逆虜を討ち平げたのに、また本部まで来て謝を告げないのは、非礼である。」ハッとした高王は、すぐに僚属に語り、詩に詠った。「なんと美しいことか交州の地、悠悠としてあらゆるものが載来し、古賢とまで出会うことができた。もはや周公の零台にも負けないことであろう!」

漢文

 丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽有神人到城門、指城笑曰、工築何時成乎。王接入殿上問之、答曰、待江使來。即辭去。後日早、王出城門、果見金龜從東浮江來、稱江使、能說人言、談未來事。王甚喜、以金盤盛之、置盤殿上、問城崩之由。金龜曰、此本土山川精氣、前王子附之、為國報仇、隱於七耀山。山中有鬼、是前代伶人死、葬於此、化為鬼。山傍有館、館主翁曰悟空者、有一女并白雞一隻、是精之餘氣。凡人往來、至此夜宿必死、鬼害之也。所以能嘯聚成群、墮壞其城。若殺白雞、除此精氣、則其城自爾完固。王將金龜就館、假為宿泊人。館主翁曰、郎君即貴人也、願速行、勿留取禍。王笑曰、死生有命、鬼魅何能為、乃留宿焉。夜聞鬼精從外來、呼開門。金龜叱之、鬼不能入。鷄鳴時衆鬼走散。金龜請王追躡之、至七耀山、精氣収藏殆盡。。王還館。明旦館主翁以為王必死、呼人就館、欲行収葬。見王欣笑語、趨拜曰、郎君安得若此、必聖人也。王乞取白雞、殺而祭之。雞殺、女亦死。即令人掘山、得古樂器及其骸骨、燒碎為灰、散之江河、妖氣遂絕。自此築城不過半月而成。金龜辭歸、王感謝請曰、荷君之恩、其城已固。如有外侮、何禦之。金龜乃脫其爪付王、曰、國家安危、自有天數、人亦防之。倘見賊來、用此靈爪為弩機、向賊發箭、無憂也。王命臣皐魯(一云皐通)、造機弩、以爪為機、名曰靈光金爪神弩。唐高王平南詔、兵還過武寧州、夜夢異人、稱皐魯、曰、昔輔安陽王有却敵大功、被貉侯譖去之。沒後、天帝憫其無過、命賜一條江山、管領都統將軍、征討寇賊及農時稼穡、皆主之。今既從明公討平逆虜、復至本部、不告謝、非禮也。高王寤、以語僚屬、有詩曰:美矣交州地、悠悠萬載來、古賢能得見、終不負靈臺。

