三国史記 助賁王紀

助賁尼師今

現代語訳

 助賁尼師今が立った。〈一節には、諸貴と伝わる。〉姓は昔氏、伐休尼師今の孫である。父は骨正〈一節には、忽爭とある。〉葛文王、母は金氏の玉帽夫人、仇道葛文王の娘である。妃は阿爾兮夫人、奈解王の娘である。前王が死のうとする時、壻の助賁に位を継がせたいと遺言した。王は身長が高く、立ち振る舞いは規範なるべき美しさであった。事に臨んでは明断であり、国の人々は彼を畏れ敬った。


漢文

書き下し文

阿達羅尼師今

現代語訳

 元年(230年)拝して連忠を伊飡とし、軍事と国事を委ねた。
 秋七月、始祖廟に謁した。


漢文

 助賁尼師今立、〈一云諸貴。〉姓昔氏、伐休尼師今之孫也。父骨正〈一作忽爭。〉葛文王。母、金氏玉帽夫人、仇道葛文王之女。妃、阿爾兮夫人、奈解王之女也。前王將死、遺言以壻助賁繼位。王身長、美儀表。臨事明斷、國人畏敬之。

書き下し文

 助賁尼師今立つ。〈 あるふみ に諸貴と云ふ。〉 かばね は昔 うぢ 、伐休尼師今の みま なり。父は骨正〈 あるふみ に忽爭と す。〉葛文王。母は金 うぢ の玉帽夫人、仇道葛文王の むすめ たり。妃は阿爾兮夫人、奈解の きみ むすめ なり。 さき きみ まさ に死なむとすれば、遺せし ことば に、 むこ の助賁を以ちて位を繼がしめむとす、と。 きみ の身は け、儀表 ふるまひ を美しくす。事に臨みては明らに め、國の人は之れを畏れ敬ひたり。

元年

現代語訳

 元年(230年)拝して連忠を伊飡とし、軍事と国事を委ねた。
 秋七月、始祖廟に謁した。


漢文

 元年、拜連忠爲伊飡、委軍國事。秋七月、謁始 祖廟。

書き下し文

 元年、 さづ けて連忠を伊飡爲 らしめ、軍國 いくさとまつり の事を委ぬ。秋七月、始祖 はぢめおや みたまや まみ ゆ。

二年

現代語訳

 二年(231年)秋七月、伊飡の于老を大将軍とし、甘文国を討ち破らせると、その地を郡とした。


漢文

 二年、秋七月、以伊飡于老爲大將軍、討破甘文國、以其地爲郡。

書き下し文

 二年、秋七月、以ちて伊飡于老を大將軍 らしめ、甘文の國を討ち破らせしめ、以ちて其の ところ こほり と爲る。

三年

現代語訳

 三年(232年)夏四月、突如として倭人が来て、金城を包囲した。王は みずか ら戦に出て、賊を潰走させたが、軽装の騎馬兵を遣わせてそれらを追擊し、一千級余りを殺害あるいは虜獲した。


漢文

 三年、夏四月、倭人猝至圍金城。王親出戰、賊潰走、遣輕騎追擊之、殺獲一千餘級。

書き下し文

 三年、夏四月、倭の人は には かに至りて金城を圍む。 きみ みづか ら戰に出で、賊は潰れ走るも、輕き うまいくさ を遣はして之れを追ひ擊ち、殺し獲らふること一千餘級 ひとちたりあまり

四年

現代語訳

 四年(233年)夏四月、大風が吹いて家屋の瓦を飛したす。
 五月、倭の兵士が東の国境付近を おか した。
 秋七月、伊飡の于老が倭人と沙道で戦った。風に乗せて火を放ち、舟を焼き、賊は水に飛び込みすべて死んだ。


漢文

 四年、夏四月、大風飛屋瓦。五月、倭兵寇東邊。秋七月、伊飡于老與倭人戰沙道、乘風縱火焚舟、賊赴水死盡。

書き下し文

 四年、夏四月、大いに風ふき いへ の瓦 かはら を飛ばす。五月、倭の いくさ は東の くにへ を寇 おか したり。秋七月、伊飡の于老は倭の人と沙道に戰ひ、風に乘せて火を はな ちて舟を き、 あた は水に赴きて死に盡くす。

六年

現代語訳

 六年(235年)春正月、東を巡撫して救恤した。


漢文

 六年、春正月、東巡撫恤。

書き下し文

 六年、春正月、東に巡り なぐさ みて めぐ みたり。

七年

現代語訳

 七年(236年)春二月、骨伐国王の阿音夫が、諸衆を率いて降伏しに来た。屋敷と田畑を賜い、彼らを安んじ、その地を郡とした。


漢文

 七年、春二月、骨伐國王阿音夫、率衆來降。賜第宅、田莊安之。以其地爲郡。

書き下し文

 七年、春二月、骨伐の國王 くにぎみ の阿音夫、 ひと を率いて降りに來たり。第宅 やしき 田莊 はたけ を賜ひて之れを安ず。其の ところ を以ちて こほり と爲す。

