(※1)武帝
前漢7代皇帝。
(※2)朝鮮
朝鮮と言えば現在は朝鮮半島を指すことが多いが、当時は朝鮮半島北部から満州地域の南部付近を指す。朝鮮半島の南方は主に韓と呼ばれた。
(※3)大倭王
ここの描写だと倭を構成する諸国をまとめる中央王朝国家が大倭とされている。後漢書濊伝には、諸君長をまとめる存在を大君長と記していると思われる記述があり、ここでの『大』と形容詞としては同じであろう。
(※4)邪馬台 国
ヤマトの国。現代に至るまで日本の代名詞となる。ただし、古来から位置についての論争が絶えない。畿内説が有力とされ、これに九州説が次いでいるが、他にも四国説、岡山吉備説、北陸説、山口県説、東北説、釜山説、満州説など、諸説数限りなく、折衷的な説としては、九州から畿内までの間を邪馬台国は移動していたとする東遷説や邪馬台国非実在説等もある。こうした邪馬台国論争の鏑矢とも言える江戸儒者の新井白石自身、当初は畿内説(現在の奈良県の大和)を唱えた後に九州説(現在の福岡県山門)を改めて唱え、自説を変更していることから、この比定の困難がうかがえる。
(※5)楽浪郡
前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した郡。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。
(※6)拘邪韓国
狗邪(くや)は伽耶(かや)と音通であり、三国史記に登場する金官国に比定される。現在の韓国慶尚南道沿海部。同書韓伝に登場する弁辰十二国のうちのひとつ『弁辰狗邪』と同一と見なされることもあり、あるいは隣接する別の国とする説もある。
(※7)会稽東冶
会稽は現在の中華人民共和国浙江省紹興市。東冶は会稽内の県名。東の海沿いにあり、緯度は琉球本島に近い。本文には日本列島は会稽の東とされているが、明の時代に中国で描かれた世界地図では、日本は実際よりも南方にあると認識されており、會稽のすぐ東に日本列島が記されていたので、おそらくこの時代も同様だったのだろう。※23の無余は、ここに父の少康から封じられた。
(※8)硃崖、儋耳
いずれも中国後漢王朝時代の郡。現在の海南省。海南省は中国南端の海南島と、それ以南に広がる島嶼で構成される。
(※9)白珠、青玉
白珠はおそらく真珠、青玉はサファイアのこと。
(※10)丹土
赤色の顔料となる硫化水銀鉱。
(※11)鵲
カチガラス、高麗ガラスとも呼ばれる。倭国にはいないとされているが、九州北部には稀に飛来する。三国史記脱解本紀には、昔脱解が鵲(かささぎ)とともに新羅へ来航し、昔氏という姓は『鵲』にちなむとされる。
(※12)丹や硃
朱色の顔料。
(※13)倭の奴 国
後漢書倭伝と魏志倭人伝にも「奴国」は登場し、儺県(現在の福岡県福岡市から春日市付近)に比定される。1784年(江戸時代・天明4年2月23日)に九州志賀島(現在の福岡県福岡市)で出土したと記録される金印には「漢委奴国王印」と記されており、委奴国が倭の奴(な)国を指すと比定される。
(※14)光武帝は印綬を賜った。
光武帝は後漢の初代皇帝。上記※13の金印のことだと推測される。
(※15)倭国王の帥升
中国史にのみ名が明記される倭国王で最古の人物。現行の後漢書においては、「倭国王の帥升(倭國王帥升)」と記されているが、唐の張楚金が660年に発刊した『翰苑』には、「後漢書には、”安帝の永初元年に『倭面上国王の帥升』が来た。”とある(後漢書曰、安帝永初元年、有倭面上國王帥升至)」と記され、その引用による後漢書の版では、帥升が「倭国王」ではなく、「倭面上国王」と記されていたことが示されている。同様に、『通典』には「倭面土国王の師升(倭面土國王師升)」『日本書紀纂疏』には「倭面上国王の師升(倭面上國王師升)」とされている。このように国名については、「倭国」「倭面土国」「倭面上国」、王名は「帥升」「師升」と表記にぶれがある。
国名については、「倭面土国」に基づいて解釈されることがあり、これを「ヤメト国」と読めることから「邪馬台 国」だとする説、「面」の字を「囬(回)」の誤字だとして「倭の囬土 国」と見て「伊都 国」に比定する説、日本書紀に記される松浦国の別表記「梅豆羅」から「倭の面土 国」だとする説、先代旧事本紀に登場する「筑志米多国造」に比定する説などがある。また、人名についても古事記や日本書紀等の人物に比定する意見も存在するが、たとえば、帥升 を素戔嗚 と読む説、あるいは「倭国王帥升等」を「倭国の王師飛等 」と読む説など、こちらはいずれも強引だと思う。
