武帝

武帝

現代語訳

 在位すること七十一年。寿命は一百二十一歲。

 趙氏は秦の衰退と混乱に乗じ、秦の長吏を殺して嶺南の地を領有すると、拠点にして帝を称するようになり、漢に譲らず対抗した。国家を受け継いで帝位を伝え、百年後には滅亡してしまったが、至大の英雄たる君主である。

 姓は趙、いみなは佗〈漢の真定の人である〉、都を番禺に建てた〈現在の広東にあるのが、これである〉。


漢文

 在位七十一年、壽一百二十一歲。

 趙氏因秦衰亂、殺秦長吏、據有嶺南之地、稱帝、與漢抗衡、享國傳祚、百年而後亡、亦英雄之主也。

 姓趙、諱佗〈漢真定人也〉、建都番禺〈今在廣東是也〉。

書き下し文

 くらひゐますこと七十一年なそあまりひとつよはひ一百二十一歲ももあまりはたちあまりひとつ

 趙氏うぢは秦の衰へ亂るるに因りて、秦の長吏つかさを殺し、みねの南のつち有るに據りて、みかどなのりて漢と抗衡はりあひ、國をけてくらひを傳へ、百年ももとせの後に亡ぶも、まこと英雄えらものあるぢなり。

 かばねは趙、いみなは佗〈漢の真定の人なり〉、都を番禺に建つる〈今の廣東に在るは是れなり〉。

元年

現代語訳

 甲午きのえうまの元年〈秦二世の三年〉(公元の前二〇七年)。帝は林邑、象郡の地を併合して所有し、自ら南越の王に立った。 


漢文

 甲午元年〈秦二世三年〉(公元前二〇七年)。帝併有林邑、象郡之地、自立為南越王。

書き下し文

 甲午きのえうま元年はぢめどし〈秦二世の三年みとし〉(公元の前二〇七年)。みかどは林邑、象郡のつち有るを併せ、自ら立ちて南越のきみと為る。

二年

現代語訳

 乙未きのとひつじの二年〈西楚覇王の元年、漢王劉邦の元年〉(公元の前二〇六年)。この年に秦は滅亡した。


漢文

 乙未二年〈西楚覇王元年、漢王劉邦元年〉(公元前二〇六年)。是歲、秦亡。

書き下し文

 乙未きのとひつじ二年ふたとし〈西楚覇王の元年はぢめどし、漢王劉邦の元年はぢめどし〉(公元の前二〇六年)。是歲ことし、秦は亡びたり。

四年

現代語訳

 丁酉かのととりの四年〈楚項籍三年、漢劉邦三年〉(公元の前二〇四年)冬、十月、みそか、月食。

 十一月、みそか、日食。 


漢文

 丁酉四年〈楚項籍三年、漢劉邦三年〉(公元前二〇四年)冬、十月、晦、月食。

 十一月、晦、日食。

書き下し文

 丁酉かのととり四年よつとし楚項籍三年みとし漢劉邦三年みとし〉(公元の前二〇四年)冬、十月、みそか、月はむ。

 十一月、みそか、日はむ。

五年

現代語訳

 戊戌つちのえいぬの五年〈楚項籍の四年、漢劉邦の四年〉(公元の前二〇三年)秋、七月、星孛ほうきぼしが大角にあった。


漢文

 戊戌五年〈楚項籍四年、漢劉邦四年〉(公元前二〇三年)秋、七月、有星孛于大角。

書き下し文

 戊戌つちのえいぬ五年いつとし〈楚項籍の四年よつとし、漢劉邦の四年よつとし〉(公元の前二〇三年)秋、七月、星孛ほうきほしは大角に有り。

六年

現代語訳

 己亥つちのといの六年〈漢高帝の五年〉(公元の前二〇二年)春、二月、漢王は皇帝に即位した。この年に西楚は滅亡した。


漢文

 己亥六年〈漢高帝五年〉(公元前二〇二年)春、二月、漢王即皇帝位。是歲、西楚亡。

書き下し文

 己亥つちのとい六年むつとし〈漢高帝の五年いつとし〉(公元の前二〇二年)春、二月、漢王は皇帝みかどくらひく。是歲ことし、西楚は亡びたり。

十年

現代語訳

 癸卯みずのとうの十年〈漢高帝の九年〉(公元の前一九八年)。帝は二人の使典にいいつけし、交趾、九真の二郡の主にした。


漢文

 癸卯十年〈漢高帝九年〉(公元前一九八年)。帝令二使典主交趾、九真二郡。

書き下し文

 癸卯みずのとう十年ととし〈漢高帝の九年ここのとし〉(公元の前一九八年)。みかどふたり使典つかさいひつけして交趾、九真の二郡ふたつのこほりあるぢせしむ。

十二年

現代語訳

 乙巳きのとみの十二年〈漢高帝の十一年〉(公元の前一九六年)。漢は天下を定めた後、帝も越で王になったと聞き、そこで陸賈を派遣して向かわせることにした。帝を南越王に拝命させ、璽綬を授け、割符によって使者を通わせることで百粵を和集し、紛争による災禍を起こさないようにするためである。使者がたどり着くと、帝は膝を屈して陸賈と面会した。陸賈は言った。

「もともと王は漢の人であり、親戚の墳墓はすべて漢にあるのでしょう。今は本来の習俗に反し、こちらの土地のものに依拠しようとしておられるが、漢に譲らず対抗し、敵になることは、どれほどの過ちであろうか。しかも、かの秦は自らの鹿を失い、天下は共にそれを駆逐しようとしましたが、漢帝だけが寛容な心で仁を行ない、人々を受け入れたので、民衆はこぞって安楽のうちに従っております。豊かなみずを起こし、先だって関に入ると、咸陽を拠点にして凶悪な連中を討ち払い、五年の間に乱を払い除け、正道に立ち返らせて、四海を平定したのは、人の力ばかりではなく、おそらく天の助力があってこそのことでしょう。漢帝は王がこちらの土地で王となられたと聞き、一挙に勝負を決しようと常々思われていましたが、百姓に新たな苦労をかけてしまうからと、それを取り止められました。使者を遣わせてその印綬を奉り、王位を遺りますので、王よ、どうか郊外までお迎えされて謁見し、自らの敬意をお示し下さい。現状は既にそうではありませんが、礼をもって我々に面会すれば、とりあえずはよろしい。自ら百粵の諸衆に恃り、天子の使者に傲慢な対応をされるのはいかがなものか。このことを天子がお聞きになり、兵を向かわせて罪を問うことになれば、王はこれからどのようになされるのですか。」

