三国史記 瑠璃明王紀

始祖 東明聖王

現代語訳

 瑠璃明王が立った。いみなは類利、あるいは孺留と伝わる。朱蒙の最初の息子で、母は禮氏である。

 初め、朱蒙が扶餘にいた頃、禮氏の娘を娶って妊娠させた。朱蒙が立ち去った後から生まれた。これが類利である。幼き日にあぜ道の端に出かけて遊んでいたところ、ぱちんこで雀を撃とうとして、誤って水を汲んでいた婦人の瓦器かわらけを壊してしまった。婦人が「この子は父親がいないから、こんなにガサツになってしまったんだろうね!」と罵ると、類利は慙じ入りながら帰り、母親に「ぼくの父親は誰ですか? 今はどこにいるのですか?」と質問した。母は言った。 「お前の父親は非常の人です。国にいられなくなって南の地に逃げ去り、国を開いて王を称しています。去る時には私にこう言いました。『お前がもし男子を生んだならば、七稜ななつかどの石の上、松の下に私からの遺品があることを伝えてくれ。もしこれを得ることができる者があれば、つまり我が子である。』と。」
 これを聞いた類利は、すぐに山谷に往ってそこを探索したが見つけることができず、疲れ切って帰ろうとし、一旦は堂の上にいると、柱の礎の間から声のようなものが聞こえ、よくそちらを見てみると、礎の石に七稜ななつかどがあった。そこで柱の下から捜索すると、折れたつるぎの一片を見つけた。こうしてこれを持って屋智、句鄒、都祖等の三人とともに行き、卒本までたどり着くと、父王に謁見して、折れた劒を彼に奉げると、王は自身の所有する折れた劒を取り出し、それに合わせてみれば、連ねて一振りのつるぎとなった。それを王は悦び、太子に立て、ここに至って位を継いだのである。


漢文

 瑠璃明王立。諱類利、或云孺留。朱蒙元子、母禮氏。初、朱蒙在扶餘、娶禮氏女有娠。朱蒙歸後乃生、是為類利。幼年、出遊陌上、彈雀誤破汲水婦人瓦器。婦人罵曰、此兒無父、故頑如此。類利慙、歸問母氏、我父何人、今在何處。母曰、汝父非常人也、不見容於國、逃歸南地、開國稱王。歸時謂予曰、汝若生男子、則言我有遺物、藏在七稜石上松下、若能得此者、乃吾子也。類利聞之、乃往山谷、索之不得、倦而還。一旦在堂上、聞柱礎間若有聲、就而見之、礎石有七稜。乃搜於柱下、得斷劒一段。遂持之與屋智、句鄒、都祖等三人、行至卒本、見父王、以斷劒奉之。王出己所有斷劒、合之、連為一劒。王悅之、立為太子、至是繼位。

書き下し文

 瑠璃明王立つ。いみなは類利、或は孺留と云ふ。朱蒙の元子はじめご、母は禮うぢなり。初め、朱蒙の扶餘に在るとき、禮うぢむすめを娶りて娠む有り。朱蒙のりて後に乃ち生み、是れ類利と為す。幼なき年に陌上みちばた出遊いであそび、雀を彈かむとして誤り、汲水みずくみ婦人をんな瓦器かわらけを破る。婦人をんなは罵りて曰く、此のに父無し、故にかたくななること此の如し、と。類利はぢて歸り、母氏に問へるは、我が父は何人ぞ、今は何處いずこに在らむ、と。母曰く、汝の父は常に非ざる人なり。國に容らるることなく、南のつちに逃げり、國を開ききみひたり。りし時、われに謂ひて曰く、汝の若し男子をのこを生めば、則ち我に遺したる物有り、かくして七稜ななつかどの石の上にして松の下に在ることを言ふべし。若し此れを得るに能ふ者あれば、乃ち吾子わがこなり、と。類利之れを聞き、乃ち山谷に往きて之れを索るも得ず、倦みて還るに、一旦ひとたび堂の上に在らば、柱の礎の間に聲有るが若くなるを聞き、就きて之れを見れば、礎の石に七稜ななつかど有り。乃ち柱の下より搜れば、斷たるるつるぎの一段ひときざみを得。遂に之れを持ちて屋智、句鄒、都祖等の三人みたりと與に行きて卒本まで至り、父王ちちぎみまみえて、斷たるる劒を以て之れに奉ぐ。きみは己のちたる所の斷たるる劒を出し、之れに合わせれば、連ねて一劒ひとふりのつるぎと為る。きみは之れを悅び、立てて太子と為し、是に至りて位を繼ぎたり。

二年

現代語訳

 二年(前18年)、秋七月、多勿侯の松讓の娘を結納して妃とした。
 九月、西で狩りをして白いきばのろを獲た。
 冬十月、神雀が王の庭に集った。百済くだらの始祖の溫祚が立った。


漢文

 二年、秋七月、納多勿侯松讓之女為妃。九月、西狩獲白獐。冬十月、神雀集王庭。百濟始祖溫祚立。

書き下し文

 二年、秋七月、多勿侯たもつのきみの松讓のむすめれてきさきと為す。
 九月、西に狩りて白ききばのろを獲たり。  冬十月、神雀、王の庭に集ふ。百濟くたら始祖はじめおやの溫祚立ちたり。

三年

現代語訳

 三年(前17年)、秋七月、離宮を鶻川に作った。
 冬十月、王妃の松氏が薨去した。王は新たに二人の女姫を娶ることで、正室を継がせた。ひとりは禾姬といい、鶻川人の娘である。もうひとりは雉姬といい、漢人の娘である。ふたりの娘は寵愛を争い、互いに不和であったので、王は涼谷に東西ふたつの宮を造り、それぞれに彼女らを置いた。その後、王が箕山で狩りをして七日ほど帰らなかった時のこと、ふたりの女姫がケンカし、禾姬は雉姬を罵った。「あんたは漢人の家の婢妾はしためでしょう? なんでそんなに無礼なの!」雉姬は慙じ入る気持ちと恨みの気持ちをもって逃げ帰ってしまった。それを聞いた王は、馬を鞭で打って彼女を追いかけたが、雉姬は怒って帰らなかった。王がかつて樹の下で休息をしていると、黄鳥が飛び集まるを見て、そこに感じ入り、次のように歌った。

翩翩黃鳥 翩翩ひるがへりたる黃鳥うぐいす 翼を翻す黄鳥の
雌雄相依 雌と雄は相ひ依らば 雌と雄とが互いに身を寄せれば、
念我之獨 我のひとりなるをおもひたらむ。  ふと我が身の孤独が頭をもたげる。
誰其與歸 誰ぞ其れともに歸らむか。 誰と共に帰ればよいのか。

