三国史記 始祖 多婁王紀

多婁王

現代語訳

 多婁王、温祚王の元子である。器量が広くて寛大で、威光も人望もあった。温祚王の在位第二十八年に太子として立てられ、四十六年に王が薨去してから位を継いだ。


漢文

 多婁王、溫祚王之元子。器宇寬厚、有威望。溫祚王在位第二十八年、立為太子、至四十六年、王薨、繼位。

書き下し文

 多婁王、溫祚王の元子 はぢめご たり。器宇 うつは 寬厚 ひろ く、 たけき ほまれ 有り。溫祚王の くらひ ゐま すこと第二十八年 はたちあまりやつとし 、立てて太子 みこ らしめ、四十六年に きみ みまか るに至りて くらひ を繼ぎたり。

二年

現代語訳

 二年(29年)春正月、王が始祖東明の廟に拝謁した。
 二月、王が天地を南の祭壇に祀った。


漢文

 二年、春正月、王謁始祖東明廟。
 二月、王祀天地於南壇。

書き下し文

 二年、春正月、 きみ は始祖の東明の みたまや まみ ゆ。
 二月、 きみ 天地 あめつち を南の もりつち に祀りたり。

三年

現代語訳

 三年(30年)冬十月、東部の屹于が靺鞨と馬首山の西で戦い、これに勝って殺害および獲虜した者は甚だ多かった。喜んだ王は、屹于に馬十匹と租五百石を褒賞した。


漢文

 三年、冬十月、東部屹于、與靺鞨戰於馬首山西、克之、殺獲甚衆。王喜、賞屹于馬十匹、租五百石。

書き下し文

 三年、冬十月、東の部の屹于は、靺鞨と馬首山の西に於いて戰ひ、之れに克ちて殺し獲ること甚だ おほ し。 きみ は喜び、屹于に馬十匹と租の五百石を たま ふ。

四年

現代語訳

 四年(31年)秋八月、高木城の昆優は、靺鞨と戦って大いに勝ち、斬首すること二百級余り。
 九月、王が横岳の ふもと で田猟をし、一組の鹿に連ねて(矢を)当てたので、感嘆した衆人はそれを賛美した。


漢文

 四年、秋八月、高木城昆優、與靺鞨戰、大克、斬首二百餘級。
 九月、王田於橫岳下、連中雙鹿、衆人歎美之。

書き下し文

 四年、秋八月、高木城の昆優は、靺鞨と戰ひ、大いに克ち、首を斬ること二百餘級 ふたほたりあまり
 九月、 きみ は橫岳の ふもと に於いて り、 ふたつ の鹿に連ね て、衆人 ひと は歎びて之れを たた ふ。

六年

現代語訳

 六年(33年)春正月、元子の己婁を太子として立てた。大赦した。
 二月、国南の州郡に いいつけ を下し、初の稲田を作らせた。


漢文

 六年、春正月、立元子己婁為太子。大赦。
 二月、下令國南州郡、始作稻田。

書き下し文

 六年、春正月、元子 はぢめご の己婁を立て太子 みこ らしむ。大いに赦す。
 二月、 いひつけ を國の南の州郡に下し、稻田 いなだ を作り始めせしむ。

七年

現代語訳

 七年(34年)春二月、右輔の解婁が卒去し、年齢は九十歲であった。東部の屹于を右輔とした。
 夏四月、東方に赤気が上がった。
 秋九月、靺鞨は馬首城を攻め陥し、火を放って百姓の廬や家屋を焼いた。
 冬十月、今度は甁山柵を襲った。


漢文

 七年、春二月、右輔解婁卒、年九十歲。以東部屹于為右輔。
 夏四月、東方有赤氣。
 秋九月、靺鞨攻陷馬首城、放火、燒百姓廬屋。
 冬十月、又襲甁山柵。

書き下し文

 七年、春二月、右輔の解婁は に、 よはひ 九十歲 ここのそつ 。東部の屹于を以ちて右輔 らしむ。
 夏四月、東の ところ に赤氣有り。
 秋九月、靺鞨は馬首城を攻め陷し、火を放ち、百姓の廬屋 いえ を燒く。
 冬十月、又た甁山柵を襲ふ。

十年

現代語訳

 十年(37年)冬十月、右輔の屹于が左輔となり、北部の眞會が右輔となった。
 十一月、地震の音は雷のようであった。


漢文

 十年、冬十月、右輔屹于為左輔、北部眞會為右輔。
 十一月、地震聲如雷。

書き下し文

 十年、冬十月、右輔の屹于は左輔と為り、北部の眞會は右輔と為る。
 十一月、地震 なゐ こへ いかづち の如し。

十一年

現代語訳

 十一年(38年)秋、穀物が成らず、百姓に私的な釀酒を禁じた。
 冬十月、王が東西の両部を巡撫し、貧しくて自存ができない者に、穀物を一人につき二石ほど配給した。


漢文

 十一年、秋、穀不成、禁百姓私釀酒。
 冬十月、王巡撫東西兩部、貧不能自存者、給穀人二石。

書き下し文

 十一年、秋、 いひ は成らず、百姓に わたくし の酒を釀すを とど む。
 冬十月、 きみ は東西の ふたつ の部を巡り撫で、貧しく自ら ること能はざる者は、 いひ ひとり 二石を給ふ。

