三国史記 奈解王紀

奈解尼師今

現代語訳

 奈解尼師今が立った。伐休王の孫である。母は内礼夫人。妃は昔氏、助賁王の妹である。容貌も立ち振る舞いも非常にたくましく、俊才を有していた。前王の太子の骨正と第二十子の伊買が先に死に、大孫はまだ幼少だったので、伊買の息子を立てることにした。それが奈解尼師今である。この年は正月から四月まで雨が降らなかったが、王が即位した日に大雨が降り、百姓は歓喜した。


漢文

 奈解尼師今立、伐休王之孫也。母、内禮夫人。妃、昔氏、助賁王之妹。容儀雄偉、有俊才。前王太子骨正及第二十子伊買先死、大孫尚幼少、乃立伊買之子。是爲奈解尼師今。是年、自正月至四月、不雨。及王即位之日、大雨、百姓歡慶。

書き下し文

 奈解尼師今立つ。伐休の きみ みま なり。母は内禮夫人。妃は昔氏、助賁の きみ の妹たり。 かたち ふるまひ たけ しく すぐ れ、 すぐ るる かど つ。 さき きみ 太子 みこ の骨正及び第二十 はたちたり むすこ の伊買は先に死に、大孫 おほみま は尚ほ幼少 をさなし りて伊買の むすこ を立つる。是れ奈解尼師今と爲る。是年 ことし 正月 むつき 四月 うづき に至るまで、雨ふらず。 きみ くらひ きたるの日に及び、大いに雨ふり、百姓 もものかばね 歡慶 よろこ びたり。

二年

現代語訳

 二年(197年)春正月、始祖廟に拝謁した。


漢文

 二年、春正月、謁始祖廟。

書き下し文

 二年、春正月、始祖 はぢめおや みたまや まみ ゆ。

三年

現代語訳

 三年(198年)夏四月、始祖廟の前に倒れていた柳が自ら起きた。
 五月、国の西に洪水があり、水に遭わなかった州縣が一年分の租調を納めた。
 秋七月、使者を遣わせて撫問させた。


漢文

 三年、夏四月、始祖廟前臥柳自起。
 五月、國西大水、免遭水州縣一年租調。
 秋七月、遣使撫問。

書き下し文

 三年、夏四月、始祖 はぢめおや みたまや の前に臥したる柳は自ら起く。
 五月、國の西に大水 おほみづ あり、水に遭ふを免るる州縣 くにとあがた は一年の租調す。
 秋七月、使 つかひ を遣はして撫問 なぐさ む。

四年

現代語訳

 四年(199年)秋七月、百済が国境を侵した。


漢文

 四年、秋七月、百濟侵境。

書き下し文

 四年、秋七月、百濟 くたら くにさかひ を侵したり。

五年

現代語訳

 五年(200年)秋七月、太白が昼に現れた。霜を として草を いだ。
 九月の庚午 かのえうし ついたち 、日食があった。閼川で大閱 デモンストレーション をした。


漢文

 五年、秋七月、太白晝見。隕霜殺草。九月庚午朔、 日有食之。大閱於閼川。

書き下し文

 五年、秋七月、太白、 ひる あらは る。霜を として草を ぎたり。
 九月の庚午 かのえうし つひたち 、 日の之れを食むこと有り。大閱 おほけみ 、閼川に於いてす。

六年

現代語訳

 六年(201年)春二月、加耶国が和平を要請した。
 三月の丁卯 ひのとう ついたち 、日食があった。大旱魃があり、内外の繫がれた囚人を記録し、軽い罪を赦免した。


漢文

 六年、春二月、加耶國請和。
 三月丁卯朔、日有食之。大旱、錄内外繫囚、原輕罪。

書き下し文

 六年、春二月、加耶の國は なぎ を請ふ。
 三月の丁卯 ひのとう つひたち 、日の之れを食むこと有り。大いに ひでり し、内外 うちそと の繫ぎたる とがひと しる し、輕き罪を ゆる す。