この場を借りて現時点での訳者の意見を開陳すれば、魏志倭人伝に登場する弥馬升を十代崇神天皇こと御眞木入日子印恵命 に比定しており、ゆえに弥馬升を「みまき」の意だと捉えている。また、別書引用に帥升は「師升」の表記も複数あることから、こちらは「師升」が正しいと考える。これらを勘案すると、おそらく「師升(帥升)」とは、安寧天皇こと師木津日子玉手見命 の師木 を表現したものではなかろうか。また、国名については、師木は磯城とも表記することから、これを「イソのクニ」だと捉え、かつて五十迹手 が治めていた九州の伊都国(現福岡県糸島市付近と比定される)が「イソ国」とされていたという日本書紀の伝承を鑑み、加えて上記の「倭の囬土 国」説に基づき、倭国王帥升を「伊都国の安寧天皇」だと考える。魏志倭人伝によれば伊都国は帯方郡使が滞在する地であり、後漢王朝の関連性が高いことも伺えよう。一方で、次のようにも考える。古事記と日本書紀ではいずれも磯城 氏の治める磯城県 は現在の奈良県磯城郡付近となっており、安寧天皇こと師木津日子玉手見命 も磯城郡に隣接する奈良県橿原市あるいは大和高田市に宮を建てたとされている。磯城氏を伊都国と結びつけるのは、訳者の「大胆な仮説」の段階でしかない。また、磯城郡には弥生時代の大型環濠集落である唐古・鍵遺跡が発掘されており、当時は極めて発展した地域であることが伺える。よって、古事記と日本書紀の記述を尊重した上で、倭国王の帥升を安寧天皇こと師木津日子玉手見命 に比定するのも面白い。こうすれば、どのような景色が見えてくるか。それは九州に存在した倭の奴国という古豪に対する新興勢力の畿内の台頭である。
本文に記されている内容は、西暦57年に九州の奴 国が後漢に朝貢し、次に西暦107年には倭国王帥升が後漢に朝貢し、西暦146年から167年にかけて倭国で大乱が起こり、その終わりに畿内のヤマトが卑弥呼を立てて王権を樹立した……という流れである。これを顧みれば、倭国王帥升について、九州で奴国と争うライバルの伊都国の王と見ても、停滞する九州の覇権国家を追い抜く勢いの畿内の国家の王と見ても、いずれも面白いと思う。
(※16)桓帝と霊帝の年間
桓帝は146年から167年、霊帝は168年から172年。桓帝は先代まで外戚の梁冀に牛耳られていた王朝を皇帝の権力の手に取り戻そうと図った人物であり、これに成功して梁冀の一族やその協力者を皆殺しにすることに成功したが、そのために用いた宦官を優遇し、養子を執る権利などを付与したことから、今度は宦官の権力が増大した。その後、清流派と呼ばれる士大夫層が宦官を批判したが、かえって宦官から大弾圧を受けることになってしまい、数多くの士大夫が官職を追放された。その結果、ますます朝廷の人員を宦官が占めることになり、逆に朝廷と反目する在野の士が増加した。こうした状態に至って桓帝が死んで霊帝の代となったが、相変わらず宦官の勢力は大きく増し、今度は外戚の竇武と結びついて清流派の士大夫が宦官の排除のために挙兵したが、今度も逆に宦官が返り討ちにし、朝廷に残った外戚と反宦官の士大夫を誅殺し、ますます宦官の発言力が増すことになった。こうした政争の結果、民生は圧迫され、庶民は貧困にあえぐが、国庫にも備蓄のない有様で、遂に霊帝は朝廷の官職を金で売り渡すようになった。こうして朝廷の権威は衰え、民衆の生活は更なる貧困に陥り、朝廷に反目する在野の実力者が莫大に増加した結果、新興宗教である太平道が後漢王朝打倒を掲げる大規模な農民反乱を起こし、これに同調する士大夫も現れた。また、ここで霊帝は士大夫の同調者をこれ以上出さないために党錮の禁を解除し、この乱を鎮めるために士大夫の協力を募ったが、鎮圧の名目で各地の士大夫や豪族が私兵を蓄えるようになり、もはや黄巾の乱とは関係なしに相互に戦争を行なう乱世に至った。こうした中で霊帝は死亡し、そのまま各地の群雄が名乗りを上げ、後漢王朝の滅亡と三国時代の到来に世は向かってゆく。後漢書や三国志の記述では、宦官を重用した桓帝と霊帝こそが後漢王朝の滅亡の引き金を引いた亡国の君と見なされている。
さて、ここで後漢書東夷列伝序の内容を思い出してみるべきである。ここでは、夏の桀王や殷の武乙、周の厲王や幽王のような暴虐の君が立てば東夷が乱れ、殷湯王や周武王、周公や周康王のような賢君が立てば東夷が平穏となる描写がある。中国の視点では、中華皇帝の『徳』こそが天下万民に影響を与え、中華皇帝が暴君ならば中国が乱れ、中国が乱れれば東夷が乱れる。逆に中華皇帝が賢君ならば中国が太平に至り、中国が太平に至れば東夷も太平に至るという考えがあった。このように皇帝の徳による天下蒼生への影響のメカニズムを「教化」といい、論語だと「子曰、無爲而治者、其舜也與、夫何爲哉、恭己正南面而已矣(孔子は言った。なにもせずに統治した者といえば、やはり帝王の舜であろう。彼は何をしたか。南に向いて恭順な姿勢で正しく座っていただけである。)」といった章句に思想的な形跡を確認できる。また、上掲序や、他にも漢書地理志燕地条には、特に中華において東夷は他の民族と比べて従順であり、北方や西方の民族はすぐれた王が立っても野蛮ゆえに中華に攻め込んむこともあるが、東夷については別である、という認識も存在している。また、ここには孔子が中国に絶望して東夷の国に行きたいと言葉を漏らした故事を引用し、東夷は中国が正しければ秩序だった民族であることが述べられる。
