神號
現代語訳
神號は尊敦である。
漢文
神號尊敦。
書き下し文
神號は尊敦なり。
附紀
現代語訳
附紀:舜天王の父は為朝公である。生まれながらにして身長七尺(約2m12cm)あり、眼は秋星のようで、武勇は人々から抜きんでて、最も弓射が上手かった。つまり日本の人皇五十六世の清和天皇の後胤、六條判官為義公の第八子である。宋の紹興二十六年丙子(1156年)〈和朝の保元元年である〉、日本の神武天皇七十四世孫の烏羽院と太子の崇徳院が不和によって怨み合うようになり、それぞれが兵を招いて戦うようになった。この時、為朝公は鎭西に住み、崇徳院に身を投じ、その戦に助力したが、小勢は多勢に勝てず、大敗して捕らわれてしまった。諸将が誅殺を受ける中、為朝公は伊豆大島に流された。宋の乾道元年乙酉(1165年)、公が舟に乗って遊んでいると、突如として暴風雨が起こった。船乗りは驚恐したが、公は天を仰いで言った。
「運命は天にある。余が何を憂おうか。」
それほど日が経つこともなく、漂流はとある海岸までたどり着き、これに因んでその地を『運天と名付けた。現在の山北の運天江に当たるのが、つまり公の漂流してたどり着いた場所である。公は岸に上がって、あまねく国中をめぐって遊んだ。国の人々はその武勇を見て、彼を敬い、あるいは彼を慕った。公は大里の按司の妹と通じ、一男を儲けた。住み着いてから久しく日が経ち、望郷の念は自ら禁じ難く、妻子を連れて一緒に帰ろうとした。こうして牧港までたどり着き、舟を開いて数里ほど渡ることができたところで、つむじ風が突如として沸き起こり、牧港の周りを漂流してぐるぐると回った。数ヶ月を過ごし、吉日を選んで大洋を開いたが、まだ数里もしないうちにつむじ風が前の通り(巻き起こった)。船乗りたちは皆が言った。
「私は聞いたことがあります。男と女が一緒に舟に乗ると、龍神に崇られてしまうのだ、と。どうか夫人を留めることで性命をまっとうされんことを。」
やむを得ず公は夫人に言った。
「私とそなたは鴛鴦のごとく情を結び、鉄や石のように堅く誓いあったというのに、どうすればよいというのだ。天が人の意に違い、一緒に帰ることができない。どうかそなたの心からの思いによって我が子を養育してほしい。成長すれば、必ず大いなることを為し遂げるであろう。」
言い終えると、それぞれが雨のように涙を流し、遂に妻子と別れ、舟を開いて帰った。夫人は児子を引き連れて浦添までたどり着き、住むことにした。児子の名は尊敦。のんびりと月日は経ち、その間に尊敦は少しずつ成長していった。立ち振る舞いは常人と異なり、器量は人々から抜きんでていた。宋の淳煕七年の庚子、尊敦(1180年)は齢十五歳、才徳兼備であったことから、国の人々は彼を尊敬し、浦添の按司に推薦すると、領土内は大いに治まった。ちょうどそれは天孫氏二十五紀の末裔の頃で、権臣の利勇が権力を専横し、遂に自ら主君を弑して王位を簒奪した。この時の尊敦は二十二歳、無類の英雄であり、義を唱えて兵を起こすと、音の反響のように四方の者がこれに応じた。尊敦は義兵を統率して来襲し、城を包囲して罪を問うた。利勇は怒って言った。
