三国史記 東明聖王紀

始祖 東明聖王

現代語訳

 始祖の東明聖王、姓は高氏、諱は朱蒙である。〈一説には鄒牟、一説には衆解と伝わっている。〉

 それ以前のこと、扶餘の王である解夫婁は年老いても息子がおらず、山川の神々を祭り、世継ぎの子を求めた。彼自ら手綱を引く馬が鯤淵まで辿り着くと、大きな石を見つめて相対したまま涙を流し始めた。これを怪しんだ王が人を使わせてその石を運び出すと、金色で蛙の形をした小さな乳飲み子が見つかった。〈蛙は、一説には蝸とも書かれる。〉王は喜んで「これは天が私に世継ぎとさせるために賜られたものだ!」と言うと、そのまま連れて帰ってこれを養い、金蛙と名付けた。その子は成長すると、太子に擁立された。

 その後、彼の宰相の阿蘭弗が言った。
「この前、天が我が身に降りておっしゃられた。”これから我が子孫をこの地に使わせ、国を立てることにした。お前たちはここから立ち去れ。東海の浜に迦葉原という土地があり、土壌は豊かで五穀がよく稔る。そこをお前たちの都とするがよい”と。」
 阿蘭弗が王に勧め、そのまま都を移して国号を東扶餘とすると、その旧都に人が現れた。どこから来たのかわからない。自らを天帝の子、解慕漱と称し、そこを都とした。

 解夫婁が薨去したことで、金蛙が王位を継いだ。ちょうどその頃、太白山の南にある優渤水で一人の女性と出会った。質問すると彼女は答えた。
「私は黄河の神である河伯の娘で、名は柳花といいます。弟妹たちと一緒に遊びに出たとき、一人の男子と出会いました。自ら天帝の子、解慕漱と名乗り、私を熊心山のふもとの鴨邊で小屋の中に誘い込み、私の身体を欲しいがままにすると、すぐに立ち去って二度と帰ってくることはありませんでした。父母は私が正式な婚姻もせず、人についていったことを叱責し、こうして優渤水に流罪としたのです。」
 この話をいぶかしく思った金蛙が柳花を一室に幽閉すると、日の光が差し込んできた。身を引いてそれを避けても、日の光は追いかけてきて彼女を照らし、遂に妊娠して五升ばかりの卵を生んだ。
 王はその卵を棄てて犬や豚に与えたが、みな食べなかった。次に卵を路地の真ん中に棄ててみたが、牛も馬もそれを避けて通った。その次は野原に棄てることにしたが、鳥は翼でそれを覆い守った。終いには王は自らそれを割ろうとしたが、割ることができず、ついにそれを母親に還した。その母が卵を物で包んで暖かい場所に置くと、一人の男児が殼を破って出てきた。骨相は抜きんでて英邁、七歳ばかりになれば、常人と異なるほど嶷然とし、自ら弓矢を作って射れば、百発百中の腕前であった。扶餘の俗語では、弓矢が上手いことを朱蒙と呼んでいたので、そのように名付けられた。

 金蛙には七人の子がおり、いつも朱蒙と一緒に遊戯をしていたが、その腕前は誰も朱蒙に及ばなかった。その長男である帶素は王に提言した。
「朱蒙は人から生まれた存在ではありません。その人柄は勇敢ではありますが、早いところ手を打たなければ、後々の患いとなるでしょう。奴を抹殺すべきです。」
 王はそれに耳を貸さず、朱蒙に馬の飼育係を命じた。朱蒙はその中で駿馬を見分け、その餌を減らして痩せるように仕向け、駑馬によく餌を与えて肥えるように仕向けた。王は肥えた馬を選んで自ら乗り、痩せた馬を朱蒙に給わった。その後、野で狩猟をしても、朱蒙は持ち前の弓矢の腕前で、わずかな矢しか与えられていないにもかかわらず、獲物を多く捕らえることができた。王子諸臣は、またしても彼を抹殺しようと謀ったが、朱蒙の母がひそかにこれを察知し、朱蒙に告げた。
「この国の人々はあなたを殺そうとしています。あなたの才略があれば、この国から逃れてもうまくやっていけるでしょう。ここにいつまでも留まって辱めを受けて生きるより、遠くに行って自らの力でなにかを成し遂げた方がよいはずです。」

