三国史記 肖古王紀

肖古王

現代語訳

 肖古王〈一説には、素古とも伝わる。〉は蓋婁王の息子である。蓋婁が在位三十九年に薨去し、位を継いだ。


漢文

 肖古王、〈一云素古。〉蓋婁王之子。蓋婁在位三十九年薨、嗣位。

書き下し文

 肖古の きみ 、〈 あるふみ に素古と云ふ。〉蓋婁の きみ むすこ たり。蓋婁は くらひ すこと三十九年 みそあまりここのとし みまか り、 くらひ ぎたり。

二年

現代語訳

 二年(167年)秋七月、軍隊を潜伏させて新羅の西の片田舎のふたつの城を襲撃して破り、男女一千人を捕虜として捕えて帰還した。
 八月、新羅王は一吉湌の興宣を派遣し、兵二万を統率させ、国の東の諸城を侵しに来た。新羅王は更に みずか ら精鋭の騎馬八千を統帥してこれに継ぎ、あっという間に漢水までたどり着いた。王は新羅の兵と渡り合ったが、数が多く敵わなかったので、すぐさま相手に誘拐した者たちを返還した。


漢文

 二年、秋七月、潛師襲破新羅西鄙二城、虜獲男女一千而還。八月、羅王遣一吉湌興宣、領兵二萬、來侵國東諸城。羅王又親帥精騎八千繼之、掩至漢水。王度羅兵、衆不可敵、乃還前所掠。

書き下し文

 二年、秋七月、 いくさ ひそ ませて新羅 しらき の西の いなか ふたつ の城を襲ひ破り、男女一千 をめちたり 虜獲 とりこ にして還る。八月、 しらき きみ は一吉湌の興宣を遣はして、 いくさひと 二萬 ふたよろづ をさ めせしめ、國の東の諸城 もろき を侵しに來たり。 しらき きみ は又た みづか よりすぐり うまいくさ 八千 やちたり ひき いて之れに繼ぎ、 たちま ち漢水まで至る。 きみ しらき いくさ わた すも、 かずおほき にして敵ふ可からず、乃ち おまへ に掠る所を還したり。

五年

現代語訳

 五年(170年)春三月の丙寅 ひのえとら みそか 、日食があった。
 冬十月、出兵して新羅の国境付近の田舎を侵した。


漢文

 五年、春三月丙寅晦、日有食之。冬十月、出兵侵新羅邊鄙。

書き下し文

 五年、春三月の丙寅 ひのえとら みそか 、日の之れを食すること有り。冬十月、 いくさ をこ して新羅 しらき 邊鄙 くにへ を侵したり。

二十一年

現代語訳

 二十一年(186年)冬十月、雲がないのに雷が落ちた。星孛が西北に現れ、二十日で消滅した。


漢文

 二十一年、冬十月、無雲而雷。星孛于西北、二十日而滅。

書き下し文

 二十一年、冬十月、雲無くして いかち あり。星孛 ながれほし は西北に り、二十日 はつか にして滅びたり。

二十二年

現代語訳

 二十二年(187年)夏五月、王都の井戸と漢水のすべてが枯渇した。


漢文

 二十二年、夏五月、王都井及漢水皆竭。

書き下し文

 二十二年、夏五月、王都 みやこ の井及び漢水は皆が るる。

二十三年

現代語訳

 二十三年(188年)春二月、宮室を建て直した。軍隊を出して新羅の母山城を攻めた。


漢文

 二十三年、春二月、重修宮室。出師攻新羅母山城。

書き下し文

 二十三年、春二月、重ねて宮室 みや を修む。 いくさ をこ して新羅 しらき の母山城を攻めたり。

二十四年

現代語訳

 二十四年(189年)夏四月の丙午 ひのえうま ついたち 、日食があった。
 秋七月、我が軍は新羅と狗壤で戦ったが敗北し、死者は五百人余り。


漢文

 二十四年、夏四月丙午朔、日有食之。秋七月、我軍與新羅戰於狗壤、敗北、死者五百餘人。

書き下し文

 二十四年、夏四月の丙午 ひのえうま つひたち 、日の之れを食すること有り。秋七月、我が いくさ 新羅 しらき と狗壤に於いて戰ふも敗北 け、死せる者は五百餘人 いほたりあまり