 いきなり帝は地を蹴って立ち上がり、「この国に久しく住み続けたものですから、どうにも礼義というものをなくしておりました。」と言い、さらに陸賈に質問した。

「私と蕭何、曹参はどちらが賢明でしょうか?」

「王の方が賢明でしょうな。」

 続けて質問した。

「私と漢帝はどちらが賢明でしょうか?」

 陸賈は言った。

「漢帝は五帝と三王の偉業を継承し、漢を統一して統治されておられる。人口は億万を数え、領土は方一万里、産物は豊富で民は富み、政治は一家により、天地開闢以来、これまでなかったことでしょう。今の王は、諸衆は十万を超えず、山と海の間に雑居しておりますから、譬えるなら漢の一郡といったところでしょう。どうしたら漢と比べることができますでしょうか。」

 帝は笑って言った。

「かの地で身を起こさなかったことを私は恨む。なぜ遠望が漢に勝らぬと言えようか。」

 陸賈は口をつぐんで顔色を失った。こうして陸賈を数ヶ月にわたって留め、「越の国中には一緒に語り合えるに足る者がいなかった。生まれてこの方、ふだん私が聞かないようなことを聞かせてくれた。」と言い、陸賈に袋に入れた値千金の物資を賜った。陸賈の帰国に及んで、またも千金を賜った〈袋に入れた物資とは、真珠と宝物を囊槖バッグの中にこっそりと入れたことを意味している〉。


漢文

 乙巳十二年〈漢高帝十一年〉(公元前一九六年)。漢既定天下、聞帝亦己王越、因遣陸賈、往拜帝為南越王、授璽綬、剖符通使、使和集百粵、毋為寇災。使者至、帝踞見賈。賈曰、王本漢人、親戚、墳墓皆在于漢。今反本俗、欲據於此、與漢抗衡為敵、豈不謬哉。且夫秦失其鹿、天下共逐之。惟漢帝寬仁受人、民皆樂從。起豐沛、先入關、據咸陽、攘除兇醜、五年之間、撥亂反正、平定四海、此非人力、殆天與也。漢帝聞王王此、常欲一決勝負、以百姓新勞苦、故罷之。遣使奉其印綬遺王、王宜郊迎謁、示其敬也。今既不然、備禮見之、可也。奈何、自恃百粵之衆、慢易天子使者。天子聞之、發兵問罪、則王將如之何。帝蹶然興起曰、居此日久、殊失禮義。因問賈曰、我與蕭何、曹參孰賢。曰、王自賢。又問、我與漢帝孰賢。賈曰、漢帝繼五帝三王之業、統理乎漢、人以億萬計、地方萬里、物殷民富、政由一家、開闢以来未之有也。今王、衆不過十萬、雜處山海間、譬如漢一郡也、何乃比於漢。帝笑曰、吾恨不起於彼、何遠不若漢。賈默然色沮。乃留賈居數月、曰、越中無足與語。至生來、令我日聞所不聞。賜賈槖中裝直千金。及賈歸、復賜千金〈槖中裝、謂以珠寶裝裏入囊槖中〉。

書き下し文

 乙巳きのとみ十二年とあまりふたとし〈漢高帝の十一年とあまりひととし〉(公元の前一九六年)。漢は既に天の下を定め、みかども亦た已に越にきみたるを聞き、因りて陸賈を遣はせ、往かしめ、みかどさづけて南越のきみらしめ、しるしくみひもを授け、ふだきて使つかひかよはしめ、百粵をねぎして集めせ使め、あたわざはひを為さむとするをなからしめむとす。使者つかひの至らば、みかどかがみて賈に見ゆ。賈曰く、きみもともと漢の人、親戚みうち墳墓はかいづれも漢に在り。今はもともとならはしそむき、こちららむとおもひたるも、漢と抗衡はりあひしてあたと為るは、豈にあやまたずしかの秦は其の鹿を失ひ、天下あめのしたは共に之れをひたらむとするも、だ漢のみかどのみ寬仁なさけふかくありて人をれ、民は皆が樂しみて從ひたり。豐沛ゆたかなるを起こし、先にせきに入らば、咸陽に據り、兇醜あしき攘除はらひ、五年のに、亂るるををさめて正しきにかへし、四海よものわたを平げ定むるは、此れ人の力に非ず、おそらくあめたすけなり。漢のみかどきみこちらきみしたるを聞き、常にひとたびにして勝負かちまけを決めむとおもふも、百姓たみを以ちて勞苦くるしみを新たにせしむるが故に之れをむ。使つかひつかはして其のしるしくみひもを奉り、きみおくる。きみは宜しくはずれの迎へまみへ、其のゐやまひを示すべきなり。今は既に然らざるも、禮を備へて之れに見ゆれば、よろしきなり。自ら百粵のひとを恃り、天子あまつみこ使者つかひ慢易おごりたるは奈何いかに。天子あまつみこの之れを聞き、いくさをこして罪を問へば、則ちきみは將に之れを如何いかにせむ、と。みかど蹶然はらり興起ちて曰く、此にること日は久しく、ことに禮義を失ひたり、と。因りて賈に問ひて曰く、我と蕭何、曹參はいづれかまされり、と。曰く、きみすぐれたり。又た問へらく、我と漢のみかどいづれかまされり、と。賈曰く、漢のみかどいつたりみかどみたりきみしはざを繼ぎ、漢をしらをさめ、ひとびとは億萬を以ちてかぞへ、ところひろきはよろづ里、よろづさかりて民は富み、まつりごとひとついへり、開闢ひらさきには未だ之れ有らざるなり。今のきみひと十萬とよろづたりを過ぎず、山と海の間にまぢすまひ、たとふればからひとつこほりの如きなり、何ぞすなはち漢に比せむ、と。みかどは笑ひて曰く、かのつちに起こらざるを恨む。何ぞ遠きこと漢にかざらむ、と。賈は默然むつむつとしてかほいろうしなはる。すなはち賈を留むること數月いくつきすごし、曰く、越のうちともに語るに足る無し。生まれ來たるに至り、我をて日に聞かざる所を聞こしむ、と。賈に賜はるふくろうちつつみあたひ千金たり。賈の歸るに及び、た千金を賜ふ〈ふくろうちつつみは、たまたからつつみを以ちて囊槖ふくろの中に裏入るを謂ふ〉。