こうした思想が当時の中国に存在していたことを前提とし、後漢書倭伝と魏志倭人伝の内容を振り返ってみれば、倭国が大乱に陥った時期を桓帝と霊帝の年間だと規定しているのは、もちろん嘘ではないにせよ、こうした歴史認識を前提とした記述である可能性があり、その点は注意が必要である。本文における卑弥呼の即位による狗奴国以外の倭国平定は、三国時代の魏が呉以外の中国を概ね平定した事実と重ねて記された描写なのだと感ぜられる。
(※17)卑弥呼
日本神話における比定には諸説あるが、畿内説に基づく倭迹迹日百襲姫命 が有力とされている。他には、九州王朝説に依拠した宇那比姫 説、北陸王朝説に依拠した能登比咩 説などの説がある。また、日本書紀においては神功皇后紀に後漢書倭伝と魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事が引用され、彼女を卑弥呼に比定して記されているものだと考えられる。
(※18)拘奴国
伝統的には九州南部の肥後の球磨説が有力であるが、近年は東国説も有力視されている。東国説には、近江説、尾張説(岐阜加納説、三重桑名説)、遠江説(久努国説)関東説(毛野説)がある。他には、畿内の熊野説、四国の伊予説、讃岐説、出雲説等も存在する。思うに、あくまで「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國……(次に奴の国があり、ここが女王の限界となる場所である。その南には狗奴国があり……)」とあることから、この記述に基づく限りにおいて、邪馬台国からは遠方にあることが読み取れる。
(※19)硃儒の国
硃儒は侏儒。侏儒はこびとのこと。『山海経』にも東方の海に「小人国」という国が存在するとの記述がある。
(※20)裸の国
裸の国は呂氏春秋や淮南子にも記述がある。淮南子によれば、東方に存在する羽の生えた羽民の国と南方にある不死の国の近くにあるという。呂氏春秋によれば、夏王朝の始祖である禹王が訪れたとされ、その際には現地の風習を尊重して王が自ら裸になって入国したという。
(※21)黒歯の国
淮南子や山海経にも登場する東の果てにある国家のひとつ。住民の歯が黒く、稲とヘビを食べて暮らしていると伝わっている。日本に存在するお歯黒の風習と関連があるかはわからないが、この風習は中国南方の苗族、ベトナム、タイ等に存在する。あるいはマレー、インドネシアには檳榔樹が生え、その種子を古くから噛み煙草のように嗜んでおり、この実を咬むと歯が真っ黒になり、色素も沈着することから、これをもって当該地域を黒歯国とする説もある。また、三国史記には百済の武将に黒歯常之が登場し、列伝も立てられている。この人物が黒歯の国と関係があるのかはわからない。
(※21)東鳀人
沖縄に比定される場合もあるが、よくわからない。現在は日本を指す語のひとつ。
(※22)夷洲と澶洲
夷洲はよく台湾に比定され、澶洲は種子島等に比定され、あるいは東南アジアの国家とも推定されているが、実際のところは不明である。
(※23)秦の始皇帝
秦はもともとは周の封国。かつては周八代孝王に仕える馬養の非子が、その功績から秦邑(現在の中国甘粛省張家川回族自治県)という領地を得たことが始まり。この時は一介の村落に過ぎなかったが、幽王が受けた犬戎の侵略において、諸侯が周王朝を救援しない中で当時の秦は果敢に犬戎を打ち払い、その功績で諸侯となった。これ以降、徐々に勢力を増して覇と呼ばれるようになり、最後には周に代わって天下を統一したのである。始皇帝は天下統一時の皇帝。苛烈な法律を敷するとともに自身の神聖化を画策し、不老不死の妙薬を探し求めた。
(※24)方士の徐福
始皇帝の命で不老不死の妙薬を探すように言いつけられ、東方にある蓬莱の国を探し求めた方士。方士は特殊な技能を有する術士。占いや薬剤師、風水気功等を担当する。
(※25)蓬莱
山海経などに登場する。中国山東省にある山東半島から東の海の向こうに渡った先にあるとされる神仙の国。その地に住む人は不老不死であったという。日本においても伝説の存在として登場し、竹取物語や丹後国風土記逸文に記された浦嶋伝説にもその名が登場し、いずれも不老不死の神仙の登場する物語である。
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