漢文

 三年、秋七月、作離宮於鶻川。冬十月、王妃松氏薨。王更娶二女姬以繼室、一曰禾姬、鶻川人之女也、一曰雉姬、漢人之女也。二女爭寵、不相和、王於涼谷造東西二宮、各置之。後、王田於箕山、七日不返。二女姬爭鬪、禾姬罵雉姬曰、汝漢家婢妾、何無禮之甚乎。雉姬慙恨亡歸。王聞之、策馬追之、雉姬怒不還。王嘗息樹下、見黃鳥飛集、乃感而歌曰、翩翩黃鳥、雌雄相依、念我之獨、誰其與歸。

書き下し文

 三年、秋七月、離れの宮を鶻川に作りたり。
 冬十月、王妃きさきの松うぢみまかる。おほきみあらたに二ふたり女姬ゑひめを娶り、以てつまを繼がせしむ。ひとり禾姬のぎのひめと曰ひ、鶻川の人のむすめなり。ひとり雉姬きじのひめと曰ひ、漢人からひとむすめなり。ふたりむすめさいはひを爭ひ、相ひにきすことなく、おほきみは涼谷に東西のふたつの宮を造り、おのおの之れに置きたらむ。後におほきみの箕山にりて七日なのか返らざれば、ふたり女姬ひめ爭鬪あらそひ禾姬のぎのひめ雉姬きじのひめを罵りて曰く、汝はからひといえ婢妾はしため、何ぞ無禮のはなはだしきか、と。雉姬きじのひめはぢうらみてのがかへりたり。おほきみは之れを聞き、馬をむちうちて之れを追ふも、雉姬きじのひめは怒りて還らず。おほきみは嘗て樹の下にやすめば、黃鳥の飛び集まるを見、乃ち感じて歌ひて曰く、翩翩ひるがへりたる黃鳥うぐいす、雌と雄は相ひ依らば、我のひとりおもひたらむ。誰ぞ其れともに歸らむか、と。

十一年

現代語訳

 十一年(前9年)、夏四月、王は群臣に言った。
「鮮卑は険難の地に恃み、我が国と和親せず、有利と見れば抄掠に出で、不利と見れば守りに入り、国患となっている。もしこれらをくじくことができる者がいるなら、私は重く褒賞するつもりだ。」
 扶芬奴が進み出て言った。
「鮮卑は険固な国で、人も勇猛ではございますが、愚鈍でもあります。力での闘いをするのは困難ですが、謀略によって屈服させるのは容易です。」
 王が「それなら、それはどうすればいいのか。」と言うと、次のように答えた。
「どうか人を反間スパイとして使わせ、かの国にもぐりこませ、我が国は小さく兵も弱いので、怯え切って動くことさえできない、と偽りを説きましょう。そうすれば、鮮卑は必ず我が国を与しやすしとして、そのそなえをしなくなるでしょう。わたしはその隙を待って精兵を率い、間路に沿って行き、山林に身を隠してその城を望み見ます。王が痩弱な兵を使役しながらその城の南に出撃すれば、あちらは必ずや城をけたまま、それを遠くまで深追いしますので、わたしは精兵を率いてその城まで駆け込み、王もみずから勇猛な騎兵を率いてこれを挾み擊ちにすれば、勝利することができるでしょう。」
 王がそれに従うと、果たして門を開いた鮮卑は、出兵してこれを追いかけた。扶芬奴の将兵はその城に駆け込んだので、それを望み見た鮮卑は大慌てして帰還しようと奔走したが、扶芬奴は関に当たって防戦し、甚だ多くを斬り殺した。王も旗を挙げ、鼓を鳴らして前進し、前から後ろから敵を受けた鮮卑は、万計窮まり力は屈し、降伏して属国となった。
 王は扶芬奴の功績を思い、食邑をもって褒賞しようとしたが、辞退して「これは王の徳でございます。わたしに何の功績がありましょうか。」と言い、遂に受け取らなかった。王はそこで黄金三十斤と良馬一十匹を賜った。


漢文

 十一年、夏四月、王謂群臣曰、鮮卑恃險、不我和親、利則出抄、不利則入守、為國之患。若有人能折此者、我將重賞之。扶芬奴進曰、鮮卑險固之國、人勇而愚、難以力鬪、易以謀屈。王曰、然則為之奈何。答曰、宜使人反間入彼、僞說、我國小而兵弱、怯而難動。則鮮卑必易我、不為之備。臣俟其隙、率精兵從間路、依山林以望其城。王使以羸兵出其城南、彼必空城而遠追之。臣以精兵走入其城、王親率勇騎挾擊之、則可克矣。王從之。鮮卑果開門出兵追之。扶芬奴將兵走入其城、鮮卑望之、大驚還奔。扶芬奴當關拒戰、斬殺甚多。王擧旗鳴鼓而前、鮮卑首尾受敵、計窮力屈、降為屬國。王念扶芬奴功、賞以食邑、辭曰、此王之德也。臣何功焉。遂不受、王乃賜黃金三十斤、良馬一十匹。

書き下し文

 十一年、夏四月、おほきみ群臣もろをみに謂ひて曰く、鮮卑はけはしきにたのみ、我と和親したしむことあらず、利なれば則ちかすりに出で、利ならざれば則ち守りに入り、國のうれひと為らむ。若し人の能く此れをくじく者有らば、我は將に重く之れにたまはらむとす、と。扶芬奴は進みて曰く、鮮卑は險固けはしきの國、人はいさましく、而れどもおろかなれば、力を以て鬪ふは難かれども、謀るを以て屈するは易し、と。おほきみ曰く、然らば則ち之れを為すは奈何いかん、と。答へて曰く、宜しく人を使はせて反間しのびせしめ、彼に入らせしむれば、いつはりに我が國は小さきにしていくさひとは弱く、怯えて動き難しと說くべし。則ち鮮卑は必ず我をかろんじ、之のそなへを為さず。われは其の隙をち、よりすぐりつはものを率いてみちり、山林にかくれて以て其の城を望まむ。おほきみ使つかひするによはいくさひとを以て其の城の南に出だせしむれば、彼は必ずや城をけて遠く之れを追ひたり。われよりすぐりつはものを以て其の城にけ入り、おほきみみづかいさましきうまいくさを率いて之れを挾み擊ちすれば、則ち克つ可きなり、と。おほきみ、之れに從ふ。鮮卑は果たして門を開き、つはものを出だして之れを追れば、扶芬奴の將兵もののふは其の城にけ入る、鮮卑は之れを望み、大いに驚きかへらむとはしるも、扶芬奴はせきに當たりて拒戰ふせぎたたかひ、斬り殺すこといと多し。おほきみも旗を擧げてつつみを鳴らしてすすみ、鮮卑の首尾まへうしろに敵を受け、はかりごとは窮まり力はくぐみ、降りて屬國つきものと為る。おほきみは扶芬奴のいさおおもひ、たまふに食邑つちを以てするも、ゆづりて曰く、此れおほきみの德なり。われ何ぞ焉れいさおあらむ、と。遂に受けず、おほきみ乃ち黃金三十斤、良き馬一十匹を賜る。

