三国史記 伐休王紀

伐休尼師今

現代語訳

 伐休〈一説に發暉と書く。〉尼師今が立った。姓は昔、脱解王の息子の仇鄒角干の息子である。母の姓は金氏、只珍内礼夫人である。阿達羅が薨去したが、息子がおらず、国の人は彼を立てた。王は風と雲を占い、洪水と旱魃、その年の収穫が豊作か凶作かを予知し、また人の正邪がわかった。人は彼を聖と称した。


漢文

 伐休〈一作發暉。〉尼師今立。姓昔、脫解王子仇鄒角干之子也。母姓金氏、只珍內禮夫人。阿達羅薨、無子、國人立之。王占風雲、預知水旱及年之豊儉、又知人邪正、人謂之聖。

書き下し文

 伐休〈一に發暉と す。〉尼師今立つ。 かばね は昔、脫解の王子 みこ の仇鄒角干の むすこ なり。母の かばね は金 うぢ 、只珍內禮夫人たり。阿達羅は みまか るも、 むすこ 無く、國の人は之れを立つる。 きみ は風と雲とを占ひ、 あらかぢ おほみづ ひでり 及び年の豊かと くるを知り、又た人の しきと正しきを知り、人は之れを聖と謂ふ。

二年

現代語訳

 二年(185年)春正月、 みずか ら始祖廟を祀り、大赦した。
 二月、拝して波珍飡の仇道と一吉飡の仇須兮を左右の軍主とし、召文国を たせた。『軍主』という名称はここから始まっている。


漢文

 二年、春正月、親祀始祖廟、大赦。二月、拜波珍飡仇道、一吉飡仇須兮爲左右軍主、伐召文國。軍主之名始於此。

書き下し文

 二年、春正月、 みづか 始祖 はぢめおや みたまや を祀り、大いに赦したり。
 二月、 さづ けて波珍飡の仇道と一吉飡の仇須兮を左右 すけ の軍主 らしめ、召文の國を たしむ。軍主の名は此に於いて始む。

三年

現代語訳

 三年(186年)春正月、州郡を巡幸し、風俗を観察した。
 夏五月の壬申 みずのえさる みそか 、日食があった。
 秋七月、南新縣が嘉禾を進呈した。


漢文

 三年、春正月、巡幸州郡、觀察風俗。夏五月壬申晦、日有食之。秋七月、南新縣進嘉禾。

書き下し文

 三年、春正月、州郡 くにとこほり 巡幸 みゆき し、風俗 ならひ 觀察 ゆ。
 夏五月の壬申 みずのえさる みそか 、日の之れを食むこと有り。
 秋七月、南新の あがた は嘉禾を たてまつ りたり。

四年

現代語訳

 四年(187年)春三月、州郡に「土木の工事をして農時を奪ってはならぬ」との いいつけ を下した。
 冬十月、北の地域に大雪が降った。深さは一丈(約3m)である。


漢文

 四年、春三月、下令、州郡、無作土木之事、以奪農時。冬十月、北地大雪、深一丈。

書き下し文

 四年、春三月、 いひつけ 州郡 くにとこほり に下したり。土木の事を し、以ちて はたけ の時を奪ふこと無かれ、と。
 冬十月、北の地に大いに雪ふり、深さは一丈 ひとたけ たり。