「先君には徳がなかった。予は天命を奉り、国君に立ったのだ! お前は単なる一人の賤しい匹夫でしかない。妄りに兵を動かしてよいものか!」
尊敦は大いに怒って言った。
「お前は幼少の時から国の恩寵を浴び、義が適していたから忠義を致していたのであろう! なぜ天に逆らい王位を簒奪する理があろうか。私はいまこそ義を唱えて賊を誅し、天と人の怨みを断ち切らん!」
言い終えてから激しく軍兵を励まし、一斉に城を攻めた。利勇は兵を統率して防戦し、雨のごとく矢や投石を浴びせたが、勇気を奮って尊敦は城門を攻め破り、諸軍も勢いに乗じて蹴破り、宮廷の庭まで入り込んだ。どうにもできなくなった利勇は、遂に妻子を殺して自らも頸を切って死んだ。国の人々は大いに喜び、皆が尊敦を推戴し、こうして大位に就いた。
漢文
附紀、舜天王之父為朝公、生得身長七尺、眼如秋星、武勇出衆、最善射。乃日本人皇五十六世清和天皇後胤六條判官為義公第八之子也。宋紹興二十六年丙子〈和朝保元元年〉、日本神武天皇七十四世烏羽院與太子崇徳院失和構怨、各招兵戰。時爲朝公住于鎭西、投崇徳院、以助其戰、寡不勝衆、大敗被擒。諸將受誅、公見流于伊豆大島。宋乾道元年乙酉、公駕舟以遊、暴風遽起。舟人驚恐。公仰天曰、運命在天、余何憂焉。不數日、飄至一處海岸、因名其地曰運天。即今山北運天江、乃公之所飄至也。公上岸、徧行國中而遊。國人見其武勇、尊之慕之。公通于大里按司妹、而生一男。居處日久、故郷之念自難禁、要攜妻子還。乃至牧港、開舟走得數里、颶風驟起、漂囘牧港。閲數月、擇吉開洋。未數里、颶風如前。舟人皆曰、予聞、男女同舟、爲龍神所崇。請留夫人、以全性命。公不得已、乃謂夫人曰、吾與汝、情締鴛鴦、堅矢金石。奈天違人意、不能倶還。乞汝用心養育吾兒。長成之後、必可有大爲。言畢、各涙如雨。遂與妻子相別、開舟而還。夫人攜兒前至浦添而居焉。兒名尊敦。荏苒間、尊敦稍长、居動異常、器量出衆。宋淳煕七年庚子、尊敦年十五歳、才徳兼備。國人尊之、推爲浦添按司。境内大治。正會天孫氏二十五紀之裔、權臣利勇專權、遂自弑君篡位。時尊敦歳二十二、英雄無比、倡義起兵、四方應之如響。尊敦領義兵來、圍城問罪。利勇怒曰、先君無徳、予奉天命、立爲國君。汝乃孤窮匹夫、豈可敢妄動兵耶。尊敦大怒曰、汝自幼沖、深沐國恩、義宜致忠。豈有逆天簒位之理耶。吾今倡義誅賊、以謝天人之怨。言畢、激勵軍兵、一齊攻城。利勇領兵拒戰、矢石如雨。尊敦奮勇攻破城門、諸軍乘勢、殺入闕庭。利勇無力可施、遂殺妻子、自刎而死。國人大喜、皆推戴尊敦以就大位。
書き下し文
附紀、舜天王の父は為朝公、生まれながらに身長七尺を得、眼は秋の星の如し、武勇は衆に出で、最も善く射つ。乃ち日本の人皇の五十六世の清和天皇の後胤の六條判官為義公の第八の子なり。宋の紹興二十六年の丙子〈和の朝は保元元年〉、日本の神武天皇の七十四世の烏羽院と太子の崇徳院は和を失ひて怨みを構へ、各も兵を招きて戰す。時に爲朝公は鎭西に住み、崇徳院に投り、以ちて其の戰を助くるも、寡なくして衆きに勝てず、大いに敗れて擒はるる。諸の將は誅を受け、公は伊豆大島に流さるる。宋の乾道元年の乙酉、公は舟に駕りて以ちて遊べば、暴しき風は遽かに起こる。