十三年

現代語訳

 十三年(前7年)、春正月、熒惑なつひぼしが心星を守った。


漢文

 十三年、春正月、熒惑守心星。

書き下し文

 十三年、春正月、熒惑なつひぼし、心星を守る。

十四年

現代語訳

 十四年(前6年)、春正月、扶餘王の帯素は、使者を派遣して来聘し、人質として息子を交換するように要請した。王は扶餘が強大であることを憚り、太子の都切を人質にしようとしたが、都切は恐れて行かなかったので、帯素はこれに激怒した。
 冬十一月、帯素は兵五万を率いて侵しに来たが、大いに雪が降って人が多く凍え死に、そのまま去った。


漢文

 十四年、春正月、扶餘王帶素遣使來聘、請交質子、王憚扶餘强大、欲以太子都切為質、都切恐不行、帶素恚之。冬十一月、帶素以兵五萬來侵、大雪人多凍死、乃去。

書き下し文

 十四年、春正月、扶餘のおほきみの帶素、使つかひを遣りてたずねに來させしめ、むかはりむすこを交えむことを請へば、おほきみは扶餘の强大さかりたるを憚り、太子みこの都切を以てむかはりと為さむと欲するも、都切は恐れて行かず、帶素は之れにいかる。
 冬十一月、帶素はいくさひと)の五萬いつよろずを以て侵しに來たるも、大いに雪して人多く凍え死に、乃ち去れり。

十九年

現代語訳

 十九年(前1年)、秋八月、郊祭で生贄に用いる豚が逃げ出したので、王が託利と斯卑を使わせてそれを追いかけさせると、長屋の沢の中までたどり着いて捕まえ、刀でその脚の筋を断ち切った。それを聞いた王は怒り、「天を祭る生贄であるぞ。傷つけてよいものか!」と言って遂に二人をあなの中に投げ込み、これらを殺した。
 九月、王が疾病にかかった。シャーマンが「託利と斯卑による祟りです。」と言ったので、王は人を使わせて彼らに謝りに行かせると、すぐに治癒した。


漢文

 十九年、秋八月、郊豕逸、王使託利、斯卑追之、至長屋澤中得之、以刀斷其脚筋。王聞之怒曰、祭天之牲、豈可傷也。遂投二人坑中殺之。九月、王疾病、巫曰、託利、斯卑為祟。王使謝之、卽愈。

書き下し文

 十九年、秋八月、まつりぶたのがれ、おほきみは託利、斯卑を使はして之れを追はせしむれば、長屋の澤の中まで至りて之れを得、刀を以て其の脚の筋を斷つ。おほきみは之れを聞きて怒りて曰く、天を祭るのいけにえ、豈に傷つく可けむや、と。遂に二人ふたりあなの中に投げて之れを殺す。
 九月、おほきみ疾病やまひあり。かむなぎ曰く、託利と斯卑、たたりを為せり、と。おほきみ使つかひして之れを謝まらせしむれば、卽ちゆ。

二十年

現代語訳

 二十年(1年)、春正月、太子の都切が卒去した。


漢文

 二十年、春正月、太子都切卒。

書き下し文

 二十年、春正月、太子みこの都切はせり。

二十一年

現代語訳

 二十一年(2年)、春三月、郊祭で生贄に用いる豚が逃げ出したので、王が掌牲の薛支に命じてそれを追いかけさせると、國內の尉那巖までたどり着いてそれを捕まえた。國內の人の家がそれをとらえて養っていたのである。帰国して王に謁見して言った。「わたしが豚を追いかけて國內の尉那巖までたどり着くと、その山水は深く険難で、地質は五穀に適し、しかものろ、鹿、魚、鼈を多く産出しているのを見ました。王よ、もし都を移せば、尽きることない民の利益となるばかりでなく、兵革いくさの患いから免がれることもできましょうぞ。」
 夏四月、王が尉中の林で狩りをした。
 秋八月、地震が起こった。
 九月、王は国内に行って地勢を観察した。帰還中に沙勿の沢までたどり着いたとき、沢のほとりの石に坐る一人の丈夫に出会い、(その丈夫は)王に「願わくば、王の臣下になりとうございます。」と言った。王は喜んでそれを許可し、(地名に)因んで名に沙勿、姓に位氏を賜った。


漢文

 二十一年、春三月、郊豕逸。王命掌牲薛支、逐之。至國內尉那巖得之、拘於國內人家、養之。返見王、曰、臣逐豕、至國內尉那巖、見其山水深險、地宜五穀、又多麋鹿魚鼈之産。王若移都、則不唯民利之無窮、又可免兵革之患也。夏四月、王田于尉中林。秋八月、地震。九月、王如國內、觀地勢、還至沙勿澤、見一丈夫坐澤上石。謂王曰、願為王臣。王喜許之、因賜名沙勿、姓位氏。

書き下し文

 二十一年、春三月、まつりぶたのがれ、おほきみは掌牲の薛支にみことのりして之れを逐はせしむ。國內の尉那巖まで至りて之れを得れば、國內の人の家にとらはれ、之れを養へり。返りておほきみに見えて曰く、われぶたを逐ひて國內の尉那巖まで至れば、其の山水は深くけはしく、つちいつくさたなつものに宜しく、又たのろ鹿しかうをかめむこと多きを見ゆ。おほきみよ、若し都を移さば、則ち唯だ民の利の窮まり無きのみならず、又た兵革いくさうれひを免がるる可きなり、と。
 夏四月、おほきみ、尉中の林にりたり。
 秋八月、地震なゐあり。
 九月、おほきみは國內にき、つちさまを觀、還りて沙勿の澤に至れば、ひとり丈夫ますらをの澤のほとりいわに坐るに見ゆ。おほきみに謂ひて曰く、願はくばおほきみをみと為らむことを、と。おほきみは喜びて之れを許し、因りて名に沙勿、かばねに位うぢを賜ひたり。

二十二年

現代語訳

 二十二年(3年)、冬十月、王は都を國內城に遷し、尉那巖城を築いた。
 十二月、王は質山の陰で狩りをし、五日ほど帰らなかった。大輔の陜父は諫めて言った。
「王は新たに都邑を移したばかりで民はまだ安堵していませんから、刑政にこそ孜孜焉せつせつと心血を注がなくてはなりません。それなのに、このことを気にかけることなく狩猟に奔走するばかりで、長らく帰られませんでした。もし過ちを改めて自らを新たにすることがなければ、政治が荒廃して民は四散し、先王の遺業も地に墜ちるのではないかとわたしは恐れています。」
 それを聞いた王は怒りに震え、陜父を職から罷免し、官園の管理をさせることにした。憤った陜父はその地を南韓に帰した。