 こうして朱蒙は烏伊、摩離、陜父らの三人を仲間にして国を出ると、淹淲水までたどり着いた。(一説には、その名は盖斯水で、現在は鴨東の北にあるという。)渡ろうと思ったが橋がない。追手に迫られることを恐れた朱蒙は川に語りかけた。
「俺は天帝の子、黄河の神河伯の外孫だ。今は逃亡中の身で、追手がもうすぐそこまで来ている。どうにかしてくれないだろうか。」
 すると魚や亀が水面に集まり橋となった。朱蒙が川を渡り切ると、魚や亀はすぐにバラバラに解散し、追手の騎兵たちは渡ることができなかった。朱蒙は歩を進め、毛屯谷に到着した。魏書には、普述水に到着したと書かれている。

 三人の男と遭遇した。その一人は麻衣を着、一人は衲衣を着、一人は水藻衣を着ている。朱蒙は問うた。
「あなたがたはどちらの方だろうか。姓は何で、名は何であろうか?」
 麻衣の者は「名は再思。」衲衣の者は「名は武骨。」水藻衣の者は「名は默居。」とそれぞれ答え、姓は言わなかった。朱蒙は再思に克氏、武骨に仲室氏、默居に少室氏と姓を賜った。こうして朱蒙は群衆に告げた。
「俺は今、王位に就けとの天命を承った。これから国を開くことにする。となれば、道中で彼ら三賢者に遭遇したのは、間違いなく天の恩賜によるものに違いない。」
 こうしてそれぞれの人の能力を測って仕事を委任し、彼らとともに卒本川まで辿り着いた。(魏書には、紇升骨城に辿り着いたと書かれている。)その地の土壌が肥沃で、山河は堅固であったのを観察して、ここを都にしようと思い立った。しかし、まだ宮廷を建設するような余裕はなかったので、代わりに沸流水のほとりに草木を結んだ小さないおりを建て、これを居城とした。国号を高句麗とし、それに因んで高氏とした。(一説には、次のように云われている。朱蒙は卒本扶餘まで辿り着き、王に息子がいなかったため、朱蒙を見て常人にあらざる「非常の人」と見抜いた王は、自らの娘を朱蒙に娶らせた。王が薨去すると、朱蒙が王位を継いだ。)この時、朱蒙は二十二歳、漢王朝では孝元帝建昭二年、新羅では始祖赫居世二十一年の甲申かのえさる(前37年)のことである。それを聞いた四方の者からも、付き従う者が数多く現れた。その領地は靺鞨の部落と隣り合わせであったので、害を受ける恐れがあると警戒し、遂にこれらを追い払うと、畏服した靺鞨は侵犯しようとはしなくなった。

 王は沸流水の中に野菜の葉が流れに順って下っていくのが見えたので、上流に人が住んでいると知った。王は広く探し求めて行き進み、人々に尋ねて捜索し、沸流国までたどり着くと、その国の王である松讓が進み出て面会し、「私は海辺の片隅の辺鄙なところに住んでいるものですから、未だかつて君子というものにお会いしたことがありませんでした。今日、あなた様のようなお方と邂逅して互いに礼遇できましたことは、なんと幸運なことでございましょうか。しかしながら、あなた様がどちらからいらっしゃった方なのか存じ上げませぬ。」と言ったので答えた。
「俺は天帝の子だ。あるところから、王都を立てるために来た。」
 松讓は言った。
「私は先祖代々から王位を継承致しました。この地は小さく、二人の君主を相容れるには狭すぎる。あなた様は都を立てて日も浅いことですし、我が属国となるがよろしいでしょう。」
 王はその言葉に憤慨し、彼と弁舌を闘わせ、また互いに射撃でもって武芸を較べた。松讓が敵うはずもなかった。