書き下し文

 丙午三年(東周君元年)(公元前二五五年)春、三月、忽として神人有り城門に到り、城を指して笑ひて曰く、工築何時成らむや。王は殿上に接入して之れに問へば、答へて曰く、江使の來たるを待たれよ、と。即ち辭去す。後日の早、王は城門を出でれば、果たして金龜の東に從ひ江に浮き來たるを見、江使と稱し、能く人に說きて言ひ、未來の事を談ず。王甚だ喜び、金盤を以て之れを盛り、盤を殿上に置き、城崩るるの由を問ふ。金龜曰く、此れ本土の山川の精氣、前の王子は之れに附し、國の為に仇に報いて七耀山に隱る。山中に鬼有り、是れ前代に伶人死し、此に葬られ、化して鬼と為る。山の傍に館有り、館主の翁の悟空と曰ふ者、 ひとり むすめ 并びに白雞一隻有り、是れ精の餘氣たり。凡人往來すれば、此の夜宿に至れば必ず死せるは、鬼之れを害するなり。能く聚を嘯き群を成し、其の城を墮壞する所以たり。若し白雞を殺し、此の精氣は除かば、則ち其の城自爾と完固す、と。王は金龜を ひき いて館に就き、假して宿泊人と為る。館主の翁曰く、郎君即ち貴人なり、願はくば速かに行き、留まり禍を取ること勿れ、と。王笑ひて曰く、死生に命有り、鬼魅何を為すに能ひ、乃ち宿に留むらむ、と。夜に鬼の精は外來に從ひ、門を開かむと呼ぶを聞く。金龜は之れを叱り、鬼入ること能はず。鷄鳴の時、衆鬼は走散す。金龜は王に之れを追躡せむことを請ひ、七耀山に至れば、精氣収藏殆盡す。王は館に還れり。明旦、館の主の翁は以為 おもへ らく王は必ず死せむとし、人を呼び館に就け、収葬を行はむと欲す。王を見れば よろこ び笑ひて語り、趨りて拜して曰く、郎君安ぞ此の若くを得、必ずや聖人なり、と。王は白雞を取り、殺して之れを祭らむことを乞ふ。雞の殺、女亦た死せり。即ち人をして山を掘らせしむれば、古樂器及び其の骸骨を得、燒き碎きて灰と為し、之れを江河に散らし、妖氣遂に絕つ。此れより城を築けば半月を過ぎずして成る。金龜は辭歸し、王は感謝して請ひて曰く、荷君の恩、其の城已に固し。如し外侮有らば、何ぞ之れを禦ぐか、と。金龜乃ち其の爪を脫し王に付け、曰く、國家の安危、自らに天數有り、人亦た之れを防ぐ。 し賊の來たるを見れば、此の靈爪を用ひて弩機と為し、賊に向かひ はな たば、憂ふこと無からむや、と。王は臣の皐魯(一に皐通と云ふ)に命じ、機弩を造らせしめ、爪を以て機と為し、名づけて靈光金爪神弩と曰ふ。唐高王の平南が詔し、兵は還り武寧州を過ぎ、夜に異人を ゆめみ れば、皐魯と稱し、曰く、昔安陽王を輔け却敵の大功有るも、貉侯を被るも之れを譖去す。沒後、天帝は其の無過を あは れみ、命じて一條江山を賜ひ、管領、都統、將軍として寇賊の征討、農時の かりいれ たねまき に及び、皆之れを あるぢ す。今既に明公に從ひ逆虜を討ち平げるも、復た本部に至り、謝を告げざるは、非禮なり。高王 さと り、以て僚屬に語り、詩有りて曰く、美しきかな交州の地、悠悠として よろず 載來し、古賢能く見を得、終に靈臺に負くることなし、と。

壬子九年

現代語訳

 壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊の凡そ七国が成立し、この年に周は滅亡した。

漢文

 壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊凡七國。是歲周亡。

書き下し文

 壬子九年(東周君七年)(公元前二四九年)。秦、楚、燕、趙、魏、韓、齊凡そ七國。是の歲周亡ぶ。

庚辰三十七年

現代語訳

 庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦が六国を併合し、皇帝を称した。当時、我が交趾の慈廉人の李翁仲、身長は二丈三尺(約七メートル)、年少の頃に郷吧に往き、力役を供していたが、長官の鞭打ちを受けることになった。こうして秦に入って仕え、司隷校尉にまでなった。始皇帝が天下を得ると、将兵に臨洮を守備させ、声は匈奴を振るわせ、老年に及んで田里に帰って死去した。これを特異なものだと考えた始皇帝は、銅を鑄して像を作成すると、咸陽の司馬門に置き、腹の中に数十人を容れ、これを濳かに揺り動かしたので、匈奴は校尉が生きていると考え、(国境を)侵犯しようとはしなかった(唐の趙昌は交州都護となり、常夜翁仲と春秋左氏傳を講じる夢を見ていた。このことに因んで彼の故宅を訪れてみると、これ(銅像)があったので、祠を立て祭事を執り行い、高王は南詔を破るに至っても、常に顯應助順した。高王は祠の字を重修し、木を彫って像を立て、李校尉と號した。その神祠は慈廉縣の瑞香社にある)。

漢文

 庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦併六國、稱皇帝。時我交趾慈廉人李翁仲、身長二丈三尺。少時往郷吧供力役、為長官所笞。遂入仕秦、至司隷校尉。始皇得天下、使將兵守臨洮、聲振匈奴、及老歸田里卒。始皇以為異、鑄銅為像、置咸陽司馬門、腹中容數十人、濳搖動之、匈奴以為生校尉、不敢犯(唐趙昌為交州都護、常夜夢與翁仲講春秋左氏傳。因訪其故宅、在焉。立祠致祭、迨高王破南詔、常顯應助順。高王重修祠字、彫木立像、號李校尉。其神祠在慈廉縣瑞香社)。