十三年

現代語訳

 丙午十三年〈漢高帝十二年〉(公元前一九五年)夏、四月、漢帝が崩御した。 


漢文

 丙午十三年〈漢高帝十二年〉(公元前一九五年)夏、四月、漢帝崩。

書き下し文

 丙午十三年〈漢高帝十二年〉(公元前一九五年)夏、四月、漢のみかどは崩れたり。

十七年

現代語訳

 庚戌十七年〈漢恵帝盈の四年〉(公元の前一九一年)夏、漢が原廟を渭水の北に立てた。 


漢文

 庚戌十七年〈漢惠帝盈四年〉(公元前一九一年)夏、漢立原廟于渭北。

書き下し文

 庚戌十七年〈漢惠帝盈の四年〉(公元の前一九一年)夏、漢は原廟を渭の北に立てたり。

二十年

現代語訳

 癸丑二十年〈漢恵帝の七年〉(公元の前一八八年)春、正月、ついたち、日食。

 夏、五月、皆既日食。

 秋、八月、漢帝が崩御した。


漢文

 癸丑二十年〈漢惠帝七年〉(公元前一八八年)春、正月、朔、日食。

 夏、五月、日食、既。

 秋、八月、漢帝崩。

書き下し文

 癸丑二十年〈漢惠帝の七年〉(公元の前一八八年)春、正月、つひたち、日はむ。

 夏、五月、日はむことことごとし。

 秋、八月、漢のみかどは崩れたり。

二十二年

現代語訳

 乙卯二十二年〈漢高后呂雉の二年〉(公元の前一八六年)夏、六月、みそか、日食。


漢文

 乙卯二十二年〈漢高后呂雉二年〉(公元前一八六年)夏、六月、晦、日食。

書き下し文

 乙卯二十二年〈漢高后呂雉の二年〉(公元の前一八六年)夏、六月、みそか、日はむ。

二十四年

現代語訳

 丁巳二十四年〈漢高后の四年〉(公元の前一八四年)漢が南越の鉄器を関所から通して売買することを禁じた。帝は言った。

「高帝は私を立て、使者と共に器物を通しておられたのに、今では高后が讒言をする臣下に従い、漢と越の器物を隔てたのだ。これは間違いなく長沙王の計略であろう。漢の威徳に依存して我が国を図り、そして併呑してその王となって、自らの勲功にしようとしているのだな。」 


漢文

 丁巳二十四年〈漢高后四年〉(公元前一八四年)漢禁南越關市鉄器。帝曰、高帝立我、通使共器物。今高后聽讒臣、別異漢越器物。此必長沙王計、欲倚漢威德、圖我國而併王之、自為功也。

書き下し文

 丁巳二十四年〈漢高后の四年〉(公元の前一八四年)漢は南越のまがねものうりかひするをとどむ。みかど曰く、高帝は我を立て、使つかひと共に器物ものかよはしむ。今の高后は讒臣よこしまを聽き、漢と越の器物もの別異へだてむとす。此れ必ずや長沙のきみたばかりたり、漢のちからこころたより、我が國をはかり、而して併せて之れにきみし、自らのいさをを為さむとおもへばなり、と。

二十五年

現代語訳

 戊午つちのえうまの二十五年〈漢高后の五年〉(公元の前一八三年)春、帝は皇帝のに即位し、兵を興して長沙に攻め込み、いくつかの郡を破って帰還した。 


漢文

 戊午二十五年〈漢高后五年〉(公元前一八三年)春、帝即皇帝位、發兵攻長沙、敗數郡而還。

書き下し文

 戊午つちのえうまの二十五年〈漢高后の五年〉(公元の前一八三年)春、みかどは皇帝のくらひき、いくさをこして長沙を攻め、いくばくかのこほりを敗りて還りたり。

二十七年

現代語訳

 庚申かのえさるの二十七年〈漢高后の七年〉(公元の前一八一年)。漢は隆慮〈音は林閭LÂM LƯ〉侯の周竈を使わせて南越を撃ち、長沙の役に報いようとしたが、その時、猛暑と湿気によって疫病が蔓延し、そのまま戦いをやめた。帝はこれによって兵を率いて財物を脅し取り、閩越、西甌貉(交趾、九真にあたる)を招き入れ、鎮撫すると、皆が従属するようになった。(領土は)東西に一万里あまりとなり、黄屋と左纛を御し、体制が漢と並んだと主張した。 


漢文

 庚申二十七年〈漢高后七年〉(公元前一八一年)。漢使隆慮〈音林閭〉侯周竈擊南越、以報長沙之役。會暑濕、大疫、遂罷兵。帝因此以兵威財物、招撫閩越、西甌貉(即交趾、九真)皆從屬焉。東西萬餘里、御黃屋左纛、稱制與漢並。

書き下し文

 庚申かのえさるの二十七年〈漢高后の七年〉(公元の前一八一年)。漢は隆慮〈音は林閭〉のきみの周竈を使はして南越を擊ち、以ちて長沙のいくさに報いむとするも、たまたま暑きとしめりに、大いにおこりあり、遂に兵をむ。みかどは此れに因りて兵を以ちて財物たからおどし、閩越、西甌貉(交趾、九真にたる)を招きなぐさめば、皆がれに從ひきたらむ。東西に萬餘ひとよろづあまり里、黃屋みかどのかさ左纛みかどのはたをさめ、きまりの漢と並びたるをふ。

