論語 唐棣之華

 

本文

漢文

 唐棣之華 偏其反而
 豈不爾思 室是遠而

書き下し文

 唐棣 にはざくらの華、
  ひらりとして其れ ひるがへりなん。
 豈に の思ふにあらざるならん。
  いへの是れ遠ければなるのみ。

現代語訳

 唐棣花 にわざくら
 それはひらりとひるがえる。
 あなたを想わぬはずはなし。
 なにぶん家が遠くてな。

付記

 論語の子罕第九から。詩経に掲載されていない古詩。これを逸詩という。遠距離恋愛だからうまくいかない……という詩だと一般に解され、これに準ずる風に訳している。奇をてらう必要もない。

 この詩歌に孔子が批判を加えるのが論語の本文。その時の孔子の言葉が「未之思也、夫何遠之有」。主流の解釈では「こりゃ十分な想いではないな。遠いことが理由になるのかね?」といった感じ。遠距離恋愛であることを言い訳にしちゃうなんて本気の恋じゃないってこと。

 論語にとっつきやすくするために、この章句が紹介されることは多い。私自身も論語を読み始めたころ好んでいた章句で、孔子を単なるカタブツと思っている人には新鮮だろう。会話の中で「孔子も遠距離だからと言い訳するのは本気の恋じゃないって言ってたからね」なんて言うとみんな架空の孔子の格言を弄する"Confucius says Joke"だと皆が受け取る。そこでこの章句のことを紹介すると驚かれる。これを私は持ちネタにしていて、かれこれ10回以上はそんなやりとりをしたことがある。

 ちなみに世界史的にこういう論語の章句は何気に重要で、かの啓蒙主義者の先駆であるフランスの哲学者ヴォルテールは、孔子が恋愛の詩を評論していることに大層おどろいて彼を崇敬するようになった。恋愛の詩を何度も詠んではカソリック教会から繰り返し弾圧され、自然な情愛を否定する当時の教会の神学に大いに疑問を有したヴォルテールにとって、孔子はみずからの想いに応える思想家であり自由の象徴であった。フランスから生じた普遍的近代はこれより始まる。

底本

論語注疏- 中國哲學書電子化計劃