本巻之一 天孫氏

附紀

現代語訳

 附紀:天孫氏、かつて天帝子が初めて国君となった時に天孫氏を称した。それからしばらく互いが譲り合って伝えること二十五紀、乙丑 ( きのとうし)から起こって丙午 ( ひのえうま)に竭尽したが、一万七千八百二年にわたってすべてが天孫氏の裔孫である。天孫氏以後について概略を説明しよう。当初は淡白なもので欲望もなく無為、民俗は純朴であり文字を書くこともまだ始まっておらず、月の満ち欠けを眺めることで時節と時候を紀 ( しる)し、草が繁るか枯れるかによって歳年を定めた。治世の継承はあまりに久しく、名も氏も埋もれて伝わらなかった。よって代わりの事柄について、ここに合わせて記録する。


漢文

 附紀、天孫氏乃天帝子、始為國君、稱天孫氏。既而交讓相傳、凢二十五紀、起乙丑、盡丙午、歴一萬七千八百有二年、皆天孫氏之裔孫也。盖已天孫氏之初、澹泊無為、民俗淳樸、而書契未興、望月虧盈以紀時節候、草榮枯以定年歲。繼治已久、湮名氏不傳。故代事合而記焉。

書き下し文

 附紀 ( つけたし)、天孫氏、乃 ( かつ)て天帝子の始めて國君 ( くにぎみ)と為り、天孫氏を稱 ( なの)る。既而 ( やがて)は交 ( こもごも)讓りて相ひ傳へ、凢そ二十五紀、乙丑 ( きのとうし)に起こり、丙午 ( ひのえうま)に盡き、一萬七千八百有二年 ( ひとよろづあまりななちあまりやほあまりふたつ)を歴るは、皆が天孫氏の裔孫 ( すゑ)なり。盖し已に天孫氏の初め、澹泊 ( からり)として為すこと無く、民の俗 ( ならはし)は淳樸 ( すなほ)、而りて書契 ( ふみ)は未だ興らず、月の虧くると盈つるを望み、以ちて時の節 ( ふしめ)と候 ( ころあひ)を紀 ( しる)し、草の榮え枯れにして以ちて年歲 ( とし)を定む。治 ( まつりごと)を繼ぐこと已に久しく、名も氏も湮 ( ほろ)ぼして傳はらず。故に代はりの事、合はせて焉れ記しなむ。

教民烹飪

現代語訳

 五穀を生み、田畑を耕して種や苗を植えて飲食することの教化や、頭巾と衣裳、家屋と廬 ( いおり)を製造することが始まった。天孫氏が継承して統治している間のこと、民に料理を教えることで、これを民は利益とし、民に巣の住居を教えることで、これに民は安居したが、まだ穀物の植え付けや収穫を知らず、鳥や獣を追いかけて捕まえ、それを食事とし、果実を拾い集め、それを飯としていた。またしても歳月を経て、天然の麦、粟、黍 ( きび)が久高島 ( くだかじま)に生え、稲の苗が知念 ( ちにん)、玉城 ( たまき)に生えると、民に田畑を耕して種や苗を植えることを教えるようになった。農業が興ったのだ。〈麦は春に稔り、稲は夏に稔ることから、旧来の制度では、国君は毎年二月に久高島 ( くだかじま)に行幸し、四月に知念 ( ちにん)と玉城 ( たまき)に行幸し、親 ( みずか)ら祭祀を執り行うことで、天上の神と大地の神が万物を形成する徳に報いていた。康煕十二年(1673年)の癸丑 ( みずのとうし)、道のりが遠く海が阻んでいることを理由に旧来の制度を初めてあらため、使者を派遣して祭祀の代わりとした。『定規』と著する〉繇役はここで初めて規模に興り、民の習俗は大いに変わった。かつては皮や草によって身体を蔽っていたのに、今や初めて頭巾と衣裳をまとっているようになり、かつて巣や穴ぐらを住居としていたのに、今や初めて家屋や廬を有するようになった。また海水の暴逸から塩をつくり、木の汁から酢をつくり、米麪を醸して酒をつくるようになった。その味は非常に薄い。こうして民の習俗は急速に移り変わり、かつての習俗に戻ることはなくなった。