漢文

 始祖東明聖王、姓高氏、諱朱蒙。〈一云鄒牟、一云衆解。〉先是、扶餘王解夫婁老無子、祭山川求嗣。其所御馬至鯤淵、見大石、相對流涙。王怪之、使人轉其石、有小兒、金色蛙形。〈蛙、一作蝸。〉王喜曰、此乃天賚我令胤乎。乃收而養之。名曰金蛙。及其長、立爲太子。後其相阿蘭弗曰、日者、天降我曰、將使吾子孫立國於此、汝其避之。東海之濱有地、號曰迦葉原、土壤膏腴宜五穀、可都也。阿蘭弗遂勸王、移都於彼、國號東扶餘。其舊都有人、不知所從來、自稱天帝子解慕漱、來都焉。及解夫婁薨、金蛙嗣位。於是時、得女子於太白山南優渤水、問之、曰、我是河伯之女、名柳花。與諸弟出遊時、有一男子、自言天帝子解慕漱、誘我於熊心山下鴨邊室中、私之。即往不返、父母責我無媒而從人、遂謫居優渤水。金蛙異之、幽閉於室中。爲日所炤、引身避之、日影又逐而炤之。因而有孕、生一卵、大如五升許。王棄之與犬豕、皆不食。又棄之路中、牛馬避之。後棄之野、鳥覆翼之。王欲剖之、不能破、遂還其母。其母以物裹之、置於暖處、有一男兒、破殼而出、骨表英奇。年甫七歲、嶷然異常、自作弓矢、射之、百發百中。扶餘俗語、善射爲朱蒙、故以名云。金蛙有七子、常與朱蒙遊戯、其伎能皆不及朱蒙。其長子帶素言於王曰、朱蒙非人所生、其為人也勇、若不早圖、恐有後患、請除之。王不聽、使之養馬。朱蒙知其駿者、而減食令瘦、駑者、善養令肥。王以肥者自乘、瘦者給朱蒙。後、獵于野、以朱蒙善射、與其矢小而朱蒙殪獸甚多。王子及諸臣又謀殺之。朱蒙母陰知之、告曰、國人將害汝。以汝才略、何往而不可。與其遲留而受辱、不若遠適以有為。朱蒙乃與鳥伊烏伊、摩離、陜父等三人為友、行至淹淲水、〈一名盖斯水、在今鴨綠東北。〉欲渡無梁、恐爲追兵所迫、告水曰、我是天帝子、何伯外孫。今日逃走、追者垂及如何。於是、魚鼈浮出成橋、朱蒙得渡、魚鼈乃解、追騎不得渡。朱蒙行至毛屯谷、〈魏書云、至普述水。〉遇三人。其一人着麻衣、一人着衲衣、一人着水藻衣。朱蒙問曰:朱蒙問曰、子等何許人也、何姓何名乎。麻衣者曰、名再思、衲衣者曰、名武骨、水藻衣者曰、名默居、而不言姓。朱蒙賜再思姓克氏、武骨仲室氏、默居少室氏。乃告於衆曰、我方承景命、欲啓元基、而適遇此三賢、豈非天賜乎。遂揆其能、各任以事、與之倶至卒本川。〈魏書云、至紇升骨城。〉觀其土壤肥美、山河險固、遂欲都焉。而未遑作宮室、但結廬於沸流水上、居之。國號高句麗、因以高爲氏。〈一云、朱蒙至卒本扶餘、王無子、見朱蒙知非常人、以其女妻之、王薨、朱蒙嗣位。〉時、朱蒙年二十二歲、是漢孝元帝建昭二年、新羅始祖赫居世二十一年甲申歲也。四方聞之、來附者衆。其地連靺鞨部落、恐侵盜為害、遂攘斥之、靺鞨畏服、不敢犯焉。王見沸流水中、有菜葉逐流下、知有人在上流者。因以獵往尋、至沸流國。其國王松讓出見曰、寡人僻在海隅、未嘗得見君子、今日邂逅相遇、不亦幸乎。然不識吾子自何而來。答曰、我是天帝子、來都於某所。松讓曰、我累世為王、地小不足容兩主、君立都日淺、為我附庸、可乎。王忿其言、因與之鬪辯、亦相射以校藝、松讓不能抗。