八年

現代語訳

 八年(237年)秋八月、 いなご が穀物を害した。


漢文

 八年、秋八月、蝗害穀。

書き下し文

 八年、秋八月、 いなご いひ そこな ふ。

十一年

現代語訳

 十一年(240年)百済が西の国境付近に侵攻した。


漢文

 十一年、百濟侵西邊。

書き下し文

 十一年、百濟 くたら は西の くにへ を侵す。

十三年

現代語訳

 十三年(242年)秋、大豊作であった。古陀郡が嘉禾を進呈した。


漢文

 十三年、秋、大有年。古陀郡進嘉禾。

書き下し文

 十三年、秋、大いに みのり 有り。古陀郡は嘉禾を たてまつ る。

十五年

現代語訳

 十五年(244年)春正月、拝して伊飡の于老を舒弗邯とし、兵馬 いくさ の事を兼知させた。


漢文

 十五年、春正月、拜伊飡于老爲舒弗邯、兼知兵馬事。

書き下し文

 十五年、春正月、 さづ けて伊飡于老を舒弗邯と爲し、兼ねて兵馬 いくさ の事を つかさど らせしむ。

十六年

現代語訳

 十六年(245年)冬十月、高句麗は北の国境付近に侵攻した。于老は兵を引き連れ、そちらに出撃したが勝てず、撤退して馬頭柵に留まって守りに入った。その夜は寒さに苦しんだが、于老は士卒をねぎらって自ら柴を焼き、彼らの暖を取ったので、群兵は心から感激した。


漢文

 十六年、冬十月、高句麗侵北邊。于老將兵出擊之、不克、退保馬頭柵。其夜苦寒、于老勞士卒、躬 燒柴煖之、羣心感激。

書き下し文

 十六年、冬十月、高句麗は北の くにへ を侵す。于老は兵を ひき いて之れを擊ちに出づるも、克たず、退きて馬頭柵に とど む。其の夜は寒さに苦しむも、于老は士卒 いくさひと ねぎら ひ、 みづか ら柴を燒きて之れを あたた むれば、 ひと の心は感激 ゐご きたり。

十七年

現代語訳

 十七年(246年)冬十月、東南にひとつなぎの練り絹のような白気が立ち上った。
 十一月、京都 みやこ に自身が起こった。


漢文

 十七年、冬十月、東南有白氣如匹練。十一月、京都地震。

書き下し文

 十七年、冬十月、東南に白き氣 ちから 有ること ひとつ ねりぎぬ の如し。十一月、京都 みやこ 地震 なゐ あり。

十八年

現代語訳

 十八年(247年)夏五月、王が薨去した。


漢文

 十八年、夏五月、王薨。

書き下し文

 十八年、夏五月、 きみ みまか れり。

注記

骨正、忽爭

 伐休王の太子。父親より先に死去している。

仇道

 金仇道のこと。

伊飡

 骨品制における第二位であり、王族にしか就けない官位である。

于老

 昔氏であり昔于老。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場する。

大将軍

 漢王朝初期における非常設の職位、軍権の最高位であり、外征の問題が起こった際に任じられるものであったが、9代武帝の代に常設が始まった。これは日本における征夷大将軍にも引き継がれる。これはあくまで外敵の襲来をもって朝廷から任命される非常設の職位であり、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、本来的には戒厳令下における臨時の軍事政権である。おそらくは本文での大将軍も、臨時に設置された軍職の最高位という含意と思われる。

甘文国

 現在の韓国慶尚北道金泉市とされる。

金城

 新羅の首都。現在の慶尚北道慶州市。

沙道

 現在の韓国慶尚北道浦項市とされる。

骨伐国

 現在の慶尚北道永川市とされる。

古陀郡

 どこか不明。

嘉禾

 よく穂の稔った穀物。これを王に進呈するのは、豊作の報告である。

舒弗邯

 現代韓国語では서불한 ソボルカン 。新羅の骨品制における一等官の伊伐飡の別名とされている(が、訳者は違うと思う)。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場し、宇流 うる は于老、助富利智干 そほりちか 舒弗邯 ソボルカン を指していると思われる。日本書紀の宇流助富利智干 うるそほりちか は新羅王とされている。また、新羅初代王の朴赫居世を拾ったおじいさんの蘇伐公の「蘇伐』は朝鮮語で소벌 ソボル であることから「ソボルの公(首長)」ではないかと申采浩は考察しており、新羅では古くから地方の首長官を カン ということから、舒弗邯 ソボルカン は「新羅の古都である蘇伐 ソボル の首長」という意味があるのではないかと推測できると思う。

馬頭柵

 現在の韓国京畿道抱川市にあったとされる。

底本

三國史記 - 维基文库,自由的图书馆

改易

耒→表