舟の人は驚き恐る。公は天を仰ぎて曰く、運命は天に在り、余は何ぞ憂うるぞ、と。日に數なし、飄ひて一處海岸に至り、因りて其の地を名づけて運天と曰ふ。即ち今の山北の運天江、乃ち公の飄ひて至る所なり。公は岸に上り、徧く國の中を行きて遊ぶ。國の人は其の武勇を見、之れを尊めて之れを慕ふ。公は大里の按司の妹と通ひ、而りて一の男を生む。居處して日は久し、故郷の念は自ら禁み難し、要りて妻子を攜ひて還らむとす。乃ち牧港に至り、舟を開きて走ること數里を得るも、颶風は驟かに起こり、牧港を漂ひ囘る。數月を閲ごし、吉を擇びて洋を開く。未だ數里もせず、颶風は前の如し。舟人は皆が曰く、予は聞けり、男と女の舟を同じくするは、龍神に崇らるる所と爲る。請ふ、夫人を留め、以ちて性命を全うせむことを、と。公は已むを得ず、乃ち夫人に謂ひて曰く、吾と汝、情の締ぶこと鴛鴦のごとし、堅く矢ふこと金石のごとし。奈にせむ、天は人の意に違ひ、倶に還ること能はず。乞ふ、汝の心を用ちて吾が兒を養育まむことを。長成が後、必ず大いに爲す有る可し、と。言ひ畢え、各の涙すること雨の如し。遂に妻子と相ひ別れ、舟を開きて還る。夫人は兒前を攜へ、浦添に至りて居へりなむ。兒の名は尊敦。荏苒の間、尊敦は稍く长け、居動は常と異なり、器量は衆を出づ。宋の淳煕七年の庚子、尊敦は年十五歳、才も徳も兼ね備ふ。國の人は之れを尊び、推して浦添の按司と爲す。境の内は大いに治まる。正會天孫氏二十五紀之裔、權臣の利勇は權を專らにし、遂に自ら君を弑して位を篡ふ。時に尊敦の歳は二十二、英雄たること比ぶもの無し、義を倡へて兵を起こし、四方も之れに應ずること響くが如し。尊敦は義兵を領めて來たり、城を圍ひて罪を問ふ。利勇は怒りて曰く、先の君に徳無し、予は天命を奉り、立ちて國君と爲る。汝は乃ち孤の窮しき匹夫、豈に敢て妄りに兵を動かす可きか、と。尊敦は大いに怒りて曰く、汝は幼沖自り、深く國の恩を沐び、義は宜しくして忠を致せり。豈に天に逆らひて位を簒ふが理有らむや。吾は今ぞ義を倡へて賊を誅め、以ちて天人の怨みを謝たむ、と。言ひ畢え、激しく軍兵を勵まし、一齊城を攻む。利勇は兵を領めて拒がむと戰ひ、矢石は雨の如し。尊敦は勇を奮いて城門を攻め破り、諸の軍も勢ひに乘り、殺して闕庭に入れり。利勇に力の施す可き無く、遂に妻子を殺し、自ら刎ねて死す。國の人は大いに喜び、皆が推して尊敦を戴き、以ちて大位に就けり。
即位元年〈宋淳熙十四年丁未〉
現代語訳
附:本国が夏正を用いたのは、舜天王からではなかろうか。だから世譜には、「舜天王乾道二年丙戌(1166年)に降誕し、淳熙十四年丁未(1187年)に即位した」と伝わるのだ。俗説では、右より以前にも布告こそしてはいたが、正確に用いてはいなかったという。思うに穀物はよく人を養うもので、この月からは旧い穀は既に成長を終え、新たな穀がうららかに稔ることから、これによって本国では六月をもって正月としたのだとか。これに基づき、そのことを考察すれば、本国が夏正を用いたのは、これ以降に始まったものだということは、もはや疑いのないことであろう。