書き下し文

 始祖はじめおやの東明聖王、かばねは高うぢいみはは朱蒙。〈ひとつに鄒牟と云ひ、ひとつに衆解と云ふ。〉是れより先ず、扶餘のきみたる解夫婁は老ゆるもむすこ無く、山川を祭りてあとつぎを求む。其のおさめたる所の馬、鯤淵まで至りて大ひなるいわを見れば、相ひむかひて涙を流さむ。きみは之れを怪しみ、人を使はせて其のいわはこばせしむれば、小さきちのみご金色こんじきにしてかはづの形なる有り。〈かはづひとつかたつむりと作す。〉きみは喜びて曰く、此れ乃ち天は我にたまはりてせがれとせめむや、と。乃ち收めて之れを養ひ、名づけて金蛙こまと曰ひたり。其の長ずるに及び、立てて太子みこと爲す。後に其のすけの阿蘭弗曰く、日者さきごろあめは我に降りて曰く、將に吾が子孫うまご使て國を此に立たせしめむとせるに、汝其れ之れをのがるべし。東のわたつみとなりつち有り、よびな迦葉原かせふはると曰ひ、土壤つち膏腴え、五穀いつくさのたなつものに宜しかれば、都す可きなり、と。阿蘭弗、遂にきみに勸むれば、都を彼に移し、國は東扶餘とよびなせむ。其のふるき都に人有り、從ひ來たる所を知らず、自ら天帝あめのみかどむすこの解慕漱なるととなへ、都に焉れ來たり。解夫婁のみまかるに及び、金蛙こまくらひぐ。是の時に於いて、女子をんなを太白山の南の優渤水に於いて得たり。之れに問へば曰く、我是れ河伯のむすめ、名は柳花たり。諸弟もろうとと與に遊びに出ずる時、ひとり男子をとこ有り、自ら天帝あめのみかどむすこ解慕漱と言ひ、我を熊心山のふもとの鴨邊のこやうちいざなひ、之れをわたくしす。即ち往きて返らず、父母は我のなかうど無くして人に從ふを責め、遂に優渤水にとがすまはせしむ、と。金蛙こまは之れをあやしみ、こやうち幽閉おしこめば、日にらさるる所と爲り、身を引きて之れよりのがるるも、日影ひかげも又たひて之れをらす。因りて孕む有り、ひとつの卵を生み、大いなること五升ばかりに如けり。きみ、之れを棄てむと犬やぶたあたうも皆食はず。又た之れをみちうちに棄つるも、牛も馬も之れを避く。後に之れを野に棄つるも、鳥は翼を之れにおほはせしむ。きみ、之れをらむと欲するも、破ること能はず、遂に其の母に還す。其の母、物を以て之れをつつみ、暖かきところに置けば、ひとりをのこちのみご有り、殼を破りて出で、骨のおもてひいでてでたき。年甫としばかり七歲ななつ嶷然すぐれたること常と異なり、自ら弓矢を作りて之れを射れば、ももたびたばももたびあたらむ。扶餘のならひことばには、善く射つことを朱蒙と爲し、故以(かれこれ)にして名に云ひたり。金蛙こまななたりむすこ有り、常に朱蒙と與にあそたはむるも、其の伎能わざいずれも朱蒙に及ばず。其の長子おさごの帶素、きみまをして曰く、朱蒙は人の生む所に非ず、其の為人ひととなりいさまし、若し早く圖らずんば、恐らく後のうれひ有り、之れを除かむことを請はむ、と。きみは聽かず、之れを使はせて馬を養はせしむれば、朱蒙は其の駿はやうまを知り、而りてえさを減らして瘦せさしめ、のろき者うまには善く養ひて肥えせむ。きみは肥ゑたるうまを以て自ら乘り、瘦せたるうまは朱蒙に給へり。後に野にいてかりすれば、以て朱蒙は善くち、其の矢を與うことすくなくして、朱蒙の獸をころしたるは甚だ多し。王子みこ及び諸臣もろをみ、又た之れを殺さむと謀りたる。