三国史記 逸聖王紀

逸聖尼師今

現代語訳

 逸聖尼師今が立った。儒理王の長子である。〈あるいは、日知葛文王の子とも伝わる。〉妃の朴氏は、支所礼王の娘である。


漢文

 逸聖尼師今立、儒理王之長子。〈或云日知葛文王之子。〉妃朴氏、支所禮王之女。

書き下し文

 逸聖尼師今立つ。儒理王の長子 をさご たり。〈 ある いは云 いは く、日知葛文王の むすこ たり。〉 きさき は朴氏、支所禮王の むすめ なり。

元年

現代語訳

 元年(134年)九月、大赦した。


漢文

 元年九月、大赦。

書き下し文

 元年九月、大いに ゆる したり。

二年

現代語訳

 二年(135年)春正月、 みずか ら始祖廟を祀った。


漢文

 二年春正月、親祀始祖廟。

書き下し文

 二年春正月、 みづか 始祖 はじめおや みたまや を祀りたり。

三年

現代語訳

 三年(136年)春正月、拜んで雄宣を伊飡とし、内政と外交、軍事の知事を兼任させ、近宗を一吉飡とした。


漢文

 三年春正月、拜雄宣爲伊飡、兼知內外兵馬事、近宗爲一吉飡。

書き下し文

 三年春正月、拜みて雄宣を伊飡 らしめ、內外 うちそと 兵馬 いくさ の事を兼ね つかさど らせしめ、近宗を一吉飡 らしむ。

四年

現代語訳

 四年(137年)春二月、靺鞨が とりで に入って長嶺の五つの柵を焼いた。


漢文

 四年春二月、靺鞨入塞、燒長嶺五柵。

書き下し文

 四年春二月、靺鞨、 とりで に入りて長嶺の いつつ しがらみ を燒きたり。

五年

現代語訳

 五年(138年)春二月、政事堂を金城に置いた。
 秋七月、閼川の西で大規模な デモンストレーション をした。
 冬十月、北に巡って みずか ら大白山を祀った。


漢文

 五年春二月、置政事堂於金城。秋七月、大閱閼川西。冬十月、北巡、親祀大白山。

書き下し文

 五年春二月、政事 まつりごと たかどの を金城に置きたり。  秋七月、大いに閼川の西に けみ したり。
 冬十月、北に巡り、 みづか ら大白山を祀りたり。

六年

現代語訳

 六年(139年)秋七月、隕霜が まめ を殺した。
 八月、靺鞨が長嶺を襲って民口を捕虜にして掠奪した。
 冬十月、ふたたび来たが、雪が甚だしくてすぐに撤退した。


漢文

 六年秋七月、隕霜殺菽。八月、靺鞨襲長嶺、虜掠民口。冬十月、又來、雪甚、乃退。

書き下し文

 六年秋七月、 りたる霜、 まめ ぎたり。
 八月、靺鞨、長嶺を襲ひて民口 たみ 虜掠 さら ひたり。
 冬十月、又た來たるも、雪甚だしくして乃ち退きたり。

七年

現代語訳

 七年(140年)春二月、柵を長嶺に立て、靺鞨を防ぐことにした。


漢文

 七年春二月、立柵長嶺、以防靺鞨。

書き下し文

 七年春二月、 しがらみ を長嶺に立て、以て靺鞨を防がせしむ。

八年

現代語訳

 八年(141年)秋九月辛亥晦、日食があった。


漢文

 八年秋九月辛亥晦、日有食之。

書き下し文

 八年秋九月辛亥晦、日の之れを食する有り。

九年

現代語訳

 九年(142年)秋七月、群公を召して靺鞨を ちたいと提議したが、伊飡の雄宣が無理だと上言し、取りやめた。


漢文

 九年秋七月、召羣公議征靺鞨。伊飡雄宣上言不可、乃止。

書き下し文

 九年秋七月、羣公 もろきみ を召して靺鞨を たむことを はか りたり。伊飡の雄宣は不可なると ことば ささ げ、乃ち む。

十年

現代語訳

 十年(143年)春二月、宮室を修繕した。
 夏六月の乙丑 きのとうし 、熒惑が鎭星を犯した。
 冬十一月、 いかずち があった。


漢文

 十年春二月、修葺宮室。夏六月乙丑、熒惑犯鎭星。冬十一月、雷。

書き下し文

 十年春二月、宮室 みや 修葺 おさ む。  夏六月乙丑 きのとうし 、熒惑、鎭星を犯したり。  冬十一月、 いかづち あり。

十一年

現代語訳

 十一年(144年)春二月、 いいつけ を下した。「農業は政治の根本であり、食事は人民の天である。諸州郡は堤坊を完全に修理し、畑を開墾せよ。」また、民間での金銀珠玉の使用を禁止すると いいつけ を下した。


漢文

 十一年春二月、下令、農者政本、食惟民天。諸州郡修完堤坊、廣闢田野。又下令禁民間用金銀珠玉。

書き下し文

 十一年春二月、 いひつけ を下したり。 はたけ まつりごと おほもと いひ れ民の あめ たらむ。諸州郡 もろくに 堤坊 つつみ を修め まっと し、田野 はたけ 廣闢 ひら くべし、と。又た いひつけ を下し、民間に こがね しろがね 珠玉 たま を用ゆることを禁ず。

