三国史記 閔中王紀

閔中王

現代語訳

 閔中王、諱は解邑朱、大武神王の弟である。大武神王が薨去したが、太子が幼少であったので、政務に就くことができなかった。そこで国の人が推戴して彼を立てた。
 冬十一月、大赦した。


漢文

 閔中王、諱解邑朱、大武神王之弟也。大武神王薨、大子太子幼少、不克卽政。於是、國人推戴以立之。冬十一月、大赦。

書き下し文

 閔中の きみ いみな は解邑朱、大武の神王 かむぎみ の弟なり。大武の神王 かむぎみ みまか るも、太子 みこ 幼少 をさなき たれば、 まつりごと くに へざり。是に於いて、國の人は推し いただ きて以ちて之れを立てり。
 冬十一月、大いに赦したり。

二年

現代語訳

 二年(45年)春三月、群臣に宴を開いた。
 夏五月、国の東で洪水があり、民が餓え、倉を開いて賑給した。


漢文

 二年、春三月、宴群臣。夏五月、國東大水、民饑、發倉賑給。

書き下し文

 二年、春三月、群臣 もろをみ うたげ す。
 夏五月、國の東に大水 おほみず あり、民饑え、倉を ひら きて賑給 ふるま ひたり。

三年

現代語訳

 三年(46年)秋七月、王は東で狩りをし、白獐を獲た。
 冬十一月、星孛 ながれぼし が南に現れ、二十日で消滅した。
 十二月、京都 みやこ に雪が降らなかった。


漢文

 三年、秋七月、王東狩、獲白獐。冬十一月、星孛于南、二十日而滅。十二月、京都無雪。

書き下し文

 三年、秋七月、 おほきみ は東に狩り、白き のろ を獲たり。
 冬十一月、星孛 ながれぼし は南に いて二十日 はつか にして滅びたり。
 十二月、京都 みやこ に雪ふる無し。

四年

現代語訳

 四年(47年)夏四月、王は閔中の原で田猟をした。
 秋七月、また田猟をした。石窟を見て、左右の者を振り返って言った。
「私が死んだら、必ずここに葬れ。新たな陵墓を作ってはならぬ。」
 九月、東海人の高朱利が鯨魚 くじら の目を献上した。夜になると光った。
 冬十月、蠶支落部の大家の戴升等の一万家余りが楽浪に行って漢に投降した。
〈後漢書には、「大加の戴升等一万人余り」とある。〉


漢文

 四年、夏四月、王田於閔中原。秋七月、又田、見石窟、顧謂左右曰、吾死、必葬於此、不須更作陵墓。九月、東海人高朱利獻鯨魚目、夜有光。冬十月、蠶支落部大家戴升等一萬餘家、詣樂浪投漢。〈後漢書云、大加戴升等萬餘口。〉

書き下し文

 四年、夏四月、 おほきみ は閔中の原に於いて りたり。
 秋七月、又た りし、石窟 いはや を見、顧みて左右 すけ に謂ひて曰く、 の死なば、必ず此に葬り、 べからく あらた 陵墓 みささぎ を作るべからず、と。
 九月、東海の人の高朱利は鯨魚 くじら の目を獻 たてまつ る。夜なれば光有り。
 冬十月、蠶支落部の大家の戴升等の一萬餘家 ひとよろづあまりのいへ は、樂浪を たず ねて漢に くだ りたり。〈後漢書に云く、大加の戴升等は萬餘口 ひとよろづあまりたり 、と。〉

五年

現代語訳

 五年(48年)王が薨去した。王后と群臣は遺命に違うことを遠慮して、石窟に葬り、閔中王と よびな した。


漢文

 五年、王薨。王后及群臣、重違遺命、乃葬於石窟、號為閔中王。

書き下し文

 五年、 おほきみ みまか りたり。王后 きさき 及び群臣 もろをみ は遺されし みことのり に違ひ がた く、乃ち石窟 いはや に葬り、 よびな は閔中の きみ と為す。

注記

諱は解邑朱

 先代の大武神王には「解朱留王」という別名があり、「解明」という名の兄弟もいる。また、第五代王の諱も解憂あるいは解愛婁とされていることから、この『解』を姓とする説があり、韓国において通説となっている。

白獐

 獐(ノロ)は中国北東部から朝鮮半島北部に生息するシカ科の生物。鹿より小柄でツノは小さい。白獐は縁起のよい獣として珍重され、王の刑罰が理にかなっていれば現れるとされている。

閔中原

 どこか不明。

支落部

 どこか不明。

底本

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