漢文

 始生五穀、以教耕種飲食。且製造巾裳屋廬。天孫氏繼治之間、教民烹飪、而民利之、教民巢居、而民安之。而未知稼穡、逐捕禽獸以爲食、拾收菓實以爲飯。歴年亦久。麥、粟、黍天然生于久高島、稻苗生于知念、玉城。始教民耕種、而農事興矣。〈麥春熟、稻夏熟。是故舊制、國君毎年二月幸久高島、四月幸知念、玉城、親自致祭、以報皇天后土成物之徳也。康煕十二年癸丑、以道遠海阻之故、始改舊制、遣使代祭。著爲定規〉繇是規模始興、民俗丕變。昔之皮草蔽體者、今始有巾裳、昔之巣居穴處者、今始有屋廬。亦暴海水爲鹽、木汁爲酢、釀米麪爲酒、其味甚薄。而民習駸駸乎、非復前日之俗矣。

書き下し文

 始めて五 ( いつくさ)の穀 ( たなつもの)を生み、以ちて耕 ( はたけ)と種 ( たねうゑ)して飲み食ひするを教へ、且つ巾 ( はば)裳 ( ころも)屋 ( いへ)廬 ( いほり)を製造 ( つく)らしむ。天孫氏の繼ぎ治むるが間は、民に教へて烹飪 ( くりやのこと)をせしむれば、而 ( すなは)ち民は之れに利 ( ま)し、民に教へて巢居 ( すまひ)せしむれば、而 ( すなは)ち民は之れに安ず。而れども未だ稼 ( う)へて穡 ( かりいれ)するを知らず、禽 ( とり)と獸を逐ひて捕へ、以ちて食 ( いひ)と爲し、拾ひて菓實を收め、以ちて飯と爲す。年を歴ること亦た久し。麥 ( むぎ)、粟 ( あわ)、黍 ( きび)の天然 ( まにまに)は久高島 ( くだかじま)に生え、稻の苗は知念 ( ちにん)、玉城 ( たまき)に生ゆ。始めて民に種 ( たねうゑ)と耕 ( はたけ)を教 ( をし)へ、而りて農 ( はたけ)の事 ( つとめ)は興りなむ。〈麥は春に熟 ( みの)り、稻は夏に熟 ( みの)る。是れ故に舊 ( かつ)ての制 ( しきたり)、國君 ( くにぎみ)は年毎 ( としごと)の二月に久高島 ( くだかじま)に幸 ( みゆき)し、四月に知念 ( ちにん)と玉城 ( たまき)に幸 ( みゆき)し、親自 ( みづか)ら祭 ( まつり)を致し、以ちて皇天 ( あまつかみ)と后土 ( くにつがみ)の物を成すが徳に報ゆなり。康煕十二年の癸丑 ( みづのとうし)、道の遠く海の阻むが故を以ちて、始めて舊 ( かつ)ての制 ( しきたり)を改め、使 ( つかひ)を遣はして祭 ( まつり)を代ふ。著はして定規と爲す〉繇 ( えだち)は是に規模 ( おほのか)なること始めて興り、民の俗 ( ならはし)は丕 ( おほ)いに變はれり。昔の皮草の蔽體 ( きもの)なる者、今や始めて巾 ( はば)と裳 ( ころも)有り、昔の巣の居 ( すまひ)と穴 ( あなぐら)の處 ( すみか)の者、今や始めて屋 ( いへ)と廬 ( いほり)有り。亦た暴 ( はげ)しき海水は鹽と爲り、木の汁は酢と爲り、米麪を釀して酒を爲 ( つく)るも、其の味は甚と薄し。而りて民の習 ( ならひ)は駸駸乎 ( せかせか)とし、前日 ( かつて)の俗 ( ならひ)に復 ( もど)ること非ざらむ。