書き下し文

 庚辰三十七年(秦始皇呂政二十六年)(公元前二二一年)。秦六國を併し、皇帝を稱す。時に我が交趾の慈廉人の李翁仲、身長二丈三尺たり。少き時に郷吧に往きて力役を供するも、長官の笞さるる所と為る。遂に秦に入り仕え、司隷校尉に至る。始皇は天下を得、將兵をして臨洮を守らせしめ、聲は匈奴に振ひ、老に及び田里に歸して卒す。始皇以て異と為し、銅を鑄して像を つく り、咸陽の司馬門に置き、腹中に數十人を容れ、濳かに之れを搖り動かさば、匈奴以為 おもへ らく校尉の生ずる、と。敢へて犯さず(唐趙昌は交州都護と為り、常夜翁仲と春秋左氏傳を講ずるを ゆめみ む。因りて其の故宅を訪れれば、焉れ在らむ。祠を立て祭を致し、高王は南詔を破るに いた るも、常に顯應助順す。高王は祠字を重修し、木を彫り像を立て、李校尉と號す。其の神祠は慈廉縣の瑞香社に在り)。

丁亥四十四年

現代語訳

 丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦は諸道に逋亡人、贄壻、賈人を放って軍兵とし、校尉の屠睢に樓船の士を将帥させ、史祿には糧を鑿渠まで運ばせ、嶺南に深入すると、陸梁の地を略取し、桂林(現在の廣西明貴縣がこれである)を置いた。南海(現在の廣東に即す)、象郡(安南に即す)が任囂を南海尉とし、趙佗を龍川令(龍川、南海属縣)とし、謫徒の兵五十萬人を統領して五嶺に示威した。任囂と趙佗は謀略によって我が国を侵した。(贄壻。男は財聘(婚姻に際しての財資)がなく、一身をもって自ら妻の家に人質として入る。これを贄壻という。人身を肬贄 いぼ とするようなもので、これぞ余剩そのものである。陸梁の地では、嶺南人が多く山陸間を住処とし、それらの性は強梁で、それゆえに陸梁という)。


漢文

 丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦發諸道逋亡人、贄壻、賈人為兵、使校尉屠睢將樓船之士、使史祿鑿渠運糧、深入嶺南、略取陸梁地、置桂林(今廣西明貴縣是也)、南海(即今廣東)、象郡(即安南)、以任囂為南海尉、趙佗為龍川令(龍川、南海属縣)、領謫徒兵五十萬人戍五嶺。囂、佗因謀侵我(贄壻、男無財聘、以身自質於妻家、曰贄壻。如人身之肬贄、是餘剩之物。陸梁地、嶺南人多處山陸間、其性強梁、故曰陸梁)。

書き下し文

 丁亥四十四年(秦始皇三十三年)(公元前二一四年)。秦は諸道に逋亡人、贄壻、賈人を はな ち兵と為し、校尉屠睢をして樓船の士を ひき いせしめ、史祿をして鑿渠に糧を運ばせしめ、嶺南に深入りし、陸梁地を略取し、桂林(今の廣西明貴縣是れなり)を置く、南海(今の廣東に即す)、象郡(安南に即す)、以て任囂を南海尉為らしめ、趙佗を龍川令(龍川、南海属縣)為らしめ、謫徒の兵五十萬人を領めせしめ五嶺に たむろ す。囂、佗は謀に因り我を侵し(贄壻、男は財聘すること無く、身を以て自ら妻の家に質となり、贄壻と曰ふ。人身の肬贄するが如し、是の餘剩の物たり。陸梁の地、嶺南人多く山陸間に處し、其の性は強梁、故に陸梁と曰ふ)。