二十八年

現代語訳

 辛酉かのととりの二十八年〈漢高后の八年〉(公元の前一八〇年)秋、七月、高后が崩御し、諸大臣は代王の劉恒を迎えて擁立した。これが文帝である。


漢文

 辛酉二十八年〈漢高后八年〉(公元前一八〇年)秋、七月、高后崩、諸大臣迎立代王恒、是為文帝。

書き下し文

 辛酉かのととりの二十八年〈漢高后の八年〉(公元の前一八〇年)秋、七月、高后は崩れ、諸大臣もろもろのおほみは迎へて代のきみの恒を立て、是れ文帝と為す。

二十九年

現代語訳

 壬戌みずのえいぬの二十九年〈漢文帝恒の元年〉(公元の前一七九年)。漢帝が帝の親族の塚のある真定の者のために守邑を置き、歳時ごとに祭祀を奉らせた。彼の兄弟を召し、たかい官位を与え、厚く彼らに賜った。宰相の陳平に、越の使者にふさわしい人物を挙げるように問うと、陳平は、陸賈は先帝の時、かつて越に使者になっていたことを言った。漢帝は陸賈を召して太中大夫とし、謁者の一人を副使として向かわせ、漢帝の文書をおくらせた。

「謹みてお伺い致します。南越王はいたく心を苦しめ、こころを労したことにございましょう。朕は、高帝の側室の息子にございます。都の外にて、代国に藩を奉っておりました。はるか道のりは遠く、純朴と愚昧とが覆い塞ぎ、いまだかつて文書をお送りしておりませんでした。高皇帝は群臣をお棄てになられ、孝恵皇帝が当代に即位され、高后が自ら事に臨みましたが、不幸にも疾病に罹られると、諸呂は権勢をほしいままにしようと政変を起こし、独力によって制することはできず、そこで他姓の子を取って孝恵皇帝の後継ぎとし、宗廟の御霊みたま、功臣の力に頼り、これらを誅し終えたところでございます。朕は王侯をもって、官吏は王書によって、将軍の博陽侯を罷免したのです。あなたの親族と兄弟のうち真定にいる者は、すでに人を遣わせて安否を問わせましたし、先人の塚も修復致しました。先日、王が国境付近で兵を興し、紛争による災禍を為して止まらず、これに長沙は苦しみ、南方の郡は特に甚だしいと聞いております。王の国とはいえ、なぜ独り利益を享受できることがありましょうか。必ずや多く士卒を殺し、良き将軍や官吏を傷めつけ、人の妻を独り身にし、人の子を孤児にし、人の父母を孤独に陥らせ、一を得たとしても十を失わせるであろうことに朕は我慢できず、本書を記すことにしました。朕は大地に互いに牽制し合う犬牙を平定したく、官吏に質問したところ、官吏は、「高皇帝が長沙を国境とした理由は、王の領地だからです。政変をほしいままにしてはなりませぬ。」と言いました。今や王は領地を手に入れたとはいえ、広大とするほどのものではなく、王が財物を手に入れたところで、富裕とするほどのものでもありません。嶺以南を服従させて王がこれらを自ら治めるまではよろしい。しかし、王の號を『帝』とし、二人の帝が並び立つのであれば、一乗の使者を亡失させながらも、その道に通すことになります。つまり戦争です。戦争をしてでも譲らないというのは、仁者のすることではありません。願わくば、王と以前からの悪事を分かち合って棄て去り、今後は元通りに使者を通わせることで手打ちとしてはいかがでしょうか。ゆえに陸賈を使者として赴かせ、王の元に馳せ参じることで朕の本意を諭告いたします。王もこれを同じく受け入れ、災禍を起こらないようにさせてください。よって、ここに綿入れの着物五十衣――中級の綿入れの着物を三十衣、下級の綿入れの着物を二十衣――を王におくります。願わくば王よ、安楽に従って憂いを消し、隣国に安否を確認されんことを。」

 陸賈がたどり着くと、帝は謝罪し、「謹みてみことのりを奉り、藩国の王として末長く職貢みつぎものをお供え致します。」と言った。そこでみことのりを下して言った。

「朕は『両雄が並び立つことはなく、両賢が世に並ぶことはない』と聞いております。漢皇帝は賢天子にございます。今から『帝』の体制、黄屋と左纛を取り去ることにします。よって文書を記し、蛮夷の大長を称し、老いぼれたるわたくし趙佗は死を顧みず再拝して文書を皇帝陛下に上奏致し、老いぼれは元通り、越の官吏となりましょうぞ。高帝は璽綬を賜わり、南越王となさられた。孝恵皇帝が即位され、義は絶たれることを我慢できぬものですが、この老いぼれに賜われたものは、あまりに厚い。高后が政事にあたると中華と蛮夷を分け隔て、次のようないいつけを出しました。「我が南越の黄金、まがね、田器、馬、牛、羊を我が側に近づけるでないぞ。我こそは牡(支配者)である。我は牝(被支配者)ではない。」と。老いぼれは僻地に住み、馬、牛、羊の歯はとっくに伸びきっております。自らによって祭祀が修まっていないのは、死罪にあたるものですから、使内使の潘、中尉の高、御史の平の全三人の下輩から文書を上奏し、過ちを謝罪します。誰も反対はしておりません。また、風聞によれば、老いぼれの父母の墳墓は既に破壊され、名が削られ、兄弟や宗族の者は既にことごとくが誅殺されたと聞いておりましたから、官吏と合議し、「今の国内には漢は奮っておらず、国外では我が国よりも高異の国は呉の地方にはない。だからよびなを『帝』に改め、自ら我が国に帝として君臨したところで、天下に害を与えるようなものではない。」と言い合っておりました。これを聞いた高皇后は激怒し、南越の戸籍を削り去り、使者を通交させないようにしたのです。ひそかに老いぼれは、長沙王の讒言によって濡れ衣を着せられたのではないかと疑っておりましたので、兵を興してそちらの国境付近をちました。老いぼれは越に在居すること四十年、今や孫を抱いております。それなのに朝早くに起きて職務に邁進し、夜遅くに寝たとしても安らかに眠ることはありませんし、何を食べてもおいしく感じず、目は美しい植物の緑も見えず、耳は美しい鍾や太鼓の音も聴こえませんでした。これは漢に仕えることができなかったからなのです。現在の陛下は幸いにして哀憐を持たれ、元通りのよびなに戻せば、元通りに使者を通わせて下さります。老いぼれは死ねども骨は朽ちませぬ。よびなを改めれば、わざわざ帝としてふるまうことがあるでしょうか。よって、謹みて使者を使わせて、白璧を一雙、翠羽を千尾、犀を十座、紫貝を五百、桂壼を一器、生翠を四十雙、孔雀を二雙ほど献上し、死を顧みず再拝するとともに、皇帝陛下に聞こしめさんことを。」