国為三邑

現代語訳

 国を三つの邑に分けて城と都を建て、土地を区切って郡に分け、そこに按司を置くようになった。互いのそれら山川が三区に分かれたことの始まりで、ひとつは中頭といい、つまり中山のことである。ひとつは国頭といい、つまり山北のことである。ひとつは島尻といい、つまり山南のことである。そして城都を中山に建て、首里と名付け、次に土地を区切って郡に分け、〈俗では郡を『間切 ( マジリ)』と呼ぶ。〉郡ごとに按司 ( アジ)を置き、首里に仕え奉り、こうして上下は安楽となった。


漢文

 始分國為三邑、且建城都、畫野分郡、以置按司。始相厥山川、分為三區:一曰中頭、即中山也、一曰國頭、即山北也、一曰島尻、即山南也。且建城都于中山、名曰首里、次後畫野分郡、〈俗呼郡曰間切。〉毎郡置按司、奉事于首里、而上下安矣。

書き下し文

 始めて國を分けて三つの邑と為し、且つ城と都を建て、野を畫 ( くぎ)りて郡を分け、以ちて按司を置けり。始めて相ひ厥 ( そ)の山川、分けて三區と為し、一に中頭と曰ひ、即ち中山なり、一に國頭と曰ひ、即と山北なり、一に島尻と曰ひ、即ち山南なり。且つ城都を中山に建て、名づけて首里と曰ひ、次の後に野を畫 ( くぎ)りて郡 ( こほり)を分け、〈俗は郡を呼びて間切と曰ふ。〉郡毎 ( こほりごと)に按司を置き、奉りて首里に事へ、而りて上下は安ずられり。

諸神出現

現代語訳

 諸神が出現し、国の繁栄を護衛した。当時の風俗は純朴だったので、民の習俗も正直で誠実なものであり、神が出現すると詫遊する者がいて、国の人々はこれを『君真物 ( キムマムン)』と呼んだ。さて、諸神の詫遊は、必ず婦女に係り、故に国の人々もこれを尊び、『女君』と呼んだ。神は婦人のうち複数の夫がいない者を形代にして降臨する。するといくつもの霊異を著し、国に良くない者がいれば、神はすぐ王に告げ、その人を指し、これを捕らえていたので、国の人々はびくびくと畏怖し、憚って軽侮や失礼をしようとはしなかった。その神は唯一ではない。名も同じではない。烏富津加久羅 ( ウフツカグラ)の神とは、天神である。〈この神に管掌される職は、現在では考察することは難しい。〉儀来河内 ( ニライカナイ)〈キライカナイ〉の神とは、海神である。〈この神に管掌される職は、現在では考察することは難しい。〉君手摩〈キミテスリ〉の神とは、天神である。〈この神は、つまり国君の位に登って統治を継承する時、つまり一代一次の出現であり、国君の万歳の寿命を祝う。二七日ほど詫遊し、今に至るまで相伝されている。御唄とは、つまりその時の詫宣である。〉新懸 ( アラガカリ)の神とは、海神である。〈この神は五年に一次、あるいは七年に一次の出現である。すべての人の心が誠実で真心のある者たちの家には、この神は親 ( みずか)ら来訪し、寿命の延年を祝い、邪悪で詭詐な者の家に来訪することはあり得ない。また、不善をおこなう者に、この神は宣言してから刑罰を加える。これも二七日の詫遊である。〉荒神 ( アラカン)とは、海神である。〈この神は三十年に一次、あるいは五十年の一次、当世の治道が衰微し、不仁にして乱逆の徒が思うままに悪事をはたらこうと心するようになった時、神はすぐに出現し、刑罰を加える。これぞ勧善懲悪の神である。二七日ほど詫遊する。必ず奥に現れることから、俗に奥之公事 ( ワウノミヲヤタイリ)という。〉浦廵〈ウラマクリ〉の神とは、天神である。〈この神も国君の一代につし一次に出現する。あまねく国土を巡り、そして国の繁栄を護衛する神である。〉與那原公事〈ミラヤタイリ〉とは、陰陽の神を兼ねている。〈この神は聞得大君の初の詫の時に詫遊を作り、同じく二七日の詫遊である。與那原 ( よなばる)に出現し、故に俗に與那原公事というのだ〉月公事とは、天神である。〈この神は毎月一次の出現で、国の繁栄を護衛して国君の万歳の長寿を祝う。一日の詫遊である。〉河内君真物〈カナイノキミマミン〉とは、海神である。〈この神は春三月、夏六月、秋九月、冬十二月、一年の四次の出現である。これも同じく国の命運を護衛する神である。季節ごとの七日の詫遊で、故に俗に七の公事という。〉五穀神とは、五穀を護衛する神である。〈おりおりに出現する。〉当時の人々の心は純朴で誠実、これらを極めて深く信仰していた。遺老伝には、「かつての世の人心は篤実、神は常に彼らの為に護衛し、感があれば必ず応じた」とある。この間には海賊が侵しに来れば、神はすぐにそやつらの米を砂に変化させ、そやつらの水を塩水に変化させ、あるいは寇賊を盲目や聾唖にした。忽然と暴風雨がにわかに起こり、舟のすべてが沈没し、転覆し、崩壊し、断裂した。後世に至り、人の心には巧妙な仕組みを持つようになり、祭に臨んでも怠けきってしまうようになった。だから護衛の神は恒常的に姿を見せることは二度となくなってしまったのだと言われている。〈詫遊の俗伝は、豊王の世に至ってもまだ保存されているのだ。〉