漢文

 二十二年、冬十月、王遷都於國內城、築尉那巖城。十二月、王田于質山陰、五日不返。大輔陜父諫曰、王新移都邑、民不安堵。宜孜孜焉、刑政之是恤、而不念此、馳騁田獵、久而不返、若不改過自新、臣恐政荒民散、先王之業、墜地。王聞之、震怒、罷陜父職、俾司官園。陜父憤去之南韓。

書き下し文

 二十二年、冬十月、おほきみは都を國內城に遷し、尉那巖城を築きたり。
 十二月、おほきみは質山の陰に于いてり、五日返らず。大輔の陜父、諫めて曰く、おほきみは新たに都邑を移し、民は安堵やすんぜず。宜しく孜孜焉せつせつとし、しおきまつりの是れうれふべし。しかれども此れをおもひたらず、田獵かり馳騁はしり、久しくして返らず、若し過ちを改めて自ら新たにすることあらざれば、われまつりごとは荒みて民は散り、先王さきつきみみわざつちに墜ちたらむことを恐れたり、と。おほきみは之れを聞きて怒りに震え、陜父のつとめり、つかひて官園を司らせしむ。陜父は憤りて之れを南韓みなみからに去りたり。

二十三年

現代語訳

 二十三年(4年)、春二月、王子の解明を立てて太子とし、国内に大赦した。


漢文

 二十三年、春二月、立王子解明、為太子、大赦國內。

書き下し文

 二十三年、春二月、王子みこの解明を立て、太子みこと為し、大いに國內を赦す。

二十四年

現代語訳

 二十四年(5年)、秋九月、王が箕山の野で狩りをしていた時、両脇に羽が生えた異人を見つけた。それを朝廷に登し、姓に羽氏を賜わり、王女を嫁がせた。


漢文

 二十四年、秋九月、王田于箕山之野、得異人、兩腋有羽。登之朝賜姓羽氏、俾尚王女。

書き下し文

 二十四年、秋九月、きみは箕山の野にりたれば、異人あたひとを得、ふたつの腋に羽有り。之れを朝に登し、かばねに羽うぢを賜ひ、つかわして王女みことつがせしむ。

二十七年

現代語訳

 二十七年(8年)、春正月、王太子の解明は古都におり、力を有して勇を好んだ。それを聞いた黃龍国の王は、使者を派遣して強弓を贈物とした。解明はその使者に向かい、挽いてそれをへし折り、「私に力があるのではない。弓自体がつよくなかったのだ。」と言った。黄龍王は恥じ入った。それを聞いた王は怒り、黄龍王に「解明は子でありながら不孝です。寡人わたしの為にもそいつを誅殺してください。」と告げた。
 三月、黄龍王は使者を派遣して太子に相見えたいと要請し。太子は行こうとした。人の中には諫める者もいて、「今回、隣国は理由もなく会見を要請しています。その意図を測ることができません。」と言ったが、太子は「天が私を殺そうとしていないなら、黄龍王ごときが私をどうすることができようか。」と言って、遂に行った。最初は黄龍王も彼を殺そうと謀っていたが、会見に及ぶと害を加えようとはせず、礼遇して彼を見送った。


漢文

 二十七年、春正月、王太子解明在古都、有力而好勇。黃龍國王聞之、遣使以强弓為贈。解明對其使者、挽而折之曰、非予有力、弓自不勁耳。黃龍王慙。王聞之怒、告黃龍曰、解明為子不孝、請為寡人誅之。三月、黃龍王遣使、請太子相見。太子欲行、人有諫者、曰、今隣國無故請見、其意不可則≪測≫也。太子曰、天之不欲殺我、黃龍王其如我何。遂行。黃龍王始謀殺之、及見不敢加害、禮送之。

書き下し文

 二十七年、春正月、王太子みこの解明は古都に在り、力をちて勇しきを好む。黃龍國のきみは之れを聞き、使つかひを遣り、强き弓を以ておくりものと為す。解明は其の使つかひの者にむかひ、挽きて之れを折りて曰く、予の力有るに非ず、弓自らのつよからざるのみ、と。黃龍王はづ。おほきみは之れを聞きて怒り、黃龍に告げて曰く、解明は子にして不孝るに、寡人の為に之れを誅することを請ふ、と。
 三月、黃龍王は使つかひを遣り、太子みこに相ひ見えむことを請ひたり。太子みこは行かむと欲するも、人に諫むる者有りて曰く、今は隣の國は故無くして見ゆるを請ひたり。其のこころは則≪測≫る可からざるなり、と。太子みこ曰く、天の我を殺すを欲せざれば、黃龍王其れ我を如何せむ、と。遂に行きたり。黃龍王は始めて之れを殺さむと謀るも、見ゆるに及ぶれば害を加うることを敢てせず、ゐやまひて之れを送りたり。

二十八年

現代語訳

 二十八年(9年)、春三月、王は人を派遣して解明に言った。
「私が都を遷したのは、民を安じて邦業を固めようとしてのことなのに、お前は私に随伴せず、しかも剛力に恃んで隣国に怨みを結んだ。子の道を為すとは、さてこのようなものであろうか。そこでつるぎを賜り、自害して使わせようぞ。」
 太子はすぐに自殺しようとしたが、ある者がそれを止め、「大王の長子は既にお亡くなりになられ、太子こそ正統な後継者となられるはずのお方です。今回の使者は一人で来て、自殺させようとしていますが、なぜそれがうそでないとわかりましょうか。」と言うと、太子も「先で黄龍王が強弓をこちらにおくった時も、私はそやつから我が国家が軽んじられることを恐れてこそ、挽き折ってそれに報いたのに、不意にして父王から責めらることになってしまった。今の父王は私を不孝とし、劒を賜って自害をさせようとしている。父の命とは、逃れることができるものだろうか。」と言い、そのまま礪津の東の原まで出向いたが、槍を地に突き刺し、走馬ともどもそれに当たって死んだ。この時、齢二十一歲。太子の礼をもって東原に葬り、廟を立てた。その地を槍原とよびなした。

 本件について論じよう。
 孝子が親に事えようとすれば、あたかも文王の世子よつぎがそうしたかのように、左右を離れないことで孝を致そうとするものである。解明は別の都におり、勇を好むことが評判だったのだから、その罪を得たことについては、当然のことである。また、このようにも聞いている。(春秋左氏)伝には「子を愛していれば、彼を義の道によって教育し、よこしまには陥らせない。」とある。今回の王は、最初からずっと彼を教導していなかったのに、彼が悪を成した時には、その弊害は既に甚だしく、彼を殺し、死によってしか止めることができなかった。父が父たらざれば、子が子たらざる――父が父の務めを果たしていないのだから、子は子の務めを果たせなかったのだとしか言いようがないではないか。