国の人々が欹髻を結び始めた。王は右の生え際の上にツノのようなこぶがあり、いつも欹髻を右辺に結ぶことで、そのこぶを隠していた。王位に就いてから国の人々は、皆がこれにのっとり、誰もが欹髻を結ぶようになったのだ。
漢文
附、本國用夏正、自舜天王而然也歟。故世譜云、舜天王乾道二年丙戌降誕、淳熙十四年丁未即位。俗說徃右、以建未用為正。盖穀能養人、此月舊穀已遂、新穀和登、由是本國以六月為正月云爾。由是考之、本國用夏正自此而始、已無疑矣。
國人始結欹髻。王右鬢上有瘤如角、常結欹髻于右邊以掩其瘤。及就王位、國人皆法之、皆結欹髻。
書き下し文
附、本國の夏正を用ふは、舜天王自り、而ち然るなりや。故に世譜に云く、舜天王乾道二年の丙戌に降り誕まれ、淳熙十四年の丁未に位に即けり。俗に說へらくは、右徃、以ちて建つるも未だ用ちて正しきを為すことなし。盖し穀は能く人を養ひ、此月の舊穀は已に遂げ、新たな穀は和して登り、是れに由りて本國は六月を以ちて正月と為すと爾云ふ。是れに由りて之れを考ふるに、本國の夏正を用ちてするは此れ自り、而りて始まること、已に疑ふこと無からむ。
國の人は始めて欹髻を結ふ。王は右の鬢の上に瘤有ること角の如し、常に欹髻を右の邊に結びて以ちて其の瘤を掩せり。王位に就くに及び、國の人は皆が之れに法り、皆が欹髻を結べり。
都于中山
現代語訳
国城の規模が大きくなり始めた。太古の世、天孫氏の出現の最初に君主となってから、城都を中山に定めるようになり、国殿を創建し、初めて王化を開き、統べて万民に臨んだ。これより後に君王となる者は誰もがこの城に住むようになったが、規模が窮屈で狭苦しく、制度もまだ備わっていなかった。舜天王に至って大いに善政を敷き、遠きも近きも慰撫して安らげ、その規模を広めたのだ。壮観で非常に新鮮なものであった。
漢文
始宏國城規模。太古之世、天孫氏首出為君、始定城都于中山、創建國殿、肇開王化、統蒞萬民。自是之後為君王者皆居此城。然而規模窄隘、制度未備。至于舜天王、覃敷善政、撫綏遐邇、宏其規模、壯觀頗新。
書き下し文
始めて國城の規模を宏む。太古の世、天孫氏は首めて出でて君と為り、始めて城都を中山に定め、國殿を創建り、肇めて王の化を開き、統しめて萬民に蒞む。是れ自りの後に君王と為る者は皆が此の城に居す。然りて而るに規模は窄まり隘し、制度は未だ備はらず。舜天王に至りて、覃いに善き政を敷き、遐きも邇きも撫み綏らぎ、其の規模を宏むること、壯觀は頗る新たし。
於太阿母の鬼餅
現代語訳
附:遺老伝記。首里の内にある金城邑に一組の兄妹がいた。〈兄の名は伝わっていないが、妹には娘が一人いて『於太』と名付けられていた。だから『於太阿母と称する。〉同じひとつの邸宅に住んでいたが〈その邸宅は現在の封為小嶽にある。〉その後に兄が大里郡の北の洞穴の中に住むようになって、時どき人を殺して肉を食うようになり、村中の人々は大里鬼と呼ぶようになった。妹がたまたま赴いて訪ねたが、家に不在で、竈の上の釜の中を見ると、人の肉が煮られているのが見えた。妹は驚いて走り去ったが、途中で兄にばったりと出会ってしまった。兄は言った。