朱蒙の母、ひそかに之れを知り、告げて曰く、國の人はまさなむぢころさむとす。以てなむぢかどはからひ、何ぞ往きてよろしからざらむ。其れと與におそく留まりて辱めを受くるは、遠くにきて以て為すこと有るに若かざりき、と。朱蒙は乃ち烏伊、摩離、陜父等の三人みたりと與に友と為り、行きて淹淲水に至り、〈一に盖斯水と名し、今の鴨綠の東北に在り。〉渡らむと欲するもはし無く、おってものに迫まらるる所と爲るを恐れ、かはに告げて曰く、我是れ天帝あめのみかどむすこ、何伯の外孫そとまごたり。今日逃走のがるるも、おっての者のなんなんとして及ぶは如何いかん、と。是に於いて魚とすっぽん、浮き出でて橋を成し、朱蒙の渡るを得れば、魚とすっぽん乃ち解け、おってうまいくさ、渡るを得ず。朱蒙は行きて毛屯谷まで至らば、〈魏書には、普述水まで至ると云ふ。〉三人みたりに遇へり。其の一人は麻のきぬを着、一人は衲衣のえを着、一人は水藻衣みなものころもを着たり。朱蒙は問ひて曰く、子等そちら何許いずこの人なりや。何のかばねにして何の名なるか、と。麻のきぬの者曰く、名は再思なり、と。衲衣のえの者曰く、名は武骨なり、と。水藻衣みなものころもの者曰く、名は默居なり、と。而れどもかばねまをせざり。朱蒙、再思のかばねに克氏、武骨に仲室氏、默居に少室氏を賜ひ、乃ちもろひとに告げて曰く、我はまさおほひなるみことのりけ、はじめいしづえひらかむとおもひたらむ。而るにきて此のみたりさかしきひとひたるは、豈にあめたまものに非ざらむ、と。遂に其のちからはかり、おのおの任すに事を以てし、之れにくみしてともに卒本川まで至らむ。〈魏書には、紇升骨城まで至ると云ふ。〉其の土壤つち肥美えたると山河の險固けはしきを觀ゆれば、遂に焉れに都せむと欲す。而れども未だ宮室みやを作るいとまあらず、但だいほりを沸流水のほとりに結び、之れにすまひたる。國は高句麗とよびなし、因りて高を以て氏と爲す。〈ひとついはく、朱蒙は卒本扶餘まで至るも、きみむすこ無く、朱蒙を見て常に非ざる人なるを知り、其のむすめを以て之れにとつがせしめ、きみみまかれば、朱蒙はくらひぎたり、と。〉時に朱蒙のよはひ二十二歲はたちあまりふたつ、是れ漢孝元帝建昭二年、新羅始祖しらきのはじめおや赫居世二十一年甲申かのえさるの歲なり。四方よもより之れを聞き、來たりて附する者はかずおほし。其のつちは靺鞨の部落こおりに連なり、恐らくは侵し盜みてわざはひを為さむとし、遂に之れをはらしりぞければ、靺鞨畏服おそれしたがひ、犯さむとは敢てせざらむ。きみは沸流水の中を見れば、菜の葉に流れをひて下る有りて、人のかみの流れに在る者有るを知る。因りて以てさがして往き尋ね、沸流の國まで至る。其の國のきみの松讓、出で見えて曰く、寡人はうみべの隅にかたよすまひ、未だ嘗て君子きみびとまみえるを得ざるも、今日に邂逅おあひして相ひまみゆること、亦たさいはひならずや。然れども吾子そなたいずこよりにして來たるをらず、と。答へて曰く、我是れ天帝あめのみかどむすこ某所あるところより都しに來たらむ、と。松讓曰く、我はよよかさねてきみと為る。つちは小さくふたりあるぢるには足らじ。きみは都を立つるも日は淺かれば、我の附庸つきものと為るべし。可なるか、と。きみ、其のことば忿いかり、因りて之れとことばを鬪はせしめ、亦た相ひ射ちて以てわざくらぶれば、松讓は抗ふに能はじ。