 陸賈は文書を手にし、帰還して報告すると、漢帝は大喜びであった。これ以降、南北はよしみを交え、戦争が終結し、民は休息を得たのである。 


漢文

 壬戌二十九年〈漢文帝恒元年〉(公元前一七九年)。漢帝為帝親塚在真定者置守邑、歲時奉祀。召其昆弟為尊官、厚賜之。問宰相陳平、舉可使越者。平言陸賈先帝時、曾使越、漢帝召賈為太中大夫、謁者一人為副使、往遺帝書、曰、謹問、南越王甚苦心勞意。朕、高帝側室之子也。棄外、奉藩于代。道里遼遠、壅蔽樸愚、未嘗致書。高皇帝棄群臣、孝惠皇帝即世、高后自臨事、不幸有疾、諸呂擅權為變、不能獨制、乃取他姓子、為孝惠皇帝嗣、賴宗廟之靈、功臣之力、誅之已畢。朕以王侯、吏以王書罷將軍博陽侯。其親昆弟在真定者、已遣人存問、修治先人塚。前日聞王發兵於邊、為寇災不止、長沙苦之、南郡尤甚。雖王之國、庸獨利乎。必多殺士卒、傷良將吏、寡人之妻、孤人之子、獨人父母、得一亡十、朕不忍為之也。朕欲定地犬牙之相制者、以問吏。吏曰、高皇帝所以界長沙者、王之地也。不得擅變焉。今也得王之地、不足以為大、得王之財、不足以為富、服嶺以南、王自治之、雖然王之號為帝、兩帝並立、亡一乘之使以通其道、是爭也。爭而不讓、仁者不為也。願與王分棄前悪、終今以來通使如故。。故使陸賈往馳諭告王以朕本意、王亦受之、毋為災矣。因以上褚五十衣、中褚三十衣、下褚二十衣遺王、願王聽樂消憂、存問鄰國。賈至、帝謝曰、謹奉詔為藩王、長供職貢。於是下詔曰、朕聞兩雄不俱立、兩賢不並世。漢皇帝、賢天子。自今去帝制、黃屋、左纛。因為書稱蠻夷大長、老夫臣佗昩死再拜上書皇帝陛下、老夫故越吏也、高帝賜璽綬、以為南越王。孝惠皇帝即位、義不忍絕、所賜老夫者甚厚。高后用事、別異華夷、出令曰、毋予南越金、鉄、田器、馬、牛、羊、即予、予牡、毋予牝。老夫處僻、馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修、有死罪、使內使潘、中尉高、御史平凡三輩上書謝過、皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削、兄弟宗族已誅泯、故吏相議曰、今內不得振於漢、外無以自高異於吳、故更號為帝、自帝其國、非敢有害於天下。高皇后聞之大怒、削去南越之籍、使使不通。老夫竊疑長沙王讒譖、故發兵以伐其邊。老夫處越四十年、于今抱孫焉。然夙興夜寐、寢不安席、食不甘味、目不視靡蔓之色、耳不聽鍾皷之音者、以不得事漢。今陛下幸哀憐、復故號、通使如故。老夫死、骨不朽、改號、不敢為帝矣。謹因使使者、獻白璧一雙、翠羽千尾、犀十座、紫貝五百、桂壼一器、生翠四十雙、孔雀二雙、昩死再拜、以聞皇帝陛下。陸賈得書還報、漢帝大悅。自是南北交好弭兵、民得休息矣。