 秋八月、扶餘王の帯素が使者をよこし、王に遠慮がちに言った。「我が先王は、先君の東明王と互いによしみがあり、そして我が臣下を誘ってこちらまで逃れ着いたのだから、互いが寄り集まって一体となることで国家を成したく思う。さて、国には大小があり、人には長幼がある。小が大に仕えることは『礼』であり、幼が長に仕えることは『順』である。今の王が、もし礼と順をもって我に仕えることができるのであれば、天は必ずこれをたすけ、国の繫栄はいつまでも続くであろう。それなければ、その社稷を保とうと思ったとしても難しいであろう。」
 そこで王は自分の心の中で考えた。
――国を立てて日は浅く、まだ民は少数であり兵も脆弱だ。勢力を合わせて恥を忍び、屈服をすることで後の効を図ろう。  こうして群臣と報復を謀りながら「寡人わたしは海辺の片隅の辺鄙なところに住んでいるものですから、未だかつて礼義を聞いたことがありませんでした。今回は大王の教えを承認しましたが、言いなりになるつもりはありません。」と言った。
 この時、王子の無恤は、年はまだ幼少であったが、王が扶餘に報復するという言葉を聞いて、自らその使者と会って言った。
「我が先祖は神霊の孫、賢にして多才であったから、大王が嫉妬と嫌悪から彼のことを父王に讒言し、彼を辱めるために馬をやしなわせ、故に不安を感じて出国したのだ。今の大王は前のつみを思い出すことなく、ただ兵が多いことを恃みにし、我の邦邑を軽蔑しているだけだ。使者よ、帰国して大王への報告を要請したい。今ここに積み重ねられた卵がある。もし大王がその卵をらなければ、臣下もこれに事えようとするであろうが、そうでなければそうはならぬ、と。」
 それを聞いた扶餘王が群下に質問すると、一人の老嫗が答えた。
「積み重ねられた卵とは、『危』でございます。その卵をらないとは、『安』でございます。そのこころは、『王は既に”危”にあるのに気付かないまま、人が来ることを求めているが、『危』を『安』に易え、そして自らをただした方がよいぞ。』ということでしょう。」


漢文

 二十八年、春三月、王遣人、謂解明曰、吾遷都、欲安民以固邦業、汝不我隨、而恃剛力、結怨於隣國、為子之道、其若是乎。乃賜劒使自裁。太子即欲自殺、或止之曰、大王長子已卒、太子正當為後。今使者一至而自殺、安知其非詐乎。太子曰、嚮、黃龍王以强弓遺之、我恐其輕我國家、故挽折而報之、不意見責於父王。今父王以我為不孝、賜劒自裁、父之命、其可逃乎。乃往礪津東原、以槍揷地、走馬觸之而死、時年、二十一歲。以太子禮、葬於東原、立廟。號其地為槍原。

 論曰、孝子之事親也、當不離左右以致孝、若文王之為世子。解明在於別都、以好勇聞、其於得罪也、宜矣。又聞之、傳曰、愛子敎之以義方、弗納於邪。今王、始未嘗敎之、及其惡成、疾之已甚、殺之而後已。可謂父不父、子不子矣。

 秋八月、扶餘王帶素使來讓王曰、我先王、與先君東明王相好、而誘我臣逃至此、欲完聚以成國家。夫國有大小、人有長幼、以小事大者、禮也、以幼事長者、順也。今王若能以禮順事我、則天必佑之、國祚永終、不然則欲保其社稷、難矣。於是、王自謂、立國日淺、民孱兵弱、勢合忍恥屈服、以圖後効。乃與群臣謀報曰、寡人僻在海隅、未聞禮義。今承大王之敎、敢不惟命之從。時、王子無恤、年尚幼少。聞王欲報扶餘言、自見其使曰、我先祖神靈之孫、賢而多才、大王妬害、讒之父王、辱之以牧馬、故不安而出。今大王不念前愆、但恃兵多、輕蔑我邦邑、請使者、歸報大王、今有累卵於此、若大王不毁其卵、則臣將事之、不然則否。扶餘王聞之、問群下。有一老嫗對曰、累卵者危也、不毁其卵者安也。其意曰、王不知己危、而欲人之來、不如易危以安而自理也。

書き下し文

 二十八年、春三月、おほきみは人を遣り、解明に謂ひて曰く、吾の都を遷すは、民を安じて以て邦のつとめを固むるをおもへばなり。汝は我のつきそひにあらず、しか剛力つよきちからたのみ、うらみを隣の國に結ぶ。子の道を為すは、其れ是の若きか。乃ちつるぎを賜りて自らたして使つかはしむ、と。太子みこは即ぐに自ら殺さむと欲するも、あるひとは之れを止めて曰く、大王おほきみ長子をさごは已にに、太子みこは正に當に後に為らむとす。今の使つかひの者はひとり至りて自ら殺さむとするも、安ぞ其の詐に非ざるを知るや、と。太子みこ曰く、さきごろの黃龍王の强弓を以て之れにおくりたるも、我は其の我が國家くにを輕ずるを恐れ、故に挽き折りて之れに報い、不意こころならずにして父王ちちぎみより責めらる。今の父王ちちぎみは我を以て不孝と為し、劒を賜りて自らたしめむとす。父のみことのり、其れ逃る可きか、と。乃ち礪津の東の原に往くも、槍を以て地に揷し、走る馬も之れに觸れて死ぬ。時によはひ二十一歲はたちあまりひとつ太子みこの禮を以て東原に葬り、みたまやを立つる。其のつちよびなし、槍原と為せり。

 論じて曰く、孝子の親に事うるや、當に左右を離れず、以て孝を致さむとするは、文王の世子よつぎに為すが若し。解明は別の都に在り、勇を好むを以て聞き、其の罪を得るに於いてや、むべなるかな。又た之れを聞く。つたゑに曰く、子を愛して之れを敎ゆるによろしきみちを以てし、よこしまらしむこと弗し、と。今のおほきみ、始め未だ嘗て之を敎ゆることなく、其の惡の成すに及び、之をみて已に甚し、之れを殺して後に已めり。父にして父たらざれば、子は子たらざりと謂ふ可きかな。