漢文

 諸神出現護衛國祚。當時風俗淳樸、民習端愨。有神出見、而詫遊者、國人呼之曰、君真物。夫諸神詫遊、必係婦女、故國人亦尊之曰、女君。神以婦人不二夫者爲尸降。則數著靈異、國有不良。神輒告王、指其人擒之、故國人竦然畏憚、不敢侮侵。其神不一、名亦不同。烏富津加久羅神者、天神也。〈此神所掌之職、今難考焉。〉儀來河内〈キライカナイ〉神者、海神也。〈此神所掌之職。今難考焉。〉君手摩〈キミテスリ〉神者、天神也。〈此神乃國君登位承統。即一代一次出見、祝國君萬歳之壽。二七日詫遊、至今相傳。御唄者、乃其時之詫宣也。〉新懸神者、海神也。〈此神五年一次、或七年一次出見。凡人心 志誠篤者之家、此神親自來格、祝壽延年、邪詭者之家、必不來格。亦人之行不善者、此神宣言、加刑罰。此亦二七日之詫遊也。〉荒神者、海神也。〈此神三十年一次、或五十年一次。當世道衰微、不仁亂逆之徒、恣心衡行之時、神即出見、加刑罰。是懲悪勸善之神也。二七日詫遊、必于奥出見。故俗云奥之公事(ワウノミヲヤタイリ)。〉浦廵〈ウラマクリ〉神者、天神也。〈此神亦國君一代一次出見。徧巡國土、而護衞國祚之神也。〉與那原公事〈ミラヤタイリ〉者、兼陰陽之神也。〈此神于聞得大君初詫之時作詫遊、亦二七日詫遊也。于與那原出見、故俗云與那原公事〉月公事者、天神也。〈此神毎月一次出見、護衛國祚。祝國君萬歳之壽。一日詫遊也。〉河内君真物〈カナイノキミマミン〉者、海神也。〈此神春三月、夏六月、秋九月、冬十二月、一年四次出見。是亦護衞國運之神也。毎季七日詫遊、故俗曰七之公事。〉五穀神者、護衛五穀之神也。〈節節出見。〉當時之人、心志朴實、信之極深。《遺老傳》有云、徃昔之世、人心篤實、神常爲之護衞、有感必應。間有海寇來侵、則神輒化其米爲沙、其水爲鹹、或使寇賊爲盲唖。忽然颶風遽起、舟皆沈覆崩裂。至後世、人心機巧、臨祭懈怠。故護衞之神不復常見云爾。〈詫遊之俗傳、至豐王世尚有存焉。〉