書き下し文

 壬戌みずのえいぬの二十九年〈漢文帝恒の元年はぢめどし〉(公元の前一七九年)。漢のみかどみかどの親のつかの在る真定の者のため守邑むらもりを置き、歲時としごとまつりを奉らしむ。其の昆弟をとを召してたかつかさと為し、厚く之れに賜はる。宰相の陳平に、越に使つかひす可き者を舉げむことを問ふ。平は、陸賈は先のみかどの時、かつて越に使つかひしたるをまをす。漢のみかどは賈を召して太中大夫らしめ、謁者まみゆものの一人はそへもの使つかひと為し、かしめてみかどふみおくらしむ。曰く、謹みて問ふ、南越のきみと心を苦しめこころほねおる。朕は、高帝の側室のむすこなり。棄外そと、藩を代に奉る。道里みちのりはるか遠く、樸愚おろかしきふさおほひ、未だ嘗てふみを致さざり。高皇帝は群臣もろをみを棄て、孝惠皇帝は世にくも、高后は自ら事に臨み、不幸さちならずしてやまひ有り、もろもろの呂ははかりごとほしいままにせむとさかしまを為し、獨りをさむること能はず、すなはち他のかばねむすこを取り、孝惠皇帝のあとつぎと為さむとし、うからみたまやみたま功臣いさをしの力を賴り、之れをころしたるはすでゆ。朕は王侯きみを以ちて、つかさきみふみを以ちて將軍いくさのきみを博陽よりきみめせしむ。其のちかきの昆弟をとの真定に在る者は、已に人を遣はして存問たづねせしめ、かつての人の塚を修め治めたり。さきの日にきみくにへいくさをこし、あたわざはひを為して止まず、長沙は之れに苦しみ、南のこほりとりははなはだしと聞く。きみの國と雖も、なむぞ獨りるか。必ずや多く士卒いくさひとを殺し、良き將吏つかさを傷め、人の妻をひとりみにし、人の子をみなしごとし、人の父母かぞいろを獨りにし、一を得るも十をうしなはせしむること、朕は忍ばずして之れをつくるなり。朕はつち犬牙きばの相ひをさむる者を定めむとおもひ、以ちてつかさに問ふ。つかさ曰く、高皇帝の長沙にさかひする所以ゆゑことは、きみくにたればなり、と。さかしまほしいままにするを得ざらむ、と。今やきみくにを得ても、以ちてひろきと為すに足らず、きみたからを得ても、以ちて富と為すに足らず、みねり南をしたがひ、きみ自ら之れを治むるは、然ると雖もきみよびなみかどらしめ、ふたつみかどの並び立つは、一乘の使つかひうしなひて以ちて其の道を通すは、是れ爭ひなり。爭ひて讓らざること、仁者は為さざるなり。願はくば、きみかつてあしきを分かち棄て、今以さきには使つかひを通はせることもとの如くなりたるに終むことを。故に陸賈を使はして、かせせしめてきみに以ちて朕のまことこころ諭告がせしむれば、きみも亦た之れを受け、わざはひをこしたることなかれ。因りて以上ここわたころも五十衣いそつ、中のわたころも三十衣みそつ、下のわたころも二十衣はたつきみに遺らむ。願はくばきみよ、樂にしたがひて憂ひを消し、鄰りの國を存問なぐさみたらむことを、と。賈至り、みかどびて曰く、謹みてみことのりを奉り、藩王くにぎみと為りて長らく職貢みつぎものそなへたらむ、と。是に於いてみことのりを下して曰く、朕はふたりえらものともに立たず、ふたりさかしきは世に並ばざると聞く。漢の皇帝みかどは賢しき天子あまつみこたり。今自みかどくらひ黃屋みかどのかさ左纛みかどのはたを去らむ。因りてふみつくり、蠻夷ゑびす大長おほをさたるをひ、老夫おひぼれたるわれ佗は死をかへりみず、再び拜みてふみを皇帝陛下にたてまつり、老夫おひぼれもとの越のつかさなり。高帝はしるしくみひもを賜ひ、以ちて南越のきみらしむ。孝惠皇帝はくらひき、ことはりは絕つを忍びざるも、老夫おひぼれの者に賜はるる所はと厚し。高后はつとめに用ひ、もろこしゑびす別異へだて、いひつけを出して曰く、が南越のこがねまがね田器はたけのもの、馬、牛、羊、予にかしむことなかれ。われぬしたり。われしりへあらず、と。老夫おひぼれいなかすまひ、馬、牛、羊の齒は已に長し。自ら以ちて祭祀まつりごとの修まらざるは、死の罪に有り、使內使の潘、中尉の高、御史の平の凡そ三輩みたりふみたてまつりて過ちをび、皆反そむかざりき。又た風聞うはさ老夫おひぼれ父母ちちはは墳墓はかは已に壞れ削がれ、兄弟宗族うからは已にころき、故につかさは相ひはかりて曰く、今は內には漢より振るひたるを得ず、外には自ら高異すぐれたるは吳に於いて無く、故によびなあらためてみかどと為し、自ら其の國にみかどするは、敢て天下あめのしたわざはひ有ること非ざりき、と。高皇后は之れを聞きて大いに怒り、南越の籍を削り去り、使つかひ使かよはざせしむ。老夫おひぼれひそかに長沙のきみつげぐちしてぬれぎぬしたるを疑ひ、故にいくさをこして以ちて其のくにへを伐ちたり。老夫おひぼれは越にすまふこと四十年よそじ、今に孫を抱きたらむ。然れどもあさおきて夜にたらば、寢るは安席やすらかにあらず、食べても甘味うまからず、目はうるはしきつるの色を視ず、耳は鍾皷の音を聽かざること、漢につかふるを得ざるを以ちてなり。今の陛下はさいはひにして哀憐あはれみもとよびなもどし、使つかひを通はしむることもとの如し。老夫おひぼれは死ねども、骨は朽ちず、よびなを改めれば、敢へてみかどることあらざるか。謹みて因りて使者つかひを使はして、白璧の一雙、翠羽の千尾、犀の十座、紫貝の五百、桂壼の一器、生翠の四十雙、孔雀の二雙をたてまつり、死をかへりみず再び拜み、以ちて皇帝陛下に聞こしめす、と。陸賈はふみを得て還り報せば、漢のみかどは大いによろこぶ。是れり南北はよしみまぢへていくさめ、民は休息やすらぎを得たらむ。