 秋八月、扶餘王の帶素は使つかひして來さしめ、おほきみに讓りて曰く、我が先つ王、先つ君の東明王と與に相ひよしみあり。すなはち我がをみを誘ひて此に逃れ至るも、聚むるを完うして以て國家を成さむとおもひたり。夫れ國に有り、人におと有り、以て小の大に事ゆる者は、禮なり。以て幼の長に事ゆる者は、順なり。今のきみは若し能く禮と順を以て我に事うれば、則ち天は必ず之れをたすけ、國のさかゑは永くに終えむ。然ずば則ち其の社稷おほもと保たむとおもひたれども、難きかな、と。是に於いて、おほきみは自らおもへらく、國を立て日は淺く、民はひさくして兵は弱く、勢い合はせて恥を忍び屈みしたがひ、以て後のかちを圖らむ、と。乃ち群臣もろをみと與にむくひを謀りて曰く、寡人はうみへの隅にかたよすまひ、未だ禮義を聞かず。今は大王おほきみの敎を承け、敢て惟命之從いひなりにならず、と。時に王子みこの無恤、年は尚ほ幼少をさなきたり。王の扶餘に報ひむとおもひたることばを聞、自ら其の使つかひまみえて曰く、我の先つおや神靈かみの孫、賢しくして才多かりければ、大王おほきみは妬みにくみ、之れを父王ちちぎみそしり、之れを辱めて以て馬をやしなひ、故に安んぜずして出づ。今の大王おほきみは前のつみおもふことなく、但だ兵の多きを恃り、我の邦邑くに輕蔑かろんずるのみ。使つかひの者に請ふ、歸りて大王おほきみしらせむことを。今此にかさぬ卵有り、若し大王おほきみの其の卵をらざれば、則ち臣は將に之れに事えむとするも、然らざれば則ち否なり、と。扶餘王は之れを聞き、群下しもじもに問ふ。ひとり老嫗をうな有り對へて曰く、かさぬ卵なる者とは、危うきなり。其の卵をらざる者とは安きなり。其のこころは曰く、王は己に危うきなるを知らずして人の來たるを欲すは、危うきをうに安きを以てし、而して自らただすに如かざるなり、と。

二十九年

現代語訳

 二十九年(10年)、夏六月、矛川のほとりに黒い蛙と赤い蛙の群が闘っていた。黒い蛙は勝つことなく死に、議者は「黒は北方の色ですので、北扶餘の破滅のきざしでしょう。」と言った。
 秋七月、離宮を豆谷に作った。


漢文

 二十九年、夏六月、矛川上有黑蛙與赤蛙群鬪、黑蛙不勝、死。議者曰、黑、北方之色、北扶餘破滅之徵也。秋七月、作離宮於豆谷。

書き下し文

 二十九年、夏六月、矛川のほとりに黑きかはづと赤きかはづの群れて鬪ふ有り、黑きかはづは勝たずして死す。はかる者曰く、黑は北の方の色、北扶餘の破滅ほろびきざしなり、と。
 秋七月、離れの宮を豆谷に作りたり。

三十一年

現代語訳

 三十一年(12年)、漢の王莽は我が国の兵を徴発し、胡を討伐しようとしていたが、我が国の人々は行軍しようとせず、強迫して彼らを派遣しようとしたが、皆が城塞から逃げ出し、それによって法を犯してぬすびととなった。遼西大尹の田譚は彼らを追撃したが、殺されてしまい、州郡は咎を我が国に帰した。厳尤は「貊人は法を犯していますが、どうか州郡にいいつけし、当面は彼らを慰安されたい。今いたずらに大罪をもって被せれば、彼らを叛かせる結果となる恐れがあります。扶餘のともがらにも、必ず呼応する者が現れるでしょう。匈奴にまだ勝っていないのに扶餘と獩貊も同じく蜂起すれば、これは大いなる憂いとなります。」と奏言したが、王莽は聴かず、厳尤にみことのりしてそれを擊たせた。厳尤は我が国の将の延丕を誘って彼を斬り、首を京師みやこに伝えた。〈両漢書と南北史にはどれも、「句麗侯の騶を誘って彼を斬った」と伝わっている。〉それを悦んだ王莽は、更に我が王の名を下句麗侯として天下に布告し、ことごとくにいいつけしてそれを知らしめた。こうして漢の国境付近の地をおかす者は、いよいよ甚大なものとなった。


漢文

 三十一年、漢王莽發我兵、伐胡。吾人不欲行、强迫遣之、皆亡出塞、因犯法為寇。遼西大尹田譚追擊之、為所殺、州郡歸咎於我。嚴尤奏言、貊人犯法、宜令州郡、且慰安之。今猥被以大罪、恐其遂叛。扶餘之屬、必有和者、匈奴未克、扶餘、獩貊復起、此大憂也。王莽不聽、詔尤擊之。尤誘我將延丕、斬之、傳首京師。〈兩漢書及南北史皆云、誘句麗侯騶斬之。〉莽悅之、更名吾王為下句麗侯、布告天下、令咸知焉。於是、寇漢邊地、愈甚。

書き下し文

 三十一年、漢の王莽は我がいくさひとはなち、ゑびすを伐たむとするも、吾の人は行くを欲せざれば、强いて迫り之れを遣らむとし、皆がとりでのがれ出で、因りてのりを犯してぬすみを為す。遼西大尹の田譚は之れを追ひ擊つも、殺さるる所と為り、くにこほりは咎を我にいたす。嚴尤のことばたてまつるに、貊人ゑびすは法を犯すも、宜しくくにこほりいひつけし、しばし之れを慰み安せしむるべし。今みだりに大罪おほつみを以て被らば、其の叛を遂ぐ恐れあり。扶餘のともがら、必ずにきする者有り、匈奴未だ克たずして扶餘と獩貊も復た起こらば、此れ大いなるうれひなり、と。王莽は聽かず、尤にみことのりして之れを擊たしめむとす。尤は我がすけの延丕を誘ひ、之れを斬り、首を京師みやこに傳ふ。〈兩漢書及び南北史に皆云く、句麗侯の騶を誘ひて之れを斬る、と。〉莽は之れを悅び、あらたに吾のきみを名づけて下句麗侯と為し、あまねく天下に告げ、ことごとくにいひつけして焉れを知らしむ。是に於いて、漢のくにへつちおかすもの、いよいよ甚だし。

三十二年

現代語訳

 三十二年(13年)、冬十一月、扶餘人が侵しに来た。王は息子の無恤を使わせ、軍隊を率させてこれを防がせることにした。兵が小勢だから敵わないのではないかと恐れた無恤は奇計を設けてみずから軍を率い、山谷に伏すことでこれを待った。扶餘の兵はまっすぐに鶴盤嶺のふもとまでたどり着いたので、伏兵を発してその不意を擊つと、扶餘の軍は大敗し、馬を棄てて山に登った。無恤は兵を放ってそれを悉く殺し尽くした。


漢文

 三十二年、冬十一月、扶餘人來侵。王使子無恤、率師禦之。無恤以兵小、恐不能敵、設奇計、親率軍、伏于山谷以待之。扶餘兵直至鶴盤嶺下、伏兵發、擊其不意、扶餘軍大敗、棄馬登山。無恤縱兵盡殺之。

書き下し文

 三十二年、冬十一月、扶餘人、侵しに來たり。きみむすこの無恤を使はせ、いくさを率いせしめて之れをまもらせしむ。無恤はいくさの小なるを以て、敵ふに能はじことを恐れ、奇しきはかりごとを設け、みづから軍を率い、山谷に伏して以て之れを待つ。扶餘のいくさひとは直ぐ鶴盤嶺のふもとに至らば、伏したるいくさひとで、其の不意こころなしを擊ち、扶餘のいくさは大いに敗れ、馬を棄て山に登る。無恤はつはものはなちてことごとく之れを殺したり。