辛卯四十八年

現代語訳

 辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦の始皇帝が沙丘で崩御した。任囂と趙佗は軍隊を統帥して侵しに来た。趙佗は北江に駐軍し、遊山に遷って王と戦い、王は靈弩をもってこれを射つと、趙佗は敗走した。この時、任囂は水軍を統帥して小江にいた(都護府に即し、後に訛って東湖となり、現在は東湖津である)が、土地神を犯し、病が感染して帰り、趙佗に「秦が滅亡したぞ。計略を用いて泮を攻め、そして国を立てようではないか。」と言ったが、趙佗は王に神弩があるので敵うことができぬと知り、撤退して武寧山を守備し、使者を通じて講和した。王は喜び、そこで平江(現在の東岸天德江がこれである)で分割し、それ以北を趙佗が治め、それ以南を王が治めた。趙佗の子の仲始は宿衛に入侍すると、王女の媚珠に求婚し、それを許可した。仲始は媚珠を誘い、こっそりと靈弩を見、濳かにその トリガー を毀し、それに交換した。北に帰って親に面会することに かこつけ け、媚珠に言った。「もし夫婦の恩情を互いに忘れることができないまま両国の和が失われ、南北が隔ち別れることがあれば、私はここに帰ってくるので、相見えることができるが、どうする?」媚珠は言った。「 わらわ は鵞の羽の錦褥 スカート を持ち、いつも身に着けております。あなたが わらわ のところにお越しになられるまで、その毛を抜いて岐路に置き、これを目印としましょう。」仲始は帰ると、趙佗に報告した。

漢文

 辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦始皇崩于沙丘。任囂、趙佗帥師來侵。佗駐軍北江僊遊山與王戰、王以靈弩射之、佗敗走。時囂將舟師在小江(即都護府、後訛為東湖、今東湖津)、犯土神、染病歸、謂佗曰、秦亡矣、用計攻泮、可以立國。佗知王有神弩不可敵、退守武寧山、通使講和。王喜、乃分平江(今東岸天德江是也)、以北佗治之、以南王治之。佗遣子仲始入侍宿衛、求婚王女媚珠、許之。仲始誘媚珠、竊觀靈弩、濳毀其機、易之。託以北歸省親、謂媚珠曰、夫婦恩情不可相忘、如兩國失和、南北隔別、我來到此、如何得相見。媚珠曰、妾有鵞毛錦褥常附於身、到處拔毛置岐路、以示之。仲始歸以告佗。

書き下し文

 辛卯四十八年(秦始皇十七年)(公元前二一〇年)冬、十月、秦始皇、沙丘に崩す。任囂、趙佗は師を ひき いて來侵す。佗は北江に駐軍し、遊山に僊りて王と戰ひ、王は靈弩を以て之れを射、佗は敗走す。時に囂は舟師を將いて小江に在り(都護府に即し、後に訛り東湖と為り、今の東湖津なり)、土神を犯し、病に染りて歸し、佗に謂ひて曰く、秦亡きかな、計を用ひて泮を攻め、以て國を立つる可し。佗は王に神弩有り敵ふ可からざるを知り、退きて武寧山を守り、使を通じて講和す。王喜び、乃ち平江(今の東岸天德江是れなり)を分け、以北を佗之れを治め、以南を王之れを治む。佗の子の仲始宿衛に入侍し、王女の媚珠に求婚すれば、之れを許す。仲始は媚珠を誘ひ、竊かに靈弩を觀、濳かに其の機を毀し、之れに易ふ。 かこつけ るに北歸省親を以てし、媚珠に謂ひて曰く、如し夫婦の恩情相ひ忘る可からずして兩國の和を失し、南北隔別すれば、我は此に到りに來、相見を得るを如何せむ、と。媚珠曰く、妾に鵞毛の錦褥有り、常に身に附す。處に到るまで毛を拔き岐路に置き、以て之れを示さむとす、と。仲始は歸して以て佗に告ぐ。