二十五年

現代語訳

 二十五年(190年)秋八月、出兵して新羅の西境の圓山郷を襲い、進軍して缶谷城を包囲した。新羅の将軍の仇道は、馬兵五百を統帥し、これを防いだ。我が国の兵は退くふりをし、仇道が追って蛙山までたどり着いたところで、我が国の兵は反転してこれを擊ち、大いに勝った。


漢文

 二十五年、秋八月、出兵襲新羅西境圓山鄕、進圍缶谷城。新羅將軍仇道、帥馬兵五百、拒之。我兵佯退、仇道追至蛙山、我兵反擊之、大克。

書き下し文

 二十五年、秋八月、 いくさ をこ して新羅 しらき の西境の圓山鄕を襲ひ、進みて缶谷城を圍む。新羅 しらき 將軍 いくさかしら の仇道は、馬兵 うまいくさ 五百を ひき いて、之れを ふせ ぐ。 わがくに いくさ は退く ふり をし、仇道は追ひて蛙山に至らば、 わがくに いくさ かへ りて之れを擊ち、大いに克ちたり。

二十六年

現代語訳

 二十六年(191年)秋九月、蚩尤旗が角亢に現れた。


漢文

 二十六年、秋九月、蚩尤旗見于角、亢。

書き下し文

 二十六年、秋九月、蚩尤旗は角亢に あらは る。

三十四年

現代語訳

 三十四年(199年)秋七月、地震が起こった。兵を派遣して新羅の辺境を侵した。


漢文

 三十四年、秋七月、地震。遣兵、侵新羅邊境。

書き下し文

 三十四年、秋七月、地震 なゐ あり。 いくさ を遣はして新羅 しらき 邊境 くにさかひ を侵したり。

三十九年

現代語訳

 三十九年(204年)秋七月、出兵して新羅の腰車城を攻め、これを陥落し、その城主の薛夫を殺した。新羅の王の奈解は怒り、伊伐湌の利音を将に任命し、六部の精兵を統帥させて我が国の沙峴城を攻めに来た。
 冬十月、星孛が東井に現れた。


漢文

 三十九年、秋七月、出兵攻新羅腰車城、拔之、殺其城主薛夫。羅王奈解怒、命伊伐湌利音爲將、帥六部精兵、來攻我沙峴城。冬十月、星孛于東井。

書き下し文

 三十九年、秋七月、 いくさ をこ して新羅 しらき の腰車城を攻め、之れを拔き、其の城主 しろのあるぢ の薛夫を殺す。 しらき きみ の奈解は怒り、伊伐湌の利音に みことのり して すけ と爲し、六部の よりすぐり いくさひと ひき いて わがくに の沙峴城を攻めに來たり。冬十月、星孛 ながれほし は東井に り。