三十年

現代語訳

 癸亥みずのといの三十年〈漢文帝の二年〉(公元の前一七八年)冬、十月、みそか、日食。


漢文

 癸亥三十年〈漢文帝二年〉(公元前一七八年)冬、十月、晦、日食。

書き下し文

 癸亥みずのといの三十年〈漢文帝の二年〉(公元の前一七八年)冬、十月、みそか、日はむ。

三十一年

現代語訳

 甲子きのえねの三十一年〈漢文帝の三年〉(公元の前一七七年)冬、十月、みそか、日食。 

 十一月、みそか、日食。


漢文

 甲子三十一年〈漢文帝三年〉(公元前一七七年)冬、十月、晦、日食。

 十一月、晦、日食。

書き下し文

 甲子きのえねの三十一年〈漢文帝の三年〉(公元の前一七七年)冬、十月、みそか、日はむ。

 十一月、みそか、日はむ。

四十八年

現代語訳

 辛巳かのとみの四十八年〈漢文帝の後元四年〉(公元の前一六〇年)夏、四月、みそか、日食 


漢文

 辛巳四十八年〈漢文帝後元四年〉(公元前一六〇年)夏、四月、晦、日食。

書き下し文

 辛巳かのとみの四十八年〈漢文帝の後元四年〉(公元の前一六〇年)夏、四月、みそか、日はむ。

五十一年

現代語訳

 甲申きのえさる五十一年〈漢文帝後元七年〉(公元前一五七年)夏、六月、漢帝が崩御し、「喪を短くせよ」とみことのりした。 

 秋、九月、星孛が西方にあった。


漢文

 甲申五十一年〈漢文帝後元七年〉(公元前一五七年)夏、六月、漢帝崩、詔短喪。

 秋、九月、有星孛于西方。

書き下し文

 甲申きのえさる五十一年〈漢文帝後元七年〉(公元前一五七年)夏、六月、漢のみかどは崩れ、喪を短くせむとみことのりす。

 秋、九月、星孛ほうきほしの西の方に有り。

五十二年

現代語訳

 乙酉きのととり五十二年〈漢景帝啟の元年〉(公元の前一五六年)。漢はみことのりし、郡国に太宗廟を立てよといいつけした。


漢文

 乙酉五十二年〈漢景帝啟元年〉(公元前一五六年)。漢詔令郡國立太宗廟。

書き下し文

 乙酉きのととり五十二年〈漢景帝啟の元年はぢめどし〉(公元の前一五六年)。漢はみことのりしてこほりと國に太宗のみたまやを立てよといひつけす。

五十三年

現代語訳

 丙戌ひのえいぬ五十三年〈漢景帝の二年〉(公元前一五五年)冬、十一月、星孛が西方にあった。


漢文

 丙戌五十三年〈漢景帝二年〉(公元前一五五年)冬、十一月、有星孛于西方。

書き下し文

 丙戌ひのえいぬ五十三年〈漢景帝の二年〉(公元前一五五年)冬、十一月、星孛ほうきほしの西の方に有り。

五十四年

現代語訳

 丁亥ひのとい五十四年〈漢景帝の三年〉(公元の前一五四年)春、正月、長星が西方に出現した。この月のみそか、日食。 


漢文

 丁亥五十四年〈漢景帝三年〉(公元前一五四年)春、正月、長星出西方。是月、晦、日食。

書き下し文

 丁亥ひのとい五十四年〈漢景帝の三年〉(公元の前一五四年)春、正月、長星ながほしは西の方に出づる。是月こつきみそか、日はむ。

五十五年

現代語訳

 戊子つちのえねの五十五年〈漢景帝の四年〉(公元の前一五三年)冬、十月、みそか、日食。 


漢文

 戊子五十五年〈漢景帝四年〉(公元前一五三年)冬、十月、晦、日食。

書き下し文

 戊子つちのえねの五十五年〈漢景帝の四年〉(公元の前一五三年)冬、十月、みそか、日はむ。

六十年

現代語訳

 癸巳みずのとみの六十年〈漢景帝の中元二年〉(公元の前一四八年)夏、四月、有星孛が西北にあった。

 秋、九月、みそか、日食。 


漢文

 癸巳六十年〈漢景帝中元二年〉(公元前一四八年)夏、四月、有星孛于西北。

 秋、九月、晦、日食。

書き下し文

 癸巳みずのとみの六十年〈漢景帝の中元二年〉(公元の前一四八年)夏、四月、星孛ほうきほしの西北に有り。

 秋、九月、みそか、日はむ。

六十一年

現代語訳

 甲午きのえうまの六十一年〈漢景帝の中元三年〉(公元の前一四七年)秋、九月、星孛が西北にあった。この月のみそか、日食。 


漢文

 甲午六十一年〈漢景帝中元三年〉(公元前一四七年)秋、九月、有星孛于西北。是月、晦、日食。

書き下し文

 甲午きのえうまの六十一年〈漢景帝の中元三年〉(公元の前一四七年)秋、九月、星孛ほうきほしの西北に有り。是月こつきみそか、日はむ。

六十二年

現代語訳

 乙未きのとひつじ六十二年〈漢景帝の中元四年〉(公元の前一四六年)冬、十月、みそか、日食。 


漢文

 乙未六十二年〈漢景帝中元四年〉(公元前一四六年)冬、十月、晦、日食。

書き下し文

 乙未きのとひつじ六十二年〈漢景帝の中元四年〉(公元の前一四六年)冬、十月、みそか、日はむ。

六十四年

現代語訳

 丁酉かのととりの六十四年〈漢景帝の中元六年〉(公元の前一四四年)秋、七月、みそか、日食。当時、帝は使者を漢に遣わせる際にはすべて、王を名乗って朝請では諸侯と並んでいたが、国内では元通りのよびなに従った。 


漢文

 丁酉六十四年〈漢景帝中元六年〉(公元前一四四年)秋、七月、晦、日食。時、帝凡遣使如漢、則稱王、朝請以比諸侯、於國內則從故號。

書き下し文

 丁酉かのととりの六十四年〈漢景帝の中元六年〉(公元の前一四四年)秋、七月、みそか、日はむ。時、みかどは凡そ使つかひを遣はして漢にかしむれば、則ちきみなのり、朝請みかどは以ちて諸侯もろきみならぶも、國の內に於いては則ちもとよびなに從へり。

六十五年

現代語訳

 戊戌六十五年〈漢景帝後元元年〉(公元前一四三年)秋、七月、みそか、日食。 


漢文

 戊戌六十五年〈漢景帝後元元年〉(公元前一四三年)秋、七月、晦、日食。

書き下し文

 戊戌六十五年〈漢景帝後元元年〉(公元前一四三年)秋、七月、みそか、日はむ。

六十七年

現代語訳

 庚子六十七年〈漢景帝後元三年〉(公元前一四一年)冬、十月、日と月がいずれも赤かった。

 十二月、日が紫に近い色になり、五星が逆行して太微を守り、月は天庭の真ん中を貫いた〈天庭とは龍星、右角、太微、宮垣の十星にあたり、翌軫の地、天子の宮、五帝の座にある〉。

 春、正月、漢帝が崩御した。 


漢文

 庚子六十七年〈漢景帝後元三年〉(公元前一四一年)冬、十月、日月皆赤。

 十二月、日如紫、五星逆行守太微、月貫天庭中〈天庭即龍星、右角、太微、宮垣十星、在翌軫之地、天子之宮、五帝之座〉。

 春、正月、漢帝崩。

書き下し文

 庚子六十七年〈漢景帝後元三年〉(公元前一四一年)冬、十月、日と月はいづれも赤し。

 十二月、日は紫の如し、五つ星はさかしまに行きて太微を守り、月は天庭のうちを貫ぬ〈天庭は即ち龍星、右角、太微、宮垣の十つ星、翌軫のつち、天子の宮、五帝の座に在り〉。

 春、正月、漢のみかどは崩れたり。

六十九年

現代語訳

 壬寅六十九年〈漢武帝徹建元二年〉(公元前一三九年)春、正月、みそか、日食。

 夏、四月、日のような星があり、夜に出た。 


漢文

 壬寅六十九年〈漢武帝徹建元二年〉(公元前一三九年)春、正月、晦、日食。

 夏、四月、有星如日、夜出。

書き下し文

 壬寅六十九年〈漢武帝徹建元二年〉(公元前一三九年)春、正月、みそか、日はむ。

 夏、四月、星の日の如き有り、夜に出づ。

七十年

現代語訳

 癸卯七十年〈漢建元三年〉(公元前一三八年)秋、七月、星孛が西北にあった。

 九月、みそか、日食。 


漢文

 癸卯七十年〈漢建元三年〉(公元前一三八年)秋、七月、有星孛于西北。

 九月、晦、日食。

書き下し文

 癸卯七十年〈漢建元三年〉(公元前一三八年)秋、七月、有星孛于西北。

 九月、みそか、日はむ。

七十一年

現代語訳

 甲辰七十一年〈漢建元四年公元前一三七年。帝が崩御し、武とおくりなされた。孫の胡が立った〈後に陳朝は帝を『開天体道聖武神哲皇帝』に封じた〉。 〉 


漢文

 甲辰七十一年〈漢建元四年(公元前一三七年)。帝崩、謚武。孫胡立〈後陳朝封帝為開天体道聖武神哲皇帝〉。 〉

書き下し文

 甲辰七十一年〈漢建元四年公元前一三七年みかどは崩れ、たけるおくりなす。孫の胡立つ〈後に陳朝はみかどさづけて開天体道聖武神哲皇帝あめをひらきてみちのひじりなるたけるかみのさとしきおほすめらと為す〉。 〉