書き下し文

 諸 ( もろもろ)の神 ( かみがみ)は現 ( うつつ)に出 ( い)で、國の祚 ( さいはひ)を護衛 ( まも)れり。當時 ( とき)の風俗 ( ならはし)は淳樸 ( すなほ)にして、民の習 ( ならひ)も端愨 ( まこと)たり。神 ( かみがみ)出で見 ( あらは)るるにして詫遊する者有り、國の人 ( ひとびと)は之れを呼びて君真物 ( きむまむん)と曰ふ。夫れ諸 ( もろもろ)の神 ( かみがみ)の詫遊、必ず婦女 ( をみな)に係り、故に國の人 ( ひとびと)も亦た之れを尊 ( たふと)びて女君と曰ふ。神は婦人 ( をみな)の二夫 ( ふたりのおとと)にあらざる者を以ちて尸 ( かたしろ)と爲して降れり。則ち數 ( しばしば)靈異 ( あたしき)を著し、國に良からざる有らば、神は輒 ( すなは)ち王 ( おほきみ)に告げ、其の人を指して之れを擒 ( とら)へ、故に國の人 ( ひとびと)は竦然 ( びくびく)として畏れ憚り、敢へて侮り侵すことなし。其の神は一にあらず、名も亦た同じからず。烏富津加久羅神なる者、天神 ( あまつかみ)なり。〈此の神に掌 ( つかさど)らるる所の職 ( つとめ)、今は考ふること焉れ難きなむ。〉儀來河内〈キライカナイ〉神なる者、海神 ( わたつみ)なり。〈此の神に掌らるる所の職 ( つとめ)。今は考ふること焉れ難きなむ。〉君手摩〈キミテスリ〉神なる者、天神 ( あまつかみ)なり。〈此の神は乃ち國君 ( くにぎみ)の位に登りて統 ( しらす)を承く。即ち一代一次の出見 ( あらはれ)にして、國君 ( くにぎみ)の萬歳 ( よろづ)の壽 ( いのち)を祝 ( いは)へり。二七日 ( ふたそあまりななつ)詫遊し、今に至りて相ひ傳ふ。御唄なる者、乃ち其の時の詫宣なり。〉新懸神なる者、海神 ( わたつみ)なり。〈此の神は五年にして一次、或は七年にして一次の出見 ( あらはれ)。凡そ人の心の誠篤 ( まこと)を志す者の家、此の神は親自 ( みづか)ら來て格 ( いた)り、壽 ( いのち)の年を延ぶることを祝 ( いは)ひ、邪詭 ( よこしま)なる者の家、必ず來て格 ( いた)ることなし。亦た人の行ひの善からぬ者、此の神は宣べて刑罰 ( しをき)を加へむと言ふ。此れ亦た二七日の詫遊なり。〉荒神なる者、海神 ( わたつみ)なり。〈此の神は三十年の一次、或は五十年の一次。當世の道の衰微 ( おとろへ)、不仁 ( ひとでなし)にして亂逆 ( さかしま)の徒、恣 ( ほしひまま)に衡行 ( よこしま)を心するが時、神は即ち出見 ( あらは)れ、刑罰 ( しをき)を加ふ。是れ悪を懲らしめ善を勸むるが神なり。二七日 ( はたちあまりななつ)の詫遊、必ず奥に出見 ( あらは)る。故に俗は奥之公事 ( ワウノミヲヤタイリ)と云ふ。〉浦廵〈ウラマクリ〉神なる者、天神 ( あまつかみ)なり。〈此の神も亦た國君 ( くにぎみ)の一代一次に出見 ( あらは)る。徧く國土 ( つち)を巡り、而りて國の祚 ( さいはひ)を護衞 ( まも)るが神なり。〉與那原公事〈ミラヤタイリ〉なる者、陰陽の神を兼ぬるなり。〈此の神は聞得大君の初めての詫が時に詫遊を作り、亦た二七日の詫遊なり。與那原 ( よなばる)に出見 ( あらはれ)、故に俗は與那原公事と云ふ〉月公事なる者、天神 ( あまつかみ)なり。〈此の神は月毎の一次の出見 ( あらはれ)、國の祚 ( さいはひ)を護衛 ( まも)り、國君 ( くにぎみ)の萬歳 ( よろづ)の壽 ( いのちながし)を祝ふ。一日の詫遊なり。〉河内君真物〈カナイノキミマミン〉なる者、海神 ( わたつみ)なり。〈此の神は春三月、夏六月、秋九月、冬十二月、一年の四次の出見 ( あらはれ)。是れも亦た國の運 ( さだめ)を護衛 ( まも)るが神なり。季 ( とき)毎 ( ごと)の七日の詫遊、故に俗は七の公事と曰ふ。〉五穀神なる者、五 ( いつくさ)の穀 ( たなつもの)を護衛 ( まもる)が神なり。〈節節 ( ふしぶし)に出見 ( あらは)る。〉當時 ( とき)の人の心志 ( こころ)は朴實 ( すなほ)、之れを信 ( まこと)とすること極めて深し。遺老傳に、徃昔 ( かつて)の世、人の心は篤實 ( まこと)にして、神は常に之れの爲に護衞 ( まも)り、感有らば必ず應 ( こた)ふと云ふ有り。間に海の寇 ( あた)の侵しに來たる有らば、則ち神は輒 ( すなは)ち化けて其の米は沙と爲り、其の水は鹹と爲り、或は寇賊を使 ( し)て盲唖爲 ( た)らしむ。忽然 ( たちまち)に颶風 ( はやて)は遽 ( には)かに起こり、舟は皆が沈み覆り崩れ裂く。後の世に至り、人の心は巧みを機 ( もち)ひ、祭に臨みても懈怠 ( なま)けり。故に護衞 ( まもり)の神は復 ( ふたた)び常に見 ( あらは)るることあらじと爾 ( しか)云ふ。〈詫遊の俗傳、豐王の世に至りて尚ほ存 ( あ)る焉れ有りなむ。〉