四十年

現代語訳

 四十年(205年)秋七月、太白が月を犯した。


漢文

 四十年、秋七月、太白犯月。

書き下し文

 四十年、秋七月、太白犯月。

四十三年

現代語訳

 四十三年(208年)秋、蝗と旱魃によって穀物の成長が順調ではなかったので、盗賊が数多く起こり、これを王は撫安した。


漢文

 四十三年、秋、蝗、旱、穀不順成、盜賊多起、王撫安之。

書き下し文

 四十三年、秋、 いなご ひでり いひ は成ること なお からず、盜賊 あた は多く起こり、 きみ は之れを なぐさ み安らげたり。

四十四年

現代語訳

 四十四年(209年)冬十月、大きな風が吹いて木を抜いた。


漢文

 四十四年、冬十月、大風拔木。

書き下し文

 四十四年、冬十月、大いに かざふ きて木を拔きたり。

四十五年

現代語訳

 四十五年(210年)春二月、赤峴と沙道のふたつの城を築き、東部の民戸を移した。
 冬十月、靺鞨が沙道城を攻めに来たが勝てず、城門を焼き払って遁走した。


漢文

 四十五年、春二月、築赤峴、沙道二城、移東部民戶。冬十月、靺鞨來攻沙道城、不克、焚燒城門而遁。

書き下し文

 四十五年、春二月、赤峴と沙道の ふたつ の城を築き、東部の民戶 たみのへ を移したり。冬十月、靺鞨は沙道城を攻めに來るも克たざれば、城門を焚燒 きて のが る。

四十六年

現代語訳

 四十六年(211年)秋八月、国の南で蝗が穀物を害し、民が餓えた。
 冬十一月、氷が張らなかった。


漢文

 四十六年、秋八月、國南蝗害穀、民饑。冬十一月、無氷。

書き下し文

 四十六年、秋八月、國の南に いなご は穀 いひ そこな ひ、民は饑ゆ。
 冬十一月、氷無し。

四十七年

現代語訳

 四十七年(212年)夏六月庚寅 かのえとら みそか 、日食があった。


漢文

 四十七年、夏六月庚寅晦、日有食之。

書き下し文

 四十七年、夏六月庚寅 かのえとら みそか 、日の之れを食すること有り。

四十八年

現代語訳

 四十八年(213年)秋七月、西部人の荀會が白鹿を捕獲し、これを献上した。王はめでたく思い、穀物一百石を賜った。


漢文

 四十八年、秋七月、西部人荀會獲白鹿、獻之。王以為瑞、賜穀一百石。

書き下し文

 四十八年、秋七月、西部の人の荀會は白鹿を獲たり、之れを たてまつ る。 きみ は以ちて めでたし と為し、 いひ の一百石を賜りたり。

四十九年

現代語訳

 四十九年(214年)秋九月、北部の眞果に命じて兵一千を統率させ、靺鞨の石門城を襲撃して取った。
 冬十月、靺鞨は勁騎を率いて侵しに来て、述川までたどり着いた。王が薨去した。


漢文

 四十九年、秋九月、命北部眞果、領兵一千、襲取靺鞨石門城。冬十月、靺鞨以勁騎來侵。至于述川。王薨。

書き下し文

 四十九年、秋九月、北部の眞果に みことのり し、 いくさひと 一千 ちたり をさ めせしめ、靺鞨の石門城を襲ひ取る。冬十月、靺鞨は つよ うまいくさ ひき いて侵しに來たり。述川に至る。 きみ みまか れり。

注記


新羅の母山城

 忠清北道鎮川郡鎮川邑とされる。

狗壤城

 韓国の忠清北道沃川郡とされる。

圓山郷

 韓国慶尚北道龍醴泉郡龍宮面に比定されることもあるが、他にも諸説があり定説はない。

缶谷城

 慶尚北道軍威郡

新羅の将軍の仇道

 金仇道のこと。

蛙山

 韓国の忠清北道報恩郡とされる。

蚩尤旗

 尾の曲がったほうき星。世が乱れる前兆とされ、当時に王が四方を征伐する前兆ともされる。蚩尤とは、中国神話に登場する暴力と破壊の神。初の人間の支配者とされる黄帝に討たれた。つまり狂暴なる存在(蚩尤)が軍旗を立て、それを正義の王者(黄帝)が討ち取ることの暗示。

角亢

 天球を二十八に分割した『二十八宿』のふたつ。角は二十八宿の第一とされ、亢は第二とされる宿。いずれも東方八宿。

新羅の腰車城

 韓国忠清北道報恩郡懐南面とされる。

沙峴城

 韓国慶尚北道聞慶市籠岩面沙峴里に比定される。

東井

 天球を二十八に分割した『二十八宿』のひとつ『井』を指す。東方に存在するため、東井という別名を有する。

太白

 金星のこと。

赤峴と沙道

 赤峴は韓国慶尚南道昌原市、沙道は韓国慶尚北道浦項市に比定される。

白鹿

 中国における聖獣。その到来は、君主が賢明で政治が清廉であることを示す。また、不老長寿の象徴でもある。

靺鞨の石門城

 朝鮮国の黄海北道瑞興郡の石門寺のことだと推測されるが定かではない。

述川

 韓国京畿道驪州市にある。

底本

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