十二年

現代語訳

 十二年(145年)、春夏に旱魃があり、南の土地が最もひどかった。民が飢え、その粟を移して彼らに賑給した。


漢文

 十二年、春夏旱、南地最甚。民飢、移其粟賑給之。

書き下し文

 十二年、春夏に ひでり あり、南の つち に最も甚しき。民飢え、其の あわ を移して之れに賑給 ふるま ひたり。

十三年

現代語訳

 十三年(146年)冬十月、押督が叛き、兵を はな ってこれを討ち平らげ、その残りの諸衆を南の土地に うつ した。


漢文

 十三年冬十月、押督叛、發兵討平之、徙其餘衆於南地。

書き下し文

 十三年冬十月、押督叛き、 いくさ はな ちて之れを討ち平らげ、其の のこ りの もろひと を南の つち うつ したり。

十四年

現代語訳

 十四年(147年)秋七月、臣寮に、それぞれ智勇にすぐれた者を推挙し、将帥とするように命じた。


漢文

 十四年秋七月、命臣寮各擧智勇堪爲將帥者。

書き下し文

 十四年秋七月、臣寮 をみとつかさ みことのり し、 おのおの 智勇の堪しきを擧げ、將帥 いくさのきみ の者 らしめむとす。

十五年

現代語訳

 十五年(148年)、朴阿道を葛文王に封じた。〈新羅は追封した王を、どれも葛文王と称したが、その わけ はわからない。〉


漢文

 十五年、封朴阿道爲葛文王。〈新羅追封王、皆稱葛文王、其義未詳。〉

書き下し文

 十五年、朴阿道に あた えて葛文王 らしむ。〈新羅は きみ を追ひ あた うれば、皆葛文王を稱するも、其の わけ は未だ詳らかならじ。〉

十六年

現代語訳

 十六年(149年)春正月、得訓を沙飡、宣忠を奈麻秧とした。
 八月、星孛が天市にあった。
 冬十一月、 いかずち があった。京都 みやこ に大いに疫病があった。


漢文

 十六年春正月、以得訓爲沙飡、宣忠爲奈麻秧。八月、有星孛于天市。冬十一月、雷。京都大疫。

書き下し文

 十六年春正月、以て得訓を沙飡 らしめ、宣忠を奈麻秧 らしむ。
 八月、星孛、天市に有り。
 冬十一月、 いかづち あり。京都 みやこ に大いに おこり あり。

十七年

現代語訳

 十七年(150年)、夏四月から雨が降らず、秋七月になって雨が降った。


漢文

 十七年、自夏四月不雨、至秋七月乃雨。

書き下し文

 十七年、夏四月より あめふ らず、秋七月まで至りて乃ち あめふ りたり。

十八年

現代語訳

 十八年(151年)春二月、伊飡の雄宣が卒去したので、大宣を伊飡とし、内政と外交、軍事を兼ねる知事とした。
 三月、雨雹 ひさめ があった。


漢文

 十八年春二月、伊飡雄宣卒、以大宣爲伊飡、兼知內外兵馬事。三月、雨雹。

書き下し文

 十八年春二月、伊飡の雄宣 せり、以て大宣を伊飡 らしめ、內外 うちそと 兵馬 いくさ の事を兼ね つかさど りたり。
 三月、雨雹 ひさめ あり。

二十年

現代語訳

 二十年(153年)冬十月、宮の門に わざわい があった。彗星が東方に現れ、また東北方に現れた。


漢文

 二十年冬十月、宮門災。彗星見東方、又見東北方。

書き下し文

 二十年冬十月、宮の門に わざはひ あり。彗星、東方に あらは れ、又た東北の方に あらは りたり。

二十一年

現代語訳

 二十一年(154年)春二月、王が薨去した。

 三國史記卷第一


漢文

 二十一年春二月、王薨。

 三國史記卷第一

書き下し文

 二十一年春二月、 きみ みまか りたり。

 三國史記卷第一

注記

日知葛文王

 儒理王紀では儒理王の王妃の父親となっている。詳細はそちらの注記を参照。

支所礼王

 王妃の父とされて、王とのみ記されているが、少なくとも三国史記において、これ以前の新羅王にこのような人物はいない。おそらく彼の地位は葛文王であり、儒理王紀の「許婁王」の表記と同様である。このような表記のブレは、かつて女系の男性の地位が高かったことを示しているとの説がある。

大赦

 一般に恩赦といわれる。律令制における免刑。吉事や凶事にあって、既に判決の下った罪人の刑罰を赦免すること。王権の超越性を示す慣習である。現在の日本でも、天皇の即位にあたって、いくらかの軽犯罪への恩赦がおこなわれる。

大閲

 大規模な閲兵。閲兵は婆娑王紀の注記を参照。
閲兵
閲兵

大白山

 太白山のこと。韓国における象徴的な山岳。信仰の対象。
太白山
太白山

 豆類のこと。大豆は原始的な農用植物で、日本でも稲作以前から農耕に用いられ、縄文時代の人口拡大に影響した。
菽

熒惑

 火星のこと。惑は規則性のない運航をする星につけられる。惑星の語源。
火星
火星

鎭星

 土星のこと。
土星
土星

食惟民天

 人皇神農氏政典に見られる。

底本

三國史記 - 维基文库,自由的图书馆