諸國相通

現代語訳

 隋の煬帝は何度も使者を遣わせ、帰順するようにはたらきかけたが従わなかった。隨の大業元年(605年)乙丑(きのとうし)、船乗りの何蛮が春と秋のふたつ季節ごとの天と風が清静となる時、東を眺めてみると、ぼんやりと煙や湯気のような気が現れ、幾千里になるかわからないほどであるのが見えた。三年(607年)の丁卯(かのとう)、煬帝が羽騎尉の朱寛に海へ向かい異俗を訪ね求めるように言いつけていたので、船乗りの何蛮はそのことを言った。こうして何蛮と一緒に本国へたどり着いた。はるか地の果てを望むと、怒涛の大波の狭間が、とぐろのようにうねりまわり、その形は虬(みずち)が水の中に浮かんでいるかのようであったので、流虬と名付けた。〈ついで後に名を『流求』に改めた。だから唐宋の官吏は皆が『流求』という。〉言葉は互いに通じず、こっそりと一人を拉致して帰った。明年(608年)には、皇帝は朱寛に言いつけし、帰順するようにもう一度はたらきかけさせたが従わなかった。朱寛は我が国の布や甲冑等の物を取って帰還した。皇帝はまたしても武賁郎将陳稜や朝請大夫張鎮州等を遣わせ、兵を引率させた。国にたどり着き、その軍はあまりに多かった。この時、陳稜は南方諸国の人々を引き連れて従軍させていた。その軍の中には崑崙人がいて我が国の言語を大いに理解できた。陳稜はその軍人に言いつけて彼らに帰順するように説諭させたが、国の人々は拒否して逆らい、従わなかった。ついに逆戦となったが、我が軍は敗走し、陳稜は大軍を駆って兵が進み、城都(グスク)までたどり着いて何度も戦い、またしても敗れた。陳稜は我が国の宮室を焼き払い、男女千人あまりを捕虜とし、戦利品を載せて帰ったが、そのまま隋は遂に絶亡し、二度と遣使が来ることはなかった。

 広汎に諸国と相通じ、貿易した。隋氏が滅亡した後、唐を経て宋に至っても、まだ朝貢しに中華へ入ることはなかった。おそらく本国の船隻は、諸国に往来して兌換や貿易をおこない、国の使用に備えることしかできなかったのだろう。この時に船を渡して往来する者があれば、必ず憲令を奉げた後で海洋を通過しなくてはならなかったが、その後というものは、誰もが兵乱によって私的に内密で海を過ぎるものがあまりに多くなった。だから宋史流求伝には、「淳熙の年間に流求はいつも数百軍を率い、突如として泉州の水澳頭等の村に来て、ほしいままに殺人と掠奪をおこなった。」とある。これに依拠してこのことを考察してみるに、天孫氏の末孫のうち、まだ諸国に通じていた者はほとんどいなかったはずだ。深く惜しむべきことだ。