二年

現代語訳

 二年(前36年)、夏六月、松讓は国を挙げて降伏した。その地を多勿都とし、松讓を封じて主長とした。高句麗語では旧土の復帰を多勿と謂い、故にそのように名づけたのである。


漢文

 二年、夏六月、松讓以國來降、以其地為多勿都、封松讓為主。麗語謂復舊土為多勿、故以名焉。

書き下し文

 二年、夏六月、松讓、國を以てくだりに來たり。其のつちを以て多勿都と為し、松讓を封じてあるぢと為す。麗のことばにはふるつちかへしたることを謂ひて多勿と為し、故に以て焉れに名づけむ。

三年

現代語訳

 三年(前35年)、春三月、黄龍が鶻嶺に現れた。
 秋七月、慶雲が鶻嶺の南に現れた。その色は青赤であった。


漢文

 三年、春三月、黃龍見於鶻嶺。秋七月、慶雲見鶻嶺南南、其邑靑赤。

書き下し文

 三年、春三月、黃龍、鶻嶺にあらはる。秋七月、めでたき雲、鶻嶺の南にあらはれ、其のいろは靑赤たり。

四年

現代語訳

 四年(前34年)、夏四月、雲と霧が四方に起こり、人々は七日間、色も見分けられなかった。
 秋七月、城郭と宮室を建築した。


漢文

 四年、夏四月、雲霧四起、人不辨色七日。秋七月、營作城郭宮室。

書き下し文

 四年、夏四月、雲と霧、よもに起こり、人はいろからぬこと七日。秋七月、城郭くるわ宮室みや營作つくりたり。

六年

現代語訳

 六年(前32年)、秋八月、神雀が宮の庭に集まった。
 冬十月、王は烏伊と扶芬奴に命じた。
「大白山東南の荇人の国を征伐し、その地を取って城邑とせよ。」


漢文

 六年、秋八月、神雀集宮庭。冬十月、王命烏伊、扶芬奴、伐大白山東南荇人國、取其地、為城邑。

書き下し文

 六年、秋八月、神雀、宮の庭に集る。冬十月、おほきみ、烏伊、扶芬奴にみことのりして、大白山東南の荇人の國を伐ち、其のつちを取り、城邑と為す。

十一年

現代語訳

 十一年(前27年)、秋九月、すずが王臺に集まった。
 冬十一月、王は扶尉猒に命じた。
「北沃沮を征伐してこれを滅ぼし、その地を城邑とせよ。」


漢文

 十一年、秋九月、鸞集於王臺。冬十一月、王命扶尉猒伐北沃沮、滅之。以其地爲城邑。

書き下し文

 十一年、秋九月、すず、王臺に集る。冬十一月、おほきみ、扶尉猒にみことのりして北沃沮を伐ち、之れを滅ぼし、其のつちを以て城邑と爲す。

十四年

現代語訳

 十四年(前24年)、秋八月、王母の柳花が東扶餘にて薨去した。その王の金蛙は、太后の礼をもって彼女を葬り、更には神廟を建立した。
 冬十月、使者を扶餘に派遣し、方物みやげものを寄贈することで、その恩徳に報いた。


漢文

 十四年、秋八月、王母柳花薨於東扶餘。其王金蛙以太后禮、葬之、遂立神廟。冬十月、遣使扶餘饋方物、以報其德。

書き下し文

 十四年、秋八月、おほきみの母の柳花、東扶餘に於いてみまかる。其のきみの金蛙、太后おほきさきの禮を以て之れを葬り、遂に神廟かむやしろを立つる。冬十月、使つかひを扶餘に遣りて方物みやげものすすめ、以て其の德に報ゆ。