二十一年

現代語訳

 二十一年(48年)春二月、宮中の太槐樹がひとりでに枯れた。
 三月、左輔の屹于が卒去し、王は彼に対して哭き、哀しんだ。


漢文

 二十一年、春二月、宮中太槐樹自枯。
 三月、左輔屹于卒、王哭之哀。

書き下し文

 二十一年、春二月、宮の うち の太槐の樹は自づから枯る。
 三月、左輔の屹于は に、 きみ は之れに哭きて哀しむ。

二十八年

現代語訳

 二十八年(55年)春夏に旱魃があった。囚人を慮り、死罪を赦免した。
 秋八月、靺鞨が北の鄙を侵した。


漢文

 二十八年、春夏旱。慮囚、赦死罪。
 秋八月、靺鞨侵北鄙。

書き下し文

 二十八年、春夏に ひでり あり。 とがひと を慮り、死罪を赦す。
 秋八月、靺鞨は北の いなか を侵す。

二十九年

現代語訳

 二十九年(56年)春二月、王が東部に、牛谷城を築くように命じ、これによって靺鞨に備えた。


漢文

 二十九年、春二月、王命東部、築牛谷城、以備靺鞨。

書き下し文

 二十九年、春二月、 きみ は東部に みことのり し、牛谷城を築き、以ちて靺鞨に備ふ。

三十六年

現代語訳

 三十六年(63年)冬十月、王は土地を開拓して娘子谷城までたどり着いた。そこで使者を遣わせて新羅に面会を要請したが、(新羅は)従わなかった。


漢文

 三十六年、冬十月、王拓地至娘子谷城。仍遣使新羅請會、不從。

書き下し文

 三十六年、冬十月、 きみ つち を拓きて娘子谷城に至る。仍りて使 つかひ を遣りて新羅に つどひ を請ふも、從はざり。

三十七年

現代語訳

 三十七年(64年)秋八月に王が兵を遣わせて新羅の蛙山城を攻めたが勝てず、冬十月に兵を移して狗壌城を攻めた。新羅は騎兵二千を放って迎え撃ち、これを敗走させた。


漢文

 三十七年、秋八月王遣兵攻新羅蛙山城、不克、冬十月、移兵攻狗壤城。新羅發騎兵二千、逆擊走之。

書き下し文

 三十七年、秋八月に きみ いくさひと を遣りて新羅の蛙山城を攻むるも克たず、冬十月に いくさひと を移して狗壤城を攻む。新羅は騎兵 うまいくさ 二千 ふたちたり はな ちて、逆擊 むかへう ち之れを走らしむ。

三十九年

現代語訳

 三十九年(66年)蛙山城を攻め取って二百人を駐留させ、そこを守備させたが、次いで新羅に敗れてしまった。


漢文

 三十九年、攻取蛙山城、留二百人、守之、尋為新羅所敗。

書き下し文

 三十九年、蛙山城を攻め取り、二百人を留めて之れを守らしむも、尋ぎて新羅に敗らるる所と為る。

四十三年

現代語訳

 四十三年(70年)兵を遣わせて新羅を侵した。


漢文

 四十三年、遣兵侵新羅。

書き下し文

 四十三年、 いくさひと を遣りて新羅を侵す。

四十六年

現代語訳

 四十六年(73年)夏五月の戊午 つちのえうま みそか 、日食があった。


漢文

 四十六年、夏五月戊午晦、日有食之。

書き下し文

 四十六年、夏五月の戊午 つちのえうま みそか 、日の之れを食む有り。

四十七年

現代語訳

 四十七年(74年)秋八月、将を遣わせて新羅を侵した。


漢文

 四十七年、秋八月、遣將侵新羅。

書き下し文

 四十七年、秋八月、 いくさかしら を遣りて新羅を侵す。

四十八年

現代語訳

 四十八年(75年)冬十月、またしても蛙山城を攻め、これを攻め落とした。


漢文

 四十八年、冬十月、又攻蛙山城、拔之。

書き下し文

 四十八年、冬十月、又た蛙山城を攻め、之れを拔く。

四十九年

現代語訳

 四十九年(76年)秋九月、蛙山城が新羅に復帰されてしまった。


漢文

 四十九年、秋九月、蛙山城為新羅所復。

書き下し文

 四十九年、秋九月、蛙山城は新羅に かへ さるる所と為る。

五十年

現代語訳

 五十年(77年)秋九月、王が薨去した。


漢文

 五十年、秋九月、王薨。

書き下し文

 五十年、秋九月、 きみ みまか れり。

注記


馬首山

 韓国京畿道浦川郡付近に比定される。

高木城

 京畿道延川郡とする説がある。

横岳

 ソウル特別市の北漢山の白雲台、万寿峰、仁寿峰を総称した三角山に比定される。

赤気

 中国の史書でしばしば見られる天文的な現象。日本書紀にも登場する。

靺鞨

 中国北東部に住む民族。粛慎や挹婁の後裔とされ、この名が中国史において登場するのは5世紀頃である。本書の当該の記録は1世紀頃の記録とされているため、粛慎のことを言っているとも考えられるが、三国史記百済紀の近肖古王以前の記録は事実性、少なくとも時系列が怪しいところがあるため、後世の事件が記されているとも考えられ、どのように解釈すべきかはわからない。

馬首城

 馬首山と同様、韓国京畿道浦川郡付近に比定される。

甁山柵

 どこか不明。

槐樹

 エンジュ。豆科に属する広葉樹。韓国各地および日本、中国などに分布する。漢方において花と果実は薬用に使用された。中国の州では大臣の前に槐樹を植えたので、大臣を槐樹と呼ぶことがある。槐樹は義慈王紀にも登場し、百済における神聖な樹木とされていたと考えられる。

牛谷城

 京畿道北東部だと比定されるが、実際の位置は不明。靺鞨と馬韓の衝突地帯となっていた。

娘子谷城

 忠清北道清原郡に比定される。

蛙山城

 韓国の忠清北道報恩郡とされる。

狗壌城

 韓国忠清北道沃川郡に比定される。

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