「お前さんはどうして急いで帰っているのだ。俺は美味い肉を持っているから、お前も食べようじゃないか。」
妹は「家で大事な用事があるので……」と言ったが、兄は無理やり彼女を止めようとした。妹は何も言うことができなくなってしまい、一緒に家まで着いたところで、にわかに奇策を思いついた。懐に抱いた幼い娘の腿をこっそりとつねり、大声をあげて泣くように仕向けてみると、これを兄が問うた。妹は「この子、用を足したいみたい。少しばかり窓の外に出て用を足させてあげて。」と言った。兄が「家の裏で用を足して何の問題もあるまい。」と言うと、妹は「家の裏で用を足すのは失礼よ。」と言って堅く外に出たいと頼んだ。兄はそこで妹の手を小縄で縛り、野外の廝に行かせることにした。妹は小縄を木の枝の上にかけ、そのまま逃げ去ることができた。兄は、妹が逃げて遅くなっているのではないかと疑い、そちらに出て見に行くと、案の定いなかったので、追いかけて北の嶺までたどり着き、大声で「待て!(等我)」と叫んだ。妹は猛虎が歩き回るかのように匍匐してそのまま去った。これによってその地を『等川』といい、次にその嶺を『生死坂』と名付けた。
その後、兄が妹を訪問しに首里へ来た。妹はにわかに一計を案じ、兄に岸の上に座るように頼んだ。こうして鉄の餅を七つと〈糯米の餅ではあるが、中に鉄の丸が包んである。〉、蒜を七本を作り、つまり米の餅を七つ、蒜を七つである。兄に鉄の餅と蒜を差し出すと、鬼人は食べようにも食べられない。この時、妹は裙の前側を開き、兄の前で脚を前に出して股を広げ、膝を立てて座り込んだ。怪しんだ兄はこれを問うた。妹は言った。
「私の身体はふたつの口を持っている。下の口では鬼を食べることができる。上の口では餅と蒜を食べることができる。」
兄は驚いて慌てふためき、岸の後ろに転がり落ちて死んだ。これによって毎年十二月、必ず吉日を選んで国の人々の皆で餅を作り、これを食べることでその鬼の災厄を避けた幸運にあやかろうとするのだとか。〈鬼餅節はここから始まった。〉ただし首里内の金城邑でだけは、平素から毎年十二月の内に六回も鬼餅を作り、神に献上してからこれを食べる。今の十二月の初め、庚の日に一回、次の庚の日に一回、ともに数えて計二回である。松川の地頭は必ず與那霸堂の田米から二斗五升を提供し、これで根神人に与える。根神人は、そこで鬼餅を作り、小嶽に供祭する。その田畑は松川の里主の土地のかかるものである。
漢文
附、遺老傳記、首里內金城邑有一兄一妹〈兄名不傳。妹有一女名叫於太、故稱於太阿母。〉同住一宅〈其宅于今封為小嶽。〉次後、兄遷居大里郡北洞中、時時殺人吃肉、村中人叫大里鬼。妹偶往問候、不在家、但見竈上釜中煮人肉。妹驚走、中途遇兄。兄曰、汝何急歸。我有美肉、要使汝吃。妹曰、家有要事。兄強畱之、妹無詞可辭、同到家。忽設奇謀、密摂懐內孩女之腿、使他大哭。兄問之、妹曰、此孩要下便、請暫到窓外下便。兄曰、家裏下便亦何妨。妹曰、家裏下便、非禮。堅請外出。兄即以小繩縛妹手、令行茅廝。妹將小繩掛樹枝上、遂為逃去。兄疑妹回遲、出而視之、果然不在。趕到北嶺、大叫等我。妹如猛虎跑来一般匍匐而去。因叫其地曰等川、又叫其嶺曰生死坂。