十九年

現代語訳

 十九年(前19年)、夏四月、王子の類利が扶餘から自らの母とともに逃げて帰順した。それを王は喜び、太子に擁立した。
 秋九月、王が遥か遠くの天まで昇った。この時、年齢は四十歲であった。龍山に葬り、東明聖王と号した。


漢文

 十九年、夏四月、王子類利自扶餘與其母逃歸。王喜之、立為太子。秋九月、王升遐、時年四十歲。葬龍山、號東明聖王。

書き下し文

 十九年、夏四月、おほきみむすこの類利、扶餘より其の母と與に逃れしたがふ。おほきみは之れを喜び、立てて太子みこと為す。秋九月、おほきみはるかにのぼりたり。時によはひ四十歲よそじ。龍山に葬り、東明聖王とよびなす。

注記

東明聖王

 東明王を別名としている。この東明王という名は、中国の各史書に登場するツングース系部族の扶余の建国者と同じ。ここに記される朱蒙の生い立ちに関する伝承についても、多くの部分で扶余の東明王の建国神話と一致しており、おそらく混交していると思われる。

朱蒙、鄒牟、衆解

 朱蒙は現代韓国語では주몽チュモン、鄒牟は추모チュモ、衆解は중해チュンヘである。

扶餘

 大陸東北部に住むツングース系民族。騎馬民族の流れをくむ。

解夫婁

 現代韓国語では해부루へプル

鯤淵

 どこか不明。淵は深い水ことで、川か湖を指すと思われる。

金蛙

 現代韓国語では금와クムア

阿蘭弗

 現代韓国語では아란불アランブル

迦葉原

 迦葉はゴータマ・ブッダの弟子のひとりKassapaカッサパの漢訳であるが、関連は不明。

解慕漱

 現代韓国語では해모수ヘモス

太白山

 太白山とは一般に現在の韓国江原道寧越郡にある霊山を指すが、ここでは現在の朝鮮国と中国の国境にある白頭山を指すものと思われる。標高2,744mの火山。永らく朝鮮における民族的な信仰の対象となっており、現在の朝鮮国においても初代最高指導者の金日成がこの山で生まれたという伝説が建国神話となっており、その直系の子孫を白頭血統と呼ぶ。

優渤水

 場所は不明。

黄河の神である河伯

 河伯は中国神話に登場する黄河の神。『楚辞』九歌には河伯と題する漢詩があり、その神が愛人とのあいびきを楽しむ様子が歌われている。

柳花

 現代韓国語では유화ユファ

熊心山

 白頭山と同じとされているが、よくわからない。

日の光が差し込んできた。身を引いてそれを避けても、日の光は追いかけてきて彼女を照らし、遂に妊娠して五升ばかりの卵を生んだ。

 感生伝説と呼ばれる伝説の類型。北方遊牧民にルーツを有する中国周王朝の王族の先祖后稷の母は、巨人の足跡を踏んで孕んだと言われ、北方騎馬民族の鮮卑族の檀石槐の母は雹が口に入って孕んだとされる。また同じく北方騎馬民族のモンゴルの始祖とされるアラン・ゴアの母は、日と月の光に感応して孕んだとされ、これまた同じく北方騎馬民族の遼の太祖耶律阿保機の母も、日が身体に落ちる夢を見て孕んだという。また※1に紹介した北方遊牧民の流れを汲む扶余の東明王も、天に浮かんだ卵のようなエネルギー体が口に入って感応したとされている。おそらく北方遊牧民から伝わった伝承であろう。日本でも豊臣秀吉の母も日の光に感応して秀吉を産み、日吉と名付けたことが太閤記に記されている。