五年

現代語訳

 五年(188年)春二月、百済が母山城を攻めに来た。波珍飡の仇道に兵を出すように命じ、それを防いだ。


漢文

 五年、春二月、百濟來攻母山城。命波珍飡仇道、出兵拒之。

書き下し文

 五年、春二月、百濟 くだら は母山城を攻めに來たり。波珍飡の仇道を みことのり し、 いくさ を出だして之れを ふせ がしむ。

六年

現代語訳

 六年(189年)秋七月、仇道が百済と狗壌で戦い、これに勝った。殺害および捕獲した者は五百級余りである。


漢文

 六年、秋七月、仇道與百濟戰於狗壤、勝之。殺獲五百餘級。

書き下し文

 六年、秋七月、仇道は百濟 くだら と狗壤に於いて戰ひ、之れに勝つ。殺し とりこ とするは五百餘級 いつほたりあまり

七年

現代語訳

 七年(190年)秋八月、百済が西の国境の圓山郷を襲い、そこから進んで缶谷城を包囲した。仇道は勁騎五百を率い、これを擊つと、百済の兵は逃走するふりをした。追撃する仇道が蛙山までたどり着いたところで、百済に破られてしまった。王は仇道の失策をもって、缶谷城主に職位を落とし、薛支を左軍主とした。


漢文

 七年、秋八月、百濟襲西境圓山鄕、又進圍缶谷城。仇道率勁騎五百擊之、百濟兵佯走。仇道追及蛙山、爲百濟所敗。王以仇道失策、貶爲缶谷城主、以薛支爲左軍主。

書き下し文

 七年、秋八月、百濟 くだら は西の くにざかひ の圓山鄕を襲ひ、又た進みて缶谷城を圍みたり。仇道は つよ うまいくさ 五百 いつほたり を率いて之れを擊たば、百濟 くだら いくさひと のが るる ふり をしたり。仇道の追ひて蛙山に及びたれば、百濟 くだら に敗らるる所と爲る。 きみ は仇道の はかりごと あやま ちたるを以ちて、貶めて缶谷城の あるぢ と爲し、薛支を以ちて左軍主 らしむ。

八年

現代語訳

 八年(191年)秋九月、蚩尤旗が角と亢に現れた。


漢文

 八年、秋九月、蚩尤旗見于角、亢。

書き下し文

 八年、秋九月、蚩尤旗は角亢に あらは る。

九年

現代語訳

 九年(192年)春正月、拝して国良を阿飡とし、述明を一吉飡とした。
 三月、京都 みやこ に雪が降った。深さ三尺(約1m)。
 夏五月、洪水が起こり、十ヶ所余りの山が崩れた。


漢文

 九年、春正月、拜國良爲阿飡、述明爲一吉飡。三月、京都雪深三尺。夏五月、大水、山崩十餘所。

書き下し文

 九年、春正月、 さづ けて國良を阿飡 らしめ、述明を一吉飡 らしむ。
 三月、京都 みやこ に雪ふること深さ三尺 みさし
 夏五月、大水 おほみづ あり、山の崩るるは十餘所 とあまり

十年

現代語訳

 十年(193年)春正月の甲寅 きのえとら ついたち 、日食があった。
 三月、漢祇部の女が一度に四人の男児と一人の女児を産んだ。
 六月、倭人の大勢が飢饉となった。食べ物を求めて来た者は千人以上である。


漢文

 十年、春正月甲寅朔、日有食之。三月、漢祇部女、一産四男一女。六月、倭人大饑、來求食者千餘人。

書き下し文

 十年、春正月の甲寅 きのえとら つひたち 、日の之れを食むこと有り。
 三月、漢祇部の をみな ひとたび 四男 よつたりのをのこ 一女 ひとりのをなご を産む。
 六月、倭人、大いに饑ゆ。 いひ を求めて來たる者は千餘人 ちたりあまり

十一年

現代語訳

 十一年(194年)夏六月の乙巳 きのとみ みそか 、日食があった。


漢文

 十一年、夏六月乙巳晦、日有食之。

書き下し文

 十一年、夏六月の乙巳 きのとみ みそか 、日の之れを食むこと有り。

十三年

現代語訳

 十三年(196年)春二月、宮室を建て直した。
 三月、旱魃が起こった。
 夏四月、宮の南の大樹に震が起こり、次いで金城の東門に震が起こった。王が薨去した。


漢文

 十三年、春二月、重修宮室。三月、旱。夏四月、震宮南大樹、又震金城東門。王薨。

書き下し文

 十三年、春二月、重ねて宮室 みや を修む。
 三月、 ひでり あり。
 夏四月、宮の南の大樹 おほぎ なゐ あり、又た金城の東の門に なゐ あり。 きみ みまか れり。