癸巳五十年

現代語訳

 癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂が病にかかって死に、趙佗に言った。「陳勝等が乱を起こし、民心はまだどこに寄附すればいいかわからないと聞いた。この土地は僻地で遠いものだが、私は群盜の侵犯がここまで辿り着かないかと恐れている。道(秦の開いた越道のこと)を絶つとともに、自ら備え、諸侯の変化を待ちたいと思う。」この時、病は甚しく、言うことに「番禺(漢でいう南城)は山や川を間に隔て、東西それぞれ数千里、頗る秦人がいて互いに たす け合い、やはり国を建て王を興すに足るもので、一地方の主となった。郡中の長吏には一緒に謀るに足る者はいない。故に特別に あなた を召してこれを告げたのだ。よって趙佗を自らの代わりとする。」任囂が死ぬと、趙佗はすぐに檄文を飛ばして橫浦、陽山、湟谿關に告げた。「盗兵まさに至らんとす! 急いで道を絶ち、兵を集め、自ら守備を固めよ!」檄文が届くと、これに州郡のすべてが応じた。ここで秦の置いた長吏を悉く殺し、その親党を代わって かみ に任命した。趙佗は軍を放って王を攻め、王は弩機が既に失なっていることを知らず、棋を囲んで笑った。「趙佗よ、私の神弩が恐ろしくないのか!」趙佗の軍が近くまで迫ってきたので、王が弩を掲げたが、それは既に折られていた。そのまま敗走し、媚珠を馬上に座らせると、王と一緒に南に奔走させた。仲始は鵝毛を確認しながら彼女らを追いかけた。王は海浜まで辿り着いたが、道半ばに窮して舟楫を見つけることができなかったので、「金亀よ、早く私のところに来て救ってくれ!」と連呼した。金亀が水上に湧き出て、叱りつけて言った。「馬の後ろに乗る者! そいつこそが賊だ!さあ、そいつを殺せ!」王は剣を抜いて媚珠を斬ろうとすると、媚珠は呪詛を吐いた。「忠実で信義に基づき浮気心もなく節義に順ってきたのに、人から だま されてしまったのだ。願わくば化して珠玉となり、この あだ はじ すす がんことを……。」王が彼女を斬り終えると、血は水上まで流れ、蛤蚌の心臓にまで含み入れ、化して明珠となった。王は七寸の文犀(現在の辟水犀のツノである。世間では、演州高舍社の夜山こそがその生息地であると伝わる)を持って海に入り、去っていった。追跡していた仲始がここに及んで媚珠を見ると既に死んでおり、慟哭してその遺体を抱き、螺城に帰って葬ると、化して玉石となった。仲始は媚珠を心から愛おしみ、粧浴の処に還ったが、悲想に自ら耐えられず、ついに井戸の底まで身投げして死んだ。後世に東海の明珠を手に入れた人が、それを井戸の水で洗うと、その色はいよいよ光輝いた。

漢文

 癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂病且死、謂佗曰、聞陳勝等作亂、民心未知所附。此土僻遠、吾恐群盜侵犯至此、欲與絕道(秦所開越道也)、自備、待諸侯變。會病甚、曰、番禺(漢曰南城)負山阻水、東西各數千里、頗有秦人相輔、亦足建國興王、為一方之主也。郡中長吏無足與謀者、故特召公告之。因以佗自代。囂死、佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關、曰、盜兵且至、急絕道聚兵自守。檄至、州郡皆應之。於是盡殺秦所置長吏、以其親黨代為守。佗發兵攻王、王不知弩機已失、圍棋笑曰、佗不畏吾神弩耶。佗軍逼近、王擧弩已折矣。尋走敗、坐媚珠於馬上、與王南奔。仲始認鵝毛追之。王至海濱、途窮無舟楫、連呼金龜速來救我。金龜湧出水上、叱曰、乘馬後者是賊也、蓋殺之。王拔劍欲斬媚珠。媚珠祝曰、忠信一節為人所詐、願化為珠玉、雪此讐耻。王竟斬之。血流水上、蛤蚌含入心、化為明珠。王持七寸文犀入海去(今辟水犀也。世傳演州高舍社夜山是其處)。仲始追及之、見媚珠已死、慟哭抱其尸、歸葬螺城、化為玉石。仲始懷惜媚珠、還於粧浴處、悲想不自勝、竟投身井底死。後人得東海明珠、以井水洗之、色愈光瑩。