その母が卵を物で包んで暖かい場所に置くと、一人の男児が殼を破って出てきた。

 卵生神話と呼ばれる神話の類型。三国史記においては、新羅本紀の朴赫居世や昔脱解も同様に卵から生まれる。朝鮮に関する伝説では、他にも高麗王朝で著された『三国遺事』においては加羅諸国を建国した七人の王がすべて卵から生まれたとの伝説が述べられ、日本で著された古事記と日本書紀では、新羅王子の天日槍あめのひぼこの妻となった阿加流比売神あかるひめのかみが新羅の阿具奴摩あぐぬまで日の光に感応した女性の股から生まれた宝玉から変化したと伝えられている。また、大越史記全書の分注には、越南の古代王である貉龍君の配偶者である嫗姬が卵を産んだとされており、他にも台湾、ビルマ、フィリピン、インドネシア、フィジー等の東南アジア諸国に、族長や王が卵から生まれたという伝説が存在していることから、南方から伝来した伝承であることが推察される。※1と※15に記した扶余の東明王と高句麗の朱蒙(東明聖王)の建国神話の一致であるが、この卵生神話については扶余の東明王のものには見られない。

帯素

 現代韓国語では대소テソ

淹淲水、盖斯水

 現代韓国語では엄표수オムピョスウ개사수ケサスウ。現在の中国と朝鮮国の国境線となっている鴨緑江から北に流れ、現在の中国遼寧省と吉林省を流れる渾江のことだと推測される。

鴨東

 鴨緑江の東部を指すと思われる。

毛屯谷

 現代韓国語では모둔곡モドゥンコク。渾江支流の渓谷とされる。

普述水

 現代韓国語では보술수ポスルスウ。これも渾江の支流と思われる。

麻衣、衲衣、水藻衣

 麻衣は麻布を用いた着物で、麻は儒教における儒服の材料として『礼記』に挙げられている。衲衣はボロのことで、仏教における粗末な僧衣のこと。水藻衣は道教における道士が着用する粗末な着物。おそらく儒教、仏教、道教を象徴しているものである。

卒本川

 これも※18の渾江とされる。

紇升骨城

 現在の中国遼寧省本渓市桓仁満州族自治県にある五女山に位置したとされる。別名は五女山城。高句麗最初の首都。

いおり

 草木を結んで建てる粗末な小屋。仮小屋。

非常の人

 常に非ざる人。常軌を超越した存在。三国志を著した陳寿が本文中で曹操を評した言葉でもある。

靺鞨

 大陸北東部のツングース系部族。国語や後漢書等に登場する粛慎・挹婁と同じとされる。別名は勿吉モツキツ。実際に靺鞨という名が登場するのは6世紀以降。詳細は後漢書東夷伝にて。

沸流国

 渾江の支流である富尔江の流域にあったとされる。

黄龍

 中国五行思想において中央を司る瑞獣。東西南北を守護する四神の長。北極星を司り、天の中央に位置する最上の存在。四神は東に青龍、西に白虎、南に玄武、北に朱雀が配され、それぞれが青、白、くろあかを頂き、木、金、水、火を司る。黄龍は黄を頂き、土を司り、中央を守護する。中国神話において人間最初の王とされる黄帝は、逝去するにあたって黄龍の背に乗って天に昇ったといわれる。このように王(あるいは皇帝)の権威を象徴する存在であることから、同じく聖王の出現とともに現れるとされる麒麟とも同一視される。

鶻嶺

 現代韓国語では골령コルリョン。平安南道城川郡にあるとされる山。

慶雲

 めでたいことが起こる前兆として現れる雲。

神雀

 瑞鳥の一種。

荇人国

 白頭山東南部の国。鴨緑江付近であさぎを食べていた人々を指すと推測されている。

すず

 中国の霊鳥。鳳凰の仲間で、徳のある王が即位すると姿を現すという点で麒麟とも似ている。『山海経』には、姿は雉によく似て、五色の彩やかな羽根をあしらっていると記されている。そのあまりの美しさに雛鳥は親の鸞からエサを受け取ることができず、親の鸞は自らの羽根を泥で汚してから雛にエサを与えるという。血に粘り気があり、弓や琴の弦を直すことができるとされる。

北沃沮

 沃沮は朝鮮半島北部の日本海側に居住する部族。北沃沮と東沃沮に分かれる。具体的には後漢書東夷伝を参照。

龍山

 現在の平壌に存在する。

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