漢文

 隋煬帝屢遣使招撫、不從。隨大業元年乙丑、海師何蠻、毎春秋二時、天清風靜、東望、依稀似有烟霧之氣、亦不知幾千里。三年丁卯、煬帝令羽騎尉朱寛入海訪求異俗。海師何蠻言之。遂與蠻倶抵本國。遙觀地界、於波濤間蟠旋蜿延、其形若虬浮水中、名曰流虬。〈嗣後改名流求。故唐宋之吏、皆曰流求。〉言不相通、掠一人而返。明年、帝令朱寛復至撫之、不從。寛取我布甲等物而還。帝復遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州等率兵至國、其軍甚衆。時稜將南方諸國人從軍、其軍中有崑崙人、頗解我語。稜令其軍人慰諭之。國人拒逆不從、終爲逆戰。我軍敗走。稜大驅軍兵進、至城都、頻戰、又敗。稜焚我宮室、擄男女千餘人、載軍實而返。自爾隋遂絶、不復遣來。

 汎與諸國相通、以致貿易。隋氏既亡、歴唐至宋、未嘗入貢中華。惟能本國船隻徃來諸國兌換貿易、以備國用耳。此時有航船徃來者、必奉憲令、而後過海洋也。至于後厥、皆因兵乱而私竊過海者甚衆。故宋史流求傳云、淳熙年間、流求常率數百軍猝至泉州之水澳頭等村、肆行殺掠爾。由是考之、天孫氏裔流之未通于諸國者鮮矣、深可惜也哉。

書き下し文

 隋の煬帝は屢(しばしば)使を遣はして招き撫(めぐ)むも從はず。隨の大業元年乙丑(きのとうし)、海師(ふなのり)の何蠻は、春秋の二時毎に、天は清らかにして風は靜か、東に望み、依稀(かすか)に烟霧の氣有るに似たり、亦た幾千里なるを知らず。三年の丁卯(かのとう)、煬帝は羽騎尉の朱寛に令(いひつけ)して海に入らしめ異なる俗(ならはし)を訪ね求む。海師(ふなのり)の何蠻は之れを言ふ。遂に蠻と倶に本國(わがくに)に抵(あ)つ。遙か地の界(さかひ)を觀み、波濤(おほなみ)の間に蟠旋(とぐろ)は蜿延(うね)り、其の形は虬(みづち)の水の中に浮かぶが若し、名づけて流虬と曰ふ。〈嗣ぎて後に名を流求に改む。故に唐宋の吏(つかさ)は皆が流求と曰ふ。〉言(ことば)は相ひ通ふことなし、一人を掠(うば)ひて返る。明くる年、帝(みかど)は朱寛に令(いひつけ)して復た至らしめて之れを撫(めぐ)むも從はず。寛は我(わがくに)の布甲等の物を取りて還る。帝(みかど)は復た武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州等を遣りて兵(いくさ)を率らしむ。國に至らば、其の軍(いくさ)は甚と衆(おほ)し。時に稜は南方の諸國(もろくに)の人(ひとびと)を將(ひき)ゐて軍(いくさ)に從はせしめ、其の軍(いくさ)の中に崑崙人有り、頗る我が語を解(わか)る。稜は其の軍人(いくさひと)に令(いひつけ)して之れを慰め諭す。國の人(ひとびと)は拒みて逆らひ、從はず、終に逆(さかしま)の戰(いくさ)と爲る。我が軍は敗れ走り、稜は大いに軍を驅りて兵は進み、城都に至りて頻りに戰ひ、又た敗る。稜は我が宮室(みや)を焚(や)き、男女千餘人(をめちたりあまり)を擄(とりこ)にし、軍實を載せて返れり。自爾(おのづ)から隋は遂に絶え、復た遣(つかひ)の來たることあらじ。