三十三年

現代語訳

 三十三年(14年)、春正月、王子の無恤を太子に立て、軍と国の事を委任させた。
 秋八月、王は烏伊と摩離に命じて兵二万をおさめさせ、梁貊を西伐してその国を滅ぼすと、兵を進めて漢の高句麗縣を襲い取った。〈縣は玄菟郡に属す〉


漢文

 三十三年、春正月、立王子無恤為太子、委以軍國之事。秋八月、王命鳥伊烏伊、摩離、領兵二萬、西伐梁貊、滅其國、進兵襲取漢高句麗縣。〈縣屬玄菟郡〉

書き下し文

 三十三年、春正月、王子みこの無恤を立て太子みこと為し、以ていくさくにの事を委ぬ。
 秋八月、きみは烏伊、摩離にみことのりし、兵二萬いくさひとふたよろづおさめせしめ、西に梁貊を伐たせしめ、其の國を滅ぼし、いくさを進めて漢の高句麗縣を襲ひ取る。〈あがたは玄菟郡にきたり〉

三十七年

現代語訳

 三十七年(18年)夏四月、王子の如津が川に溺れて死んだ。王は哀れんでき、人を使わせてしかばねを求めたが見つからなかった。後に沸流人の祭須がそれを見つけ、知らせられたことによって、礼をもって王の骨嶺に葬ることができたので、祭須に金十斤とはたけ十頃を賜った。
 秋七月、王は豆谷に行幸した。
 冬十月、豆谷の離宮で薨去した。豆谷の東の原で葬り、琉璃明王とよびなされた。

〈三国史記巻第十三〉


漢文

 三十七年、夏四月、王子如津、溺水死。王哀慟、使人求屍、不得。後沸流人祭須得之、以聞、遂以禮葬於王骨嶺、賜祭須金十斤、田十頃。秋七月、王幸豆谷。冬十月、薨於豆谷離宮。葬於豆谷東原、號為琉璃明王。

〈三國史記卷第十三〉

書き下し文

 三十七年、夏四月、王子みこの如津、かはに溺れて死す。きみは哀しみき、人を使はせてしかばねを求むるも得ず。後に沸流の人の祭須は之れを得、以て聞こしめ、遂に禮を以て王骨嶺に葬り、祭須にこがね十斤、はたけ十頃を賜ふ。
 秋七月、きみは豆谷にみゆきす。
 冬十月、豆谷の離れの宮に於いてみまかる。豆谷の東の原に於いて葬り、よびなは琉璃明王と為る。

〈三國史記卷第十三〉

注記

1)七稜ななつかど

 優角と劣角が交互に七対で並んだ角のこと。日本の幕末に佐幕派が逃げ延びた北海道の五芒星型の要塞の名が五稜郭であったことを想起するとよい。

白いきばのろ

 朝鮮半島から中国東北部にかけて生息するノロの一種。偶蹄目シカ科。

神雀

 宋書符瑞志にも記される瑞鳥のひとつ。

鶻川

 旧高句麗の地名であるが、どこにあるかは不明。おそらく渤海地域で、現中国と思われる。

黄鳥

 高麗うぐいすのこと。うぐいすの仲間。26cm程度の小さな鳥で、西はインドから東は朝鮮半島、南はカンボジアやインドネシア、北はロシアまで幅広く生息し、日本には生息こそしないものの時に海を渡って滞留する。上掲の漢詩は『黄鳥歌』といい、朝鮮最古の漢詩とされる。

鮮卑

 紀元前2世紀から中国北部に存在する騎馬民族。もともとは匈奴に服属していたが、後に独立、三国時代の後の五胡十六国時代には中国に流入した五胡のひとつとして主要な役割を果たし、南北朝を経て中国を統一した隋とその後裔の大唐帝国の皇帝はいずれも鮮卑の出身である。よって、ここで鮮卑が滅亡したことはあり得ない。

扶芬奴

 東明聖王紀の記述から朱蒙の時代から仕えていることがわかる。

熒惑なつひぼし

 火星のこと。災いの星とされる。

心星

 北極星のこと。

10)帯素

 東明聖王紀に登場する朱蒙の兄弟の長兄。金蛙王の後を継いで扶余王となっている。

長屋

 おそらく地名と思われるが、どこか不明。もしかしたら地名じゃないのかも。

のろ

 ヘラジカなどの大型の鹿を指す。

兵革いくさ

 戦争のための武器を指し、転じて戦争のことをいう。

尉中

 どこか不明。

沙勿

 どこか不明。

位氏

 詳細は知らない。韓国に現在も存在する氏。

尉那巖城

 山城子山城とも呼ばれる

大輔

 宰相に類する臣下の最上位。

陜父

 東明聖王紀に朱蒙とともに亡命した友人との記載がある。

それを聞いた王は怒りに震え、陜父を職から罷免し、官園の管理をさせることにした。憤った陜父はその地を南韓に帰した。

 原文には「王聞之、震怒、罷陜父職、俾司官園。陜父憤去之南韓。」とある。原文には「陜父憤去之南韓。」としか記されていないので、陜父個人が亡命したようにも読める。しかし、前段で官園の管理に左遷されたという記事があることから、これを南韓の領土にしたと解釈した方がよいと考え、このように訳した。

箕山

 高句麗の地名であるが、どこか不明。箕氏朝鮮の箕子と関連するか?

羽氏

 詳細は不明。韓国に現在も存在する氏。

古都

 五女山城に築いた当初の首都のことを指す。この時点で高句麗は国内の尉那巖城に遷都済み。

黄龍国

 不明。五胡十六国時代に遼西地域の龍山地域のことを黄龍国と読んだ時期があるが……。

天が私を殺そうとしていないなら、黄龍王ごときが私をどうすることができようか。

 原文は「天之不欲殺我、黃龍王其如我何。」。論語の「天之未喪斯文也、匡人其如予何。」という孔子の言葉と同様の構文である。

礪津

 高句麗の地名であるが、どこか不明。

槍原

 どこか不明。

文王の世子よつぎがそうしたかのように、左右を離れないことで孝を致そうとするものである。

 文王は周文王のこと。おそらく周文王が世継ぎに指定した次男の武王は文王の傍に置かれ、長男の伯邑考が殷紂王の人質となったことを指しているのだと思われる。伯邑考は文王に謀叛の嫌疑があった際に処刑されたが、武王は生き延びて後に殷紂王を打倒した。