八年

現代語訳

 八年(203年)冬十月、靺鞨が国境を犯した。桃と李の花が開いた。人々の間に疫病が広まった。


漢文

 八年、冬十月、靺鞨犯境。桃李華。人大疫。

書き下し文

 八年、冬十月、靺鞨は くにさかひ を犯す。桃李の はなひら く。人は大いに おこり あり。

十年

現代語訳

 十年(205年)春二月、拝して眞忠を一伐飡とすることで、国政に参与させた。
 秋七月、霜や雹が穀物を いだ。太白が月を犯した。
 八月、狐が金城と始祖廟の庭で鳴いた。


漢文

 十年、春二月、拜眞忠爲一伐飡、以參國政。
 秋七月、霜雹殺穀。太白犯月。八月、狐鳴金城及始祖廟庭。

書き下し文

 十年、春二月、 さづ けて眞忠を一伐飡 らしめ、以ちて國政 まつりごと に參らしむ。
 秋七月、霜雹は いひ を殺す。太白は月を犯す。
 八月、狐、金城及び始祖 はぢめおや みたまや の庭に鳴く。

十二年

現代語訳

 十二年(207年)春正月、拝して王子の利音〈あるいは、奈音とも伝わる。〉を伊伐飡とし、内外の兵馬 いくさ の事を兼知させた。


漢文

 十二年、春正月、拜王子利音〈或云奈音〉爲伊伐飡、兼知内外兵馬事。

書き下し文

 十二年、春正月、 さづ けて王子 みこ の利音〈或るいは奈音と云ふ〉を伊伐飡 らしめ、兼ねて内外 うちそと 兵馬 いくさ の事を つかさど らしむ。

十三年

現代語訳

 十三年(208年)春二月、西に向けて郡邑を巡り、十日して帰ってきた。
 夏四月、倭人が国境を犯した。伊伐飡の利音を遣わせ、兵を引き連れさせ、それを防いだ。


漢文

 十三年、春二月、西巡郡邑、浹旬而返。
 夏四月、倭人犯境。遣伊伐飡利音、將兵拒之。

書き下し文

 十三年、春二月、西に こほり と邑を巡り、浹旬 とほか にして返る。
 夏四月、倭の人は くにさかひ を犯したり。伊伐飡の利音を遣はして、兵を いひ いせしめて之れを ふせ がしむ。

現代語訳

 十四年(209年)秋七月、浦上八国が加羅を侵そうと謀り、加羅の王子が来て救援を要請した。王は大子の于老と伊伐飡の利音に命じ、六部の兵を引き連れさせて、そちらに往かせて救援し、攻撃して八国の将軍を殺し、六千人を捕虜として奪い、それを返還した。


漢文

 十四年、秋七月、浦上八國謀侵加羅。加羅王子來請救。王命大子于老與伊伐飡利音、將六部兵往救之。擊殺八國將軍、奪所虜六千人、還之。

書き下し文

 十四年、秋七月、浦上 うらかみ 八國 やつくに は加羅を侵さむと謀る。加羅の王子 みこ は來たりて救ひを請ひたり。 きみ 大子 みこ の于老と伊伐飡の利音に みことのり し、六部の いくさ ひき いせしめ、往きて之れを救はしむ。擊ちて八國 やつくに 將軍 いくさかしら を殺し、虜とする所の六千人 むちたり を奪ひ、之れを還す。

現代語訳

 十五年(210年)春夏に旱魃があった。使者を出して郡邑の獄囚を記録させた。二つの死罪となる罪状を除いて、その他はすべて赦免した。


漢文

 十五年、春夏旱、發使錄郡邑獄囚。除二死、餘悉原之。

書き下し文

 十五年、春夏に ひでり あり、使 つかひ はな ちて郡邑 こほりとむら 獄囚 とがひと しる す。二つの死を除き、 ほか は悉く之れを ゆる す。

現代語訳

 十六年(211年)春正月、拝して萱堅を伊飡とし、允宗を一吉飡とした。


漢文

 十六年、春正月、拜萱堅爲伊飡、允宗爲一吉飡。

書き下し文

 十六年、春正月、 さづ けて萱堅を伊飡 らしめ、允宗を一吉飡 らしむ。

現代語訳

 十七年(212年)春三月、加耶が王子を送って人質とした。
 夏五月、大雨が降って民の家屋を漂流させ、毀した。


漢文

 十七年、春三月、加耶送王子爲質。
 夏五月、大雨、 漂毀民屋。

書き下し文

 十七年、春三月、加耶は王子 みこ を送りて むかはり と爲す。
 夏五月、大いに雨ふり、 民の いへ を漂ひ毀す。

現代語訳

 十九年(214年)春三月、大いに風が吹き、木を折った。
 秋七月、百済が国の西の腰車城を攻めに来て、城主の薛夫を殺した。王は伊伐飡の利音に命じ、選りすぐりの兵六千を率い、百済を ち、沙城を破った。
 冬十二月、雷があった。