厥後、兄問候妹、来首里。妹遽為一計、請兄坐岸上。即作鉄餅七顆〈糯米為餅、內裝鉄丸。〉、蒜七根、且米餅七顆、蒜七根。給兄鉄餅並蒜。鬼人要吃而不能。時妹開前裙、箕居兄前。兄怪問之。妹曰、吾身有二口、下口能喰鬼、上口能喰餅與蒜。兄大驚、慌忙跌落後岸而死。由是每年十二月、必擇吉、國人皆作餅吃之、以傚其避鬼災之賀云爾。〈鬼餅節自此而始。〉但首里內金城邑、素有每年十二月內六次作鬼餅、獻神以吃之。而今十二月初、庚日一次、又庚日一次、共計二次、松川地頭必出與那霸堂之田米二斗五升、以與根神人。根神人即作鬼餅、供祭小嶽。其田係乎松川里主地。
書き下し文
附、遺老傳記、首里の內の金城邑に一兄一妹有り〈兄の名は傳はらず。妹に一の女有り名は於太と叫けり、故に於太の阿母と稱ふ。〉同じく一つの宅に住み〈其の宅は今の封為小嶽に于り。〉次いで後、兄は遷りて大里郡の北の洞の中に居ひ、時時に人を殺して肉を吃み、村の中の人は大里鬼と叫ふ。妹は偶往きて問候ねむとするも、家に在らず、但だ竈の上の釜の中を見れば人の肉を煮らる。妹は驚きて走れ、途中ばにして兄に遇ふ。兄は曰く、汝は何を急ぎて歸る。我に美の肉有り、汝を使て吃ませしめむと要む、と。妹は、家に要事有り、と曰ふも、兄は強いて之れを畱めむとし、妹は詞の辭ふ可き無し、同じく家に到れり。忽ち奇しき謀を設け、密かに懐の內の孩き女の腿を摂み、他を使て大いに哭けり。兄は之れに問はば、妹曰く、此の孩は便を下さむと要む、暫し窓の外に到りて便を下さむことを請はむ、と。兄曰く、家の裏、便を下すこと亦た何の妨げならむ、と。妹曰く、家の裏、便を下すは禮に非ず。堅く外に出でむと請ふ。兄は即ち小さき繩を以ちて妹の手を縛り、茅の廝に行か令む。妹は小さき繩を將ちて樹の枝の上に掛け、遂に逃げ去ることと為る。兄は妹の回れて遲きを疑ひ、出でて之れを視れば、果然在らず。趕ひて北の嶺に到り、大いに等我と叫ぶ。妹は猛き虎の一般を跑来が如く匍匐て去る。因りて其の地を叫けて等川と曰ひ、又た其の嶺を叫けて生死坂と曰ふ。厥の後に兄は妹を問候ね、首里に来たり。妹は遽かに一つの計を為し、兄に岸の上に坐すべしと請へり。即ち鉄の餅の七顆〈糯米の餅と為るも、內に鉄の丸を裝む。〉、蒜の七根を作り、且つ米の餅の七顆、蒜の七根たり。兄に鉄の餅並びに蒜を給ふ。鬼人は吃はむと要む、而れども能はず。時に妹は前の裙を開き、兄の前に箕居す。兄は怪しみて之れを問ふ。妹曰く、吾が身に二つの口有り、下の口は能く鬼を喰ひ、上の口は能く餅と蒜を喰ふ、と。兄は大いに驚き、慌忙き岸の後ろに跌り落ちて死ぬ。是れに由りて年每の十二月、必ず吉を擇び、國の人の皆が餅を作りて之れを吃み、以ちて其の鬼の災を避くるが賀に傚ふと爾云ふ。〈鬼餅節は此れ自り而ち始む。〉但だ首里の內の金城の邑のみ、素より年每の十二月の內に六次も鬼餅を作り、神に獻りて以ちて之れを吃む有り。而るに今の十二月の初め、庚の日に一次、又た庚の日に一次、共に計えて二次、松川の地頭は必ず與那霸堂の田米の二斗五升を出し、以ちて根神人に與ふ。根神人は即ち鬼餅を作り、供へて小嶽に祭る。其の田は松川の里主地に係る。