(春秋左氏)伝

 四書五経のひとつ春秋の内容を概説した伝承のひとつ。春秋はひとつの事件を四文字程度のごく少数の文字で表現しており、これだけ読んでもなにがあったかよくわからない。これについて、背景事情などを説明する『伝』が成立した。左氏伝は左丘明という人物による伝とされる。左丘明は孔子と同世代の人で論語にも登場し、孔子の弟子とも同僚とも言われている史官。

「子を愛していれば、彼を義の道によって教育し、よこしまには陥らせない。」

 原文では「愛子敎之以義方、弗納於邪」となっており、春秋左氏伝の隠公三年の記事に登場する。春秋時代の衛の荘公は、太子とは別に妾子の州吁を寵愛していた。州吁は兵事を好んでおり、荘公もそれを咎めなかったため、家臣の石碏が諫言した際に引用して述べたのが上記の言葉である。石碏も引用として述べているので、当時の格言か詩文の一節等だと思われる。

「父父たらざれば、子子たらざる」父が父の務めを果たしていないのだから、子は子の務めを果たせなかったのだとしか言いようがないではないか。

 原文では「可謂父不父、子不子矣。」であり、「父不父、子不子」は論語に登場する。孔子が斉の国を訪れた時、政策について質問する斉の国公に対して、「君君、臣臣、父父、子子(君主が君主としての務めを果たせば、臣下は臣下の務めを果たす。父が父の務めを果たせば、子はこの務めを果たす。)」と述べたところ、斉公は「父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸(父が父らしくなく、子が子らしくなければ、粟があったとしても、私はそれを手に入れて食べることもできないからな。)」と納得した。父子が相互的な関係で、その主体と責任が父にあることを示す儒教倫理。ここでは子の解明の不孝の責任は父の類利にあると批判している。

我が先王は、先君の東明王と互いによしみがあり、そして我が臣下を誘ってこちらまで逃れ着いたのだから、互いが寄り集まって一体となることで国家を成したく思う。

 ここでは扶余側の歴史認識が述べられているものだと思われる。東明王紀において、朱蒙は帯素や扶余の大臣らの敵意から、自らの身の危険を感じて三人の友人とともに亡命し、高句麗を建国したと記されているが、これを扶余王は、もともと金蛙王と朱蒙は友好的であったとし、朱蒙は扶余の臣下とともに国外を開拓して国を建てたのだから、それは自身の中から出たものであって、併合してひとつの国となるべきだと主張している。

国には大小があり、人には長幼がある。小が大に事えることは『礼』であり、幼が長に事えることは『順』である。

 ここでの「小が大に事える」とは、孟子の「以小事大」という語に由来し、大国に小国は従うべきとの主張である。ただし、孟子の主張における大国とは、必ずしも領土や軍事上の大国を指すものではなく、徳の大小をはかるものであった。長幼の序も同じく孟子が出典。年長者に年少者は従順であるべきだという年功序列の道徳。

社稷

 国家ごとの神、信仰、祭祀、儀礼のこと。転じて観念としての国家そのものを指す。原意は社が土地の神、稷が穀物神を指し、農耕文化における祭祀。文化を意味するcultureが農耕を意味するラテン語colereに由来することに通じる。

寡人わたしは海辺の片隅の辺鄙なところに住んでいるものですから、未だかつて礼義を聞いたことがありませんでした。今回は大王の教えを承認しましたが、言いなりになるつもりはありません。」

 前半部分では東明王紀において朱蒙に国を譲った松譲と同じ言い回しをしている。

我が先祖は神霊の孫、賢にして多才であったから、大王が嫉妬と嫌悪から彼のことを父王に讒言し、彼を辱めるために馬をやしなわせ、故に不安を感じて出国したのだ。

 東明王紀に記されている内容と同じ。高句麗の歴史認識ということであろう。

積み重ねられた卵

 原文では累卵。卵を積み重ねた状態。不安定で危険な状態の表現。史記に登場する表現。

矛川

 どこか不明。

豆谷

 現在の中国集安市にあるとされる。朝鮮から少し北。

王莽

 漢王朝から帝位を譲られた皇帝。新王朝の建国者。この時点で王莽は前漢から帝位を禅譲されているので、「新の王莽」のはずであるが、ここで漢の王莽とされているのは、新を正統な王朝と認めない漢王朝のイデオロギーに基づく漢書の記述から引用しているからであろう。

 中華から見た蛮族の呼称のひとつ。北方の騎馬民族を総称することが多い。

遼西大尹の田譚

 遼西は中国北東部の地域。大尹は地方の長官を指す官名。

厳尤

 新の王莽に仕えた賢臣とされる。本来の姓名は荘尤であるが、後漢2代皇帝を劉荘といい、中国では当時の王朝の皇帝の諱の使用を避ける忌諱の思想があることから、荘の字を避けて厳尤と漢書で表記されたため、以後も厳尤という名が定着した。王莽麾下において先見の明を発揮する策を王莽や他の臣下にアドバイスするが受け入れられない、という役回りが漢書や後漢書には記される。後漢の光武帝と知己であると思わせる記述も存在する。

貊人

 高句麗人のこと。貊は高句麗を含む朝鮮付近のツングース系民族のいくつかを指す。

匈奴

 北方騎馬民族の名。一般にはモンゴルと呼ばれる。

獩貊

 獩は朝鮮半島の民族、貊は上記の通りで、これらを併せて東北に在居する東夷の民族を指す。

我が将の延丕

 他の書物に存在しない。

両漢書と南北史にはどれも、「句麗侯の騶を誘って彼を斬った」と伝わっている。

 句麗侯の騶は、騶が朱蒙の朱や鄒牟の鄒と同音であることから、朱蒙のことを指すとする説がある。そうであれば、三国史記と漢書では内容が決定的に食い違うことになる。

瑠璃明王三十一年の記事

 この記事全体が漢書王莽伝始建国四年を基に修正されたものなので、ぜひとも比較検討されたい。

鶴盤嶺

 鴨緑江流域の満州地方にあったとされる。

梁貊

 貊とあることから、おそらく高句麗と同じく貊人の一種と思われる。

漢の高句麗縣

 よくわからない。なぜ高句麗が漢の高句麗縣なる地に攻め込むのか?

玄菟郡

 前漢武帝が朝鮮半島北部に設置した。設置経緯について詳しくは、史記朝鮮伝を参照。

如津

 6世紀に成立した中国正史の『魏書』には、類利と推測される始閭諧の子が如栗とされ、類利の死後に跡を継いで王になったと記されている。名前が似ており、如津は王の骨嶺に埋葬されたということなので、もしかすると同一人物かもしれないが、記述に矛盾が生じる。ちなみに、同じく『魏書』において、如栗の子とされる莫來は、如栗の死後に王となったとされているが、扶余の軍を討伐したとの記述があり、三国史記における類利の次の王の無恤の事跡と一致するところがある。ただし、これも記述が矛盾しており、どちらがどの程度まで正しいのかはよくわからない。

底本

三國史記 - 维基文库,自由的图书馆