漢文

 十九年、春三月、大風折木。秋七月、百濟來攻國西腰車城、殺城主薛夫。王命伊伐飡利音、率精兵六千伐百濟破沙城。冬十二月、雷。

書き下し文

 十九年、春三月、大いに風ふき木を折る。
 秋七月、百濟は國の西の腰車城を攻めに來て、城の あるぢ の薛夫を殺す。 きみ は伊伐飡の利音に みことのり し、 よりすぐり いくさひと 六千 むちたり を率い、百濟 くたら ち、沙城を破る。
 冬十二月、 いかづち あり。

現代語訳

 二十三年(218年)秋七月、武器庫の兵物が自ら出てきた。百済人が国山城に来た。王は みずか ら兵を率いて出撃し、それらを敗走させた。


漢文

 二十三年、秋七月、武庫兵物自出。百濟人來國山城。王親率兵出擊走之。

書き下し文

 二十三年、秋七月、武庫 たけくら 兵物 いくさ 、自ら出づ。百濟 くたら の人は國山城に來たり。 きみ みづか ら兵を率いて擊ちに出で、之れを走らしむ。

現代語訳

 二十五年(220年)春三月、伊伐飡の利音が卒去した。忠萱を伊伐飡とし、兵馬 いくさ の事を兼知させた。
 秋七月、楊山の西で大閱 デモンストレーション をした。


漢文

 二十五年、春三月、伊伐飡利音卒。以忠萱爲伊伐飡、兼知兵馬事。
 秋七月、大閱楊山西。

書き下し文

 二十五年、春三月、伊伐飡の利音は ぬ。以ちて忠萱を伊伐飡 らしめ、兼ねて兵馬 いくさ の事を つかさど らしむ。
 秋七月、楊山の西に大閱 おほけみ す。

現代語訳

 二十七年(222年)夏四月、雹が まめ むぎ を傷つけ、南新縣の人が死んだ。ひと月を経て活力を取り戻した。
 冬十月、百済の兵が牛頭州に入った。伊伐飡の忠萱は兵を引き連れ、それらを防いだ。熊谷までたどり着いたが、賊に敗られてしまい、単騎にて帰還したが、鎭主に身分を落とされた。そこで連珍を伊伐飡とし、兼ねて兵馬 いくさ の事を つかさど らせた。


漢文

 二十七年、夏四月、雹傷菽麥、南新縣人死。歴月復活。
 冬十月、百濟兵入牛頭州。伊伐飡忠萱、將兵拒之。至熊谷、爲賊所敗、單騎而返、貶爲鎭主。以連珍爲伊伐飡、兼知兵馬事。

書き下し文

 二十七年、夏四月、雹は まめ むぎ を傷ひ、南新縣の人は死ぬ。 ひとつき て活くるを もど す。
 冬十月、百濟 くたら いくさひと 牛頭 ごづ くに に入る。伊伐飡の忠萱は、 いくさひと ひき いて之れを ふせ ぐ。熊谷に至り、賊に敗らるる所と爲り、 ひとり うま にして返り、 おとしめ て鎭の主と爲す。以ちて連珍を伊伐飡 らしめ、兼ねて兵馬 いくさ の事を つかさど らせしむ。