書き下し文

 癸巳五十年(秦二世胡亥二年)(公元前二〇八年)。任囂病且つ死、佗に謂ひて曰く、陳勝等亂を作し、民心未だ附する所を知らざると聞けり。此の土僻遠にして、吾は群盜の侵犯して此に至らむことを恐る。道(秦の開く所の越道なり)を絕つと與に、自ら備え、諸侯の變ずるを待たむと欲す。 たまたま 病甚し、曰く、番禺(漢曰く南城)は山を負ひ水を阻み、東西 おのおの 數千里、頗る秦人有り相ひ たす く、亦た國を建て王を興すに足り、一方の主と為るなり。郡中の長吏に與に謀るに足る者無し、故に特に公を召して之れに告ぐ。因りて佗を以て自らに代ゆ、と。囂死し、佗即ち檄を移して橫浦、陽山、湟谿關に告げて曰く、盜兵 まさ に至らむとす。急ぎて道を絕ち兵を聚め自ら守れ、と。檄至り、州郡皆之れに應ず。是に於いて秦の置く所の長吏を盡く殺し、其の親黨を以て代えて守と為す。佗は兵を發ち王を攻め、王は弩機の已に失するを知らず、棋を圍み笑ひて曰く、佗は吾の神弩を畏れざるか、と。佗軍逼近すれば、王は弩を擧ぐるも已に折れり。尋いで走敗し、媚珠を馬上に坐らせしめ、王と南に奔す。仲始は鵝毛を認め之れを追ふ。王は海濱に至るも、 みち に窮して舟楫 ふなかじ 無し、金龜の速く來たりて我を救はむことを連呼す。金龜水上に湧出て、叱りて曰く、馬の しりえ に乘る者是れ賊なり。蓋し之れを殺せり、と。王は劍を拔き媚珠を斬らむと欲す。媚珠 のろ ひて曰く、忠信一節、人に だま さるる所と為る。願はくば化して珠玉に為り、此の讐耻を雪がむことを、と。王竟に之れを斬る。血は水上に流れ、蛤蚌は心を含み入れ、化して明珠と為す。王は七寸の文犀(今の辟水犀なり。世に、演州高舍社の夜山是れ其の處と傳ふ)を持ち海に入りて去る。仲始追ひて之れに及び、媚珠を見れば已に死し、慟哭して其の尸を抱き、歸して螺城に葬れば、化して玉石と為る。仲始は媚珠を懷惜し、粧浴の處に還り、悲想自ら勝へず、竟に身を井の底に投げて死す。後の人、東海の明珠を得、以て井水之れを洗へば、色は いよいよ 光瑩たり。

史臣呉士連

現代語訳

 史臣呉士連は言った。
「金亀の説話は信じられるものだろうか。莘が神を降すと、石がしゃべった……なんてこともあるのだから、そういうこともあるかもしれない。思うに、神は人に憑依することで執行し、物に託すことで言葉するものだ。国家がこれから興ろうとすれば、神明がその徳を監督するために降る。これから滅亡しようとすれば、神もまたここにその悪を観察するために降る。ゆえに神を待つことで興ることもあり、同様にそれをもって滅亡することもある。安陽王が土工を興して築城の労役をさせたことで、民力を節することをしなかった。故に神は金龜に託してそのことを告げさせたのだ。「怨讟 うらみ を抱かせるように民を動かしてはならぬぞ、ここでお前がしていることは、そういうことである。」その後患を憂いで神に要請することになると、そこで私情に囚われた心が起こってしまった。ちょっとばかりの私情の めばえ も、それは天理の随滅であるが、神がどうして羞じないことに災禍 わざわい を起こすことができるだろうか。自らの靈爪を剥がして彼に与え、これによって敵を斥けることができると言ったが、それは災禍の めばえ に他ならなかった。もし神が虢の土田を下賜するとの命があれば、それに虢国が随ってしまえば滅亡してしまうのだ。その後のことは予想通りのことである。どうして人に憑依して執行することがないことがないだろうか。もし要請の言がなければ、ただ理に したが って執行されていただけであろうに、なぜ国祚 さかえ 長久 ひさしく なることを知ろうか。媚珠の鵝毛表道の事に至っては、まったく必然性のないことだ。もしあるいはそれがあるとすれば、僅かひとつばかりの見解を提示することができるかもしれない。後に趙越の王女が再びこのことを模倣 まね して言ったのは、なぜだろうか。思うに、編史者は蜀と趙の亡国の理由をもって、どれも女婿より出たものであるとし、故に一つの事に因んでこれらの両方に言及したのではないだろうか。してみれば、鬼が城を破壊することができたというのも、同様に信じることができるだろう。伯有が怨霊の類となったが、彼はその後継ぎを立てられると、帰して止めることができた。今回は妖を除いたが、附して止まることはなかった。史記において安陽王の敗亡に至ったのは、神弩の機を変易したことにより、趙越王の敗亡は、兜鍪の爪を失なったことによる。つまり言辞 ことば はかりそめに過ぎず、神は自ら物によって示すのみである。もし自身が国を堅固にして戒めを守っていれば、自ずとその道が現れ、道を得る者は助けが多いがために興隆する一方、道を失なった者は助が すく ないがために滅亡する。それをしなかったのである。」