黎文休曰

現代語訳

 黎文休は言う。

「遥か東方の微子と箕子は、衣冠の習俗を成立させることはできなかったし、呉も泰伯の当時以外では、王覇の強勢には至ることができなかったが、偉大なる舜も東夷の人にありながら、五帝の英主となった。周文王も西夷の人であったが、三代の賢君となったのだ。つまり善を知り、国を興す者とは、領地の広狭に限られない。人における中華と蛮夷とは、徳――ただそれだけを見るものなのだ。趙武帝は我が越をよく開拓し、そして自らその国の帝として君臨し、漢に譲らず競い合い、文書では「老いぼれ」を名乗りながら、我が越の為に帝王としての基礎を早くに創業なさり、その功績は多大であると言わねばなるまい。後に帝王として越に君臨した者たちも、よく趙武帝の法に則り、固く皇帝の都を安じ、軍事と国家を設立して隣国との交際に道理を有し、仁をもって地位を守れば、長らく国土を保つことができて、北方の人も二度と好き勝手はできないのだ(「好き勝手」とは、反目し合う状況である)。 


漢文

 黎文休曰、遼東微箕子不能成衣冠之俗、吳會非泰伯不能躋王覇之強。大舜、東夷人也、為五帝之英主。文王、西夷人也、為三代之賢君。則知善為國者、不限地之廣狹、人之華夷、惟德是視也。趙武帝能開拓我越、而自帝其國、與漢抗衡、書稱老夫、為我越倡始帝王之基業、其功可謂大矣。後之帝越者能法趙武、固安封圻、設立軍國、交鄰有道、守位以仁、則長保境土、北人不得復恣睢也(恣睢反目貌)。

書き下し文

 黎文休曰く、遼(はる)か東の微箕子は衣冠の俗(ならひ)を成すこと能はず、吳も會(たまたま)にして泰伯に非ざれば、王覇の強(さか)りに躋(のぼ)ること能はず。大いなる舜は、東夷(あづまゑびす)の人なりて、五(いつたり)の帝(みかど)の英(えらひと)の主(あるぢ)と為る。文王も西夷(にしゑびす)の人なりて、三代(みよ)の賢君(さかしききみ)と為る。則ち善を知りて國を為(つく)る者は、地(くに)の廣きと狹(せま)きに限らず、人の華(うるはしき)と夷(ゑびす)は、惟(た)だ德是れのみ視るなり。趙武帝は能く我が越を開拓(ひら)き、而して自ら其の國に帝(みかど)し、漢と抗衡(はりあひ)するも、書(ふみ)して老夫(おひぼれ)を稱(なの)り、我が越の為に帝王(みかど)の基(もとひ)の業(みわざ)を倡始(はじ)め、其の功(いさを)は大いなると謂ふ可きかな。後の越に帝(みかど)する者は能く趙武に法(のりと)り、固く封圻(みやこ)を安じ、軍(いくさ)と國(まつりごと)を設け立て、鄰と交(まぢ)るに道有り、位(くらひ)を守るに仁を以ちてすれば、則ち長く境土(くに)を保ち、北の人も復(また)も恣睢(ほしいまま)を得ることなきなり(恣睢(ほしいまま)とは反目の貌(かたち)たり)。

呉士連曰

現代語訳

 史臣の呉士連は言う。

「伝には、『大いなる徳があれば、必ずその者は地位を手に入れ、必ずその者は名を手に入れ、必ずその者は長寿を手に入れる。』とある。帝は何を修めてこれらを手に入れたのだろうか。このようにも言われている。『――德だけである』と。その答えから陸賈の言葉を確認すれば、英雄武帝の成したことは、漢の高祖に譲るものであろうか? 文帝が帝の親族の塚のために守邑を置き、歲時ごとに祭祀を奉らせて、しかも厚く彼の兄弟に賜ったと聞くと、ふたたび漢に屈することになった。こうして宗廟にはごちそうが供えられ、子孫が保たれたのは、徳によるものでなかろうか。易に「謙譲とは、尊ければ輝くもので、卑しくとも上から跨がれない。」とあるが、帝はそのことを実践したのだ。 


漢文

 史臣吳士連曰、傳曰、有大德、必得其位、必得其名、必得其壽。帝何修而得此哉。亦曰德而已矣。觀其答陸賈語、則英武之成、豈讓漢高。及聞文帝為帝親塚置守邑、歲時奉祀、及厚賜其昆弟、則又屈於漢。於是宗廟饗之、子孫保之、非以德耶。易曰、謙尊而光、卑而不可踰。帝其以之。

書き下し文

 史臣の吳士連曰く、傳に曰く、大いなる德をたば、必ず其のくらひを得、必ず其の名を得、必ず其のいのちながしを得、と。みかどは何を修めて此れを得たるかな。亦た曰く、德のみ、と。其の答へを陸賈の語に觀れば、則ち英武のなしたるは、豈に漢の高に讓らむ。文帝はみかどみうちつかため守邑むらもりを置き、及び歲時としごとまつりを奉り、厚く其の昆弟をとに賜ふを聞くに及びたれば、則ち又た漢にくぐむ。是に於いて宗廟みたまやの之れをそなへ、子孫うまごの之れにたもつは、德を以ちてするに非ざるか。易に曰ふ、謙は尊くしてかがやき、卑くして踰ゆる可からず、みかどは其の之れを以ちてせむ。

注記

 準備中。

底本

大越史記全書- 维基文库,自由的图书馆

改易

聞帝亦己王越 → 聞帝亦已王越