現代語訳

 二十九年(224年)秋七月、伊伐飡の連珍が百済と烽山の ふもと で戦い、これを破った。殺害あるいは捕虜とした者は一千級以上である。
 八月、烽山城を築いた。


漢文

 二十九年、秋七月、伊伐飡連珍與百濟戰烽山下、破之、殺獲一千餘級。
 八月、築烽山城。

書き下し文

 二十九年、秋七月、伊伐飡の連珍は百濟 くたら と烽山の ふもと に戰し、之れを破り、殺し とら ふること一千餘級 ひとちたりあまり
 八月、烽山城を築く。

現代語訳

 三十一年(226年)春に雨が降らず、秋七月になってようやく雨が降った。民は飢え、倉廩を開いて賑給した。
 冬十月。内外の獄囚を記録し、軽い罪を赦免した。


漢文

 三十一年、春不雨、至秋七月、乃雨。民飢、發倉廩賑給。
 冬十月。錄内外獄囚、原輕罪。

書き下し文

 三十一年、春に雨ふらず、秋七月に至りて、乃ち雨ふる。民は飢ゑ、倉廩を ひら きて賑給 ふるま ひたり。
 冬十月。内外 うちそと 獄囚 とがひと しる し、輕き罪を ゆる す。

現代語訳

 三十二年(227年)春二月、西南の郡邑を巡りながら狩りをし、三月で帰還した。拝して波珍飡の康萱を伊飡とした。


漢文

 三十二年、春二月、巡狩西南郡邑、三月還。拜波珍飡康萱爲伊飡。

書き下し文

 三十二年、春二月、西南の郡邑 こほりとむら を巡り狩り、三月に還る。 さづ けて波珍飡の康萱を伊飡 らしむ。

現代語訳

 三十四年(229年)夏四月、虵が三日にわたって倉庫で鳴き続けた。
 秋九月、地震があった。
 冬十月、大雪が降り、深さ五尺(約1.5m)。


漢文

 三十四年、夏四月、虵鳴南庫三日。
 秋九月、地震。冬十月、大雪、深五尺。

書き下し文

 三十四年、夏四月、虵の鳴くこと南の くら に三日たり。
 秋九月、地震 なゐ あり。
 冬十月、大いに雪ふり、深さ五尺 いつたけ

現代語訳

 三十五年(230年)春三月、王が薨去した。


漢文

 三十五年、春三月、王薨。

書き下し文

 三十五年、春三月、 きみ みまか れり。

注記

内礼夫人

 父親の祗摩王は儒理王の孫にあたり、阿達羅尼師今は儒理王の孫にあたる。ということは、儒理王から数えて孫と曾孫が結婚したことになる。

前王の太子の骨正と第二十子の伊買

 第二十子というのは、二十番目の息子ということだろうか? 他の息子についてはわからない。

租調

 律令制の税制において定められた種目。「租」は田で収穫された穀物。「調」は布や特産物。これらの他には、律令制の税制には「庸(労役)」がある。律令制は七世紀の唐において成立しており、この時点では存在しない。おそらくこれは、品物として納められる租税の総称であろう。

太白

 金星のこと。地上から見える日月を除いて最も光の強い星。

加耶国

 朝鮮南端の連合国家。少なくとも呼称の成立は百済や新羅よりも古いと思われ、漢籍における「韓」と同語源と推測される。本書第一巻婆娑紀二十三年(102年)秋八月に登場する首露王が建国者のひとりとされる。

浦上八国

 伽耶諸国のうちのいくつかとされる。慶尚南道南西域。

于老

 昔氏であり昔于老。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場する。

腰車城

 韓国忠清北道報恩郡懐南面とされる。

沙城

 本文では沙城とされているが、どうやら沙峴城らしい。慶尚北道聞慶市籠岩面沙峴里とされる。

国山城

 どこか不明。

まめ
 大豆類のこと。あるいは食用豆の総称。当時の大豆類は寒さに弱いため、本文では霜によって殺がれたと記されるのだろう。縄文中期の日本では、大豆の原種のひとつとなる豆類が栽培されていたが、寒冷期の到来とともに栽培に失敗。その後は人口が大きく減少し、弥生時代まで低迷した。弥生時代以降は米を始めとした農耕技術が伝来し、渡来人とともに人口が増大したわけである。

南新縣

 どこか不明。地理志にも登場しない。

熊谷

 韓国江原道春川市東南甘渓とされる。

鎭主

 鎭は地域の行政区分単位。あるいは郷村に対比される地方都市のこと。原義は地方都市に派遣された軍隊であり、南北朝時代に成立した。行政区分としての鎭は、唐末期から五代十国にかけて設置された。本格的に制度化されたのは宋以降。県の下位。