 汎く諸國(もろくに)と相ひ通(かよ)ひ、以ちて貿易(とりひき)を致す。隋氏は既に亡び、唐を歴て宋に至るも、未だ嘗て貢(みつき)を中華(もろこし)に入るることなし。惟(おも)ふに能く本國の船隻(ふね)は、諸國(もろくに)に徃き來して兌換貿易(とりひき)にし、以ちて國の用(こと)に備ふるのみ。此の時に船を航(わた)して徃來(ゆきき)する者有り、必ず憲令(のり)を奉げ、而る後に海洋を過ぐるなり。後の厥(そ)れに至り、皆が兵乱(さかしま)に因りて私竊(わたくし)に海を過ぐる者も甚と衆(いと)し。故に宋史の流求傳に云く、淳熙の年の間、流求は常に數百軍を率ゐて猝(には)かに泉州の水澳頭等の村に至り、肆(ほしいまま)に殺し掠るるを行ふ爾(のみ)。是れに由りて之れを考ふるに天孫氏の裔流の未だ諸國(もろくに)に通ふ者は鮮からむ。深く惜しむ可きなるかな。

利勇弑君

現代語訳

 利勇が君を弑して王位を簒奪した。南宋の淳熙の年間には、天孫氏二十五紀の裔孫の徳も政治も衰微し、武力の威勢も振るわなかった。こうして四方の按司(アジ)がそれぞれ自らの土地を拠点として城を築き、兵を集めて権力を争った。この時ひとりの権臣に利勇という者がいた。君主の恩寵を深く受け、若き日より近侍官として仕え、壮年には国政を専掌した。己に従う者には恩賞したが、己に逆らう者であれば罪にかけ、権威はすこぶる盛んであり、国の人々は彼を虎のように畏怖した。ある日のこと、内殿に入って隙に乗じ、主君を弑して自立し、国君を称した。これによって四方は騒動となり、兵乱が大いに興り、盗賊が蜂のように起こった。按司(アジ)も酋長もそれぞれの兵権を根拠に権力を争奪し合い、休まることがなかった。国を挙げて生民が泥に塗れて炭に焼かれるかのような苦しみをすっかり極めてしまった。


漢文

 利勇弑君篡位。南宋淳熙年間、天孫氏二十五紀之裔孫德微政衰、武威不振。則四方按司各拠其土、築城聚兵以爭權。時有一權臣利勇者、深受君恩、弱年仕近侍官、壯年專掌國政。從己者賞之、逆己者罪之、權威尤盛、國人畏之如虎。一日入內殿、乘隙弑君自立、稱國君。由是四方騷動、兵亂大興、盜賊蜂起、按司酋長各據兵權、爭雄不息。舉國生民塗炭既極。

書き下し文

 利勇は君を弑(ころ)して位を篡(うば)へり。南宋の淳熙の年の間、天孫氏二十五紀の裔孫の德は微(すた)れて政(まつりごと)は衰へ、武威は振はず。則ち四方(よも)の按司(アジ)は各(おのおの)に其の土に拠り、城を築きて兵を聚めて以ちて權(ちから)を爭ふ。時に一つの權臣の利勇なる者有り、深く君の恩(めぐみ)を受け、弱(わか)き年に近侍官に仕へ、壯年にして專ら國政(まつりごと)を掌(つかさど)る。己に從ふ者は之れに賞(たま)ひ、己に逆らふ者は之れを罪(とが)め、權威は尤る盛り、國の人(ひとびと)は之れを畏るること虎の如し。一日(あるひ)に內殿に入り、隙に乘りて君を弑(ころ)して自ら立ち、國君(くにぎみ)を稱(なの)る。是れに由りて四方(よも)は騷動(さは)ぎ、兵亂(さかしま)は大いに興り、盜賊(あた)は蜂のごとく起こり、按司(アジ)も酋長(かしら)も各(おのもおのも)が兵權に據り、爭ひ雄(たけ)ること息(や)まず。國を舉げて生民(たみ)の塗炭(くるしみ)は既に極まれり。

底本

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