注記

仇鄒角干

 4代脱解の息子。姓は昔氏。角干は骨品制で第一位とされている。

金氏、只珍内礼夫人

 金氏は後に新羅王となる。金氏の始祖とされる金閼智は、4代脱解王によって金の箱の中から発見された赤子。よって、脱解王の息子の昔仇鄒は、自らの父の養子を始祖とする金氏の女性と結婚したことになる。金閼智との関係は不明。しかし、ひとり金の箱から発見された金閼智が金氏の始祖であるなら、その一族の者は同時に存在しないはずである。なので、本書の記述に基づけば、金閼智の娘や孫娘であると推測されるが、そうなると脱解王の発見した赤子の更に娘と、脱解王の息子が結婚したことになり、ひと世代離れる。それだけではなく、脱解王が金閼智を発見したのは七十一歳の時である。かなり短く見て、金閼智が15歳で結婚して只珍内礼を生んだとしても、脱解王とは86年の差がある。よって、その息子とも激しい年齢差があるか、仇鄒がかなり遅くの息子であると推測され、どうにも違和感がある。また、4代脱解王の死去年は西暦80年、孫の伐休の即位が184年であり、祖父の死から100年以上の差がある即位というのは、これまたどうにも世代がおかしい。

波珍飡、一吉飡

 波珍飡は骨品制の第四位。一吉飡は第七位。

金仇道

 金閼智の子孫。玄孫に当たる。本書第一巻儒理王紀にある通り、金氏は後に新羅王となる。本書の金閼智には出生以外の詳細な記録がなく、その子孫についても金仇道までの詳細な記録がない。よって、彼が初めて歴史の表舞台に登場した金氏の人物である。ただし、本書脱解王紀にて金閼智は脱解王が71歳の時に拾った赤子とされており、本文の伐休王は脱解王の孫であることから、あまりに世代が離れている。※2にも金氏只珍内礼夫人の世代について疑問を呈したが、この年間の昔氏と金氏の世代には疑問がある。

召文国

 慶尚北道義城郡金城面一帯に都を置いていたとされる小国家。同地の金城山古墳がこれに相当するのではないかと推定されている。

軍主

 名称から軍事の統括者と推測できる。後年には○○(地名)軍主という呼称が多く登場し、これは当地の軍を統括する立場だろうか?

南新縣

 どこか不明。本書地理志にも載っていない。

嘉禾

 よく穂の実った穀物のこと。

母山城

 忠清北道鎮川郡鎮川邑とされる。

狗壌

 韓国の忠清北道沃川郡とされる。

圓山郷

 韓国慶尚北道龍醴泉郡龍宮面に比定されることもあるが、他にも諸説があり定説はない。

缶谷城

 慶尚北道軍威郡とされる。

蛙山

 韓国の忠清北道報恩郡とされる。

蚩尤旗

 尾の曲がったほうき星。世が乱れる前兆とされ、当時に王が四方を征伐する前兆ともされる。蚩尤とは、中国神話に登場する暴力と破壊の神。初の人間の支配者とされる黄帝に討たれた。つまり狂暴なる存在(蚩尤)が軍旗を立て、それを正義の王者(黄帝)が討ち取ることの暗示。

角、亢

 天球を二十八に分割した『二十八宿』のふたつ。角は二十八宿の第一とされ、亢は第二とされる宿。いずれも東方八宿。

阿飡

 骨品制における第六位。

漢祇部

 3代儒理王に定められたとされる辰韓六部のうちのひとつ。かつての加利村。部民の姓は裴氏。

金城

 韓国江原道華川郡とされる。

底本

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