烽山、烽山城

 韓国慶尚北道栄州市とされる。
摩耶夫人とブッダ
摩耶夫人と右脇から生まれるブッダ

倭人

 三國史記で最初に登場する異民族。倭は現在の日本の元となる国家とされ、半島の東の海の先にある島国であると思われる。一番最初に韓国を襲撃する異民族である。大日本帝国恐るべし。

星孛

 流星のこと。
星孛
星孛

王良

 星官(中国における星座)のひとつ。トレミーの48星座ではちょうどカシオペア座にあたる。王良は春秋時代の御者の名で、一星を馬車、四星を馬に見立てる。
王良
王良

 星官(中国における星座)のひとつ。トレミーの48星座ではちょうどオリオン座に当たる。
参
王良

卞韓

 弁韓のこと。馬韓、辰韓と並ぶ三韓のひとつ。三国志の魏志韓伝では馬韓、辰韓、弁韓が並立されており、紀元200-300年頃の時点を記録したものでは別個の国であるのに、紀元前であるはずのここで辰韓に弁韓が国ごと投降したことになっているのはおかしい。ただ、それ以前の紀元0-200年頃を記録した後漢書東夷三韓伝では、弁韓が「弁辰」となっており、ここに意図があるのかもしれない。よくわからない。

楽浪

 半島北東部を指す。漢武帝の定めた地域区分で、中国の史書では独立した国家として扱われることはないはず……だけど、ここだと国や民族のように扱われる。よくわからない。漢書地理志燕地条史記朝鮮伝に登場する。

人々が夜も戸締りをせず、収穫した農作物を野に積んだままにしていた

 中国の『漢書地理志燕地条』『後漢書東夷伝評語』等に描かれる朝鮮の特徴。太古に朝鮮地域を治めていたとされる箕子の育んだ文化に基づいて、そのような風土が形成されたという歴史認識が存在していた。本文の内容は、これに引き寄せたものだと思われる。

馬韓

 辰韓、弁韓と並ぶ三韓のひとつにして最大の国家。後漢書東夷三韓伝によれば、一度は箕氏朝鮮からの遺民が国を奪ったが、また現地人が王に立ったとのこと。ここで馬韓王は辰王と呼称されている。後漢書東夷三韓伝には、辰韓は秦帝国からの亡命者が馬韓から領土を割譲されて建国したものとの伝承が述べられ、実際に秦と用いる語彙もよく似ており、辰韓には秦韓という別名があると述べられている。

大秦帝国

 中華王朝の名称。前漢の前の王朝。紀元前221年から206年まで。500年以上にわたる戦乱の春秋戦国時代を治めて中国の統一を果たしたが、僅か15年で瓦解した。その理由のひとつとして刑罰の厳しさが挙げられ、治世の代から流民が発生した。
大秦帝国
秦代(前210年)の中国地図

東沃沮

 沃沮は朝鮮半島北西部に居住していた民族。北沃沮と別れる。これらについては後漢書の東夷東沃沮伝魏志東沃沮伝に記述がある。

河皼

 星官のひとつ。河鼓三星のこと。トレミーの48星座における鷲座のα星(アルタイル)、β星(アルシャイン)、γ星(タラゼット)によって構成される。
河鼓三星
河鼓三星

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底本

三國史記 - 维基文库,自由的图书馆

改易

 馬韓王讓瓠公曰→馬韓王責讓瓠公曰

 前者であれば、「馬韓王は瓠公に遠慮がちに~と言った」となり、「馬韓王は瓠公を責め立て~と言った」となる。旧版では前者の通りに訳したが、属国が朝貢を絶やしていることへの批判をおこなう宗主国の王の発言としては違和感がある。(もちろん、朴赫居世の威光と辰韓の伸張を恐れていたとも解釈できるし、最初は訳者もそう考えたが。)

 また、本書において『責讓』の語は、本書巻十五太祖大王紀九十四年文注と巻二十三温祚王紀二十四年の二度に渡って登場し、内容にも違和感がない。

 よって、これを『責』の欠字と見なし、以上のように本文を改易した。