本巻之一 義本王

神號

現代語訳

 神號は伝わっていない。


漢文

 神號不傳。

書き下し文

 神號は傳はらず。

元年

現代語訳

 即位元年〈宋淳祐元年(公歴1241年)の己酉つちのととり

漢文

即位元年〈宋淳祐元年己酉〉

書き下し文

 位にきたるはぢめの年〈宋淳祐元年の己酉つちのととり

十一年

現代語訳

 十一年(公歴1252年)、王は、飢餓と疫病が並行したことから、位を英祖に譲った。王位に就いた後、飢饉が頻繁に加わり、疫病が大いに起こり、人民の半ばが失われた。大いに驚いた義本は群臣を召して言った。

「先君の世には国が豊かになり人民が安らいでいたというのに、今の私には徳がなくに徳がなく、飢餓と疫病が併行している。これは天に見棄てられたからだ。私はこれから有徳の者に位を譲り、引退することにしよう。お前たちよ、私のためにその者を推挙せよ。」

 群臣の皆が言った。

「恵祖世主の嫡子、名は英祖、生まれれば瑞徴が現れ、聖徳は大いにあらわれ、国の人々が彼を尊敬しています。」

 義本は大喜びで英祖を召し、国の事業を代行させてみると、はたして疫病が止んで豊作となった。政務を代行すること七年、人心はすべて彼に帰服した。宋宝祐七年(公歴1259年? 宋宝祐は6年まで)の己未つちのとひつじ、義本の年齢は五十四、在位十一年にして、英祖に諭した。

「私は天に見棄てられてしまい、民の半ばを失わせてしまった。今はそなたが政務を執り、作物は豊穣にして人民は安泰なのは、天からの恵みに違いない。どうか大いなる道統を継承し、人民の父母となるがよい。」

 英祖は固く辞去したが、群臣の皆が彼に勧めた。義本は遂に位を英祖に譲って隠居した。彼が隠遁した場所は、今となっては考察することはできない。

(※年次が全体的におかしいが、そのまま訳を記す。)

漢文

 十一年、王以饑疫並行、讓位英祖。王就位之後、饑饉頻加、疫癘大作、人民半失。義本大驚、召群臣曰、先君之世、國豐民安。今予無徳、饑疫并行、是天之所棄也。予要讓位于有徳而退。卿等爲我擧之。群臣僉曰、恵祖世主之嫡子、名英祖、生有瑞徴、聖徳大著。國人尊之。義本大喜、召英祖、摂國事、果然疫止年豐。摂政七年、人心皆歸之。宋寶祐七年己未、義本年五十四、在位十一年。諭英祖曰、予爲天所棄、致民半失。今汝秉政、年豐民泰、乃天之所眷也。宜承大統、為民父母。英祖固辭。群臣皆勸之。義本遂讓位于英祖而隱。其隱處今無可考。

書き下し文

 十一年、おひきみうゑやまひの並びをこるを以ちて、位を英祖に讓る。おほきみの位に就きてののち饑饉うゑは頻りに加はり、疫癘はやりやまひは大いにをこり、人民たみは半ばにつ。義本は大いに驚き、群臣もろをみを召して曰く、先君の世、國は豐かにして民は安らぐ。今の予に徳無し、うゑやまひの并せてをこるは、是れ天の棄つる所なり。予はまさに位を有徳よきひとに讓りて退かむとす。卿等そちらは我が爲に之れを擧げよ、と。群臣もろをみことごとく曰く、恵祖世主の嫡子、名は英祖、生まるるに瑞徴きざし有り、聖徳大いにあらはれり、と。國のひとびとは之れを尊ぶ。義本は大いに喜び、英祖を召して國の事を摂らしむれば、やまひは止みてみのりは豐かとなり、まつりごとを摂ること七年、人の心は皆が之れにけり。宋寶祐七年の己未つちのとひつじ、義本のよはひは五十四、位にすこと十一年。英祖に諭して曰く、予は天に棄つらるる所と爲り、民の半ばはぬに致る。今のいましまつりごとり、みのり豐かにして民のやすらぐは、乃ち天にめぐまるる所なり。宜しく大いなるみちけ、民の父母かぞいろれ、と。英祖は固くことはれり。群臣もろをみは皆が之れを勸む。義本は遂に位を英祖に讓りてかくる。其の隱るる處、今は考ふる可くも無し。

底本

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