 右安陽王は、甲辰に起こり、癸巳に終わった。その間は凡そ五十年。

漢文

 史臣吳士連曰、金龜之說信乎。有莘降神、石能言、容或有之。蓋神依人而行、託物以言也。國之將興、神明降之、以監其德。將亡、神亦降之、以觀其惡。故有待神以興、亦有以亡。安陽王興功築城之役、有不節民力、故神託金龜告之。非怨讟動乎民、而能然耶、猶似之也。及其憂後患而要請於神、則私意起矣。私意一萌、則天理随滅。神安得不羞以禍耶。其脫靈爪付之、謂足以却敵、其禍之萌乎。如神有賜虢土田之命、而虢随以亡也。厥後果然、何莫非依人而行也。如無要請之言、但循理而行、安知國祚之不長久乎。至於媚珠鵝毛表道之事、未必有也。如或有之、僅一見焉可也。後趙越王女、再模倣言之、何耶。蓋編史者、以蜀、趙亡國之由、皆出於女婿。故因一事而兩言之歟。然則鬼能隳城亦信乎。曰伯有為厲之類也、彼立其後、得所歸而止。此除其妖、無所附而止。至於史記安陽王敗亡、因神弩易機、趙越王敗亡、因兜鍪失爪、乃假辭以神其物爾。若夫固國禦戎、自有其道、得道者多助而興、失道者寡助而亡、非為此也。
 右安陽王、起甲辰、終癸巳、凡五十年。

大越史記外紀全書卷之一終

書き下し文

 史臣吳士連曰く、金龜の說信ぜむかな。莘の神を降す有り、石能く言ふなれば、容或有之 さういふこともあるかもしれない 。蓋し神は人に依りて行ひ、物に託して以て言ふなり。國の將に興らむとすれば、神明之れに降り、以て其の德を監す。將に亡ばむとするや、神亦た之れに降り、以て其の惡を觀ゆ。故に神を待ちて以て興る有り、亦た以て亡ぶ有り。安陽王の功を興し城を築の役、民の力を節せざる有り、故に神は金龜に託して之れを告がせしむ。怨讟の民を動かすに非ず、而りて然るに能はむか、猶ほ之れに似たらむや。其の後患を憂ひて神に要請するに及べば、則ち私意起こらむかな。私意の一萌、則ち天理の随滅なり。神安ぞ羞じざるに わざはひ を以てするを得るか。其の靈爪を脫ぎ之れに付し、以て敵を却くに足ると謂ふも、其れ禍の萌ならむ。如し神に虢の土田を賜ふの命有らば、而りて虢随ひて以て亡ぶなり。 の後果然たり、何ぞ人に依りて行ふこと非ざること莫きなり。如し要請の言無くば、但だ理に したが ひて行はるるのみ、安ぞ國祚の長久たらざるを知らむや。媚珠の鵝毛表道の事に至りては、未だ必有あらずや。如し あるい は之れ有らば、僅か一見して焉ぞ可なりや。後に趙越の王女、再び模倣して之れを言ふは、何ぞや。蓋し編史者、以て蜀趙の亡國の由、皆女婿より出でる。故に一事に因りて之れを兩言するか。然るに則ち鬼能く城を こわ すも亦た信ぜむかな。伯有を曰ひ厲の類と為すなり、彼は其の後を立て、歸して止む所を得。此れ其の妖を除き、附して止むる所無し。史記に於いては安陽王の敗亡に至るは、神弩の機を易ふに因り、趙越王の敗亡は、兜鍪の爪を失するに因る。乃ち假辭は神の其の物を以てするのみ。若し夫れ國を固め戎を まも れば、自ずと其の道有り、道を得る者助多くして興り、道を失する者助を寡なくして亡ぶ。此の為に非ざるなり。
 右安陽王、甲辰に起き、癸巳に終え、凡そ五十年。

大越史記外紀全書卷之一終

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