三国史記 味鄒王紀

味鄒尼師今

現代語訳

 味鄒尼師今が立った。〈一説には、味照と伝わる。〉姓は金。母は朴氏葛文王伊柒の娘、妃の昔氏光明夫人は、助賁王の娘である。彼の祖先の金閼智は、鶏林から出て、脱解王が彼を見つけて、宮中で養い、後に拝して大輔とした。金閼智は金勢漢を生み、金勢漢は金阿道を生み、金阿道は金首留を生み、金首留は金郁甫を生み、金郁甫は金仇道を生み、金仇道は則ち味鄒の亡き父である。沾解に息子がおらず、国の人は味鄒を立てた。これこそ金氏が国を有した最初である。


漢文

 味鄒尼師今立、〈一云味照。〉姓金。母、朴氏、葛文王伊柒之女。妃、昔氏光明夫人、助賁王之女。其先、閼智出於雞林、脫解王得之、養於宮中、後拜爲大輔。 閼智生勢漢、勢漢生阿道、阿道生首留、首留生郁甫、郁甫生仇道、仇道則味鄒之考也。沾解無子、國人立味鄒。此金氏有國之始也。

書き下し文

 味鄒尼師今立つ、〈 あるふみ に味照と云ふ。〉 かばね は金。母は朴氏、葛文王の伊柒の むすめ たり。 きさき は昔氏の光明夫人、助賁の きみ むすめ たり。其の さきつおや の閼智は、雞林より出で、脫解の きみ は之れを得、宮の中に於いて養ひ、後に さづ けて大輔と爲す。 閼智は勢漢を生み、勢漢は阿道を生み、阿道は首留を生み、首留は郁甫を生み、郁甫は仇道を生み、仇道は則ち味鄒の なきちち なり。沾解に むすこ 無く、國の人は味鄒を立つる。此れ金 うぢ の國を ちたるの始めなり。

元年

現代語訳

 元年(262年)春三月、龍が宮の東の池に現れた。
 秋七月、金城の西の門で火災があり、人家に延焼すること三百区あまり。


漢文

 元年、春三月、龍見宮東池。秋七月、金城西門災。延燒人家三百餘區。

書き下し文

 元年、春三月、龍は宮の東の池に あらは る。秋七月、金城の西の門に わざはひ あり。人の いへ に延び燒くこと三百餘區 みほあまりかど

二年

現代語訳

 二年(263年)春正月、拝して伊飡の良夫を舒弗邯とし、内政と外交、兵馬 いくさ の事を兼知させた。
 二月、 みずか ら国祖廟を祀り、大赦した。亡き父の金仇道を葛文王に封じた。


漢文

 二年、春正月、拜伊飡良夫爲舒弗邯、兼知內外兵馬事。二月、親祀國祖廟、大赦。封考仇道爲葛文王。

書き下し文

 二年、春正月、拜みて伊飡の良夫を舒弗邯 らしめ、內外 まつり 兵馬 いくさ の事を兼ねて つかさど らしむ。二月、 みづか ら國の おや みたまや を祀り、大いに赦したり。 さづ けて ちち の仇道を葛文王 らしむ。

三年

現代語訳

 三年(264年)春二月、東に巡幸して海を望んだ。
 三月、黃山に行幸し、高齢者や貧困者で自らの生計を立てることができない者を訪問し、彼らに賑恤した。


漢文

 三年、春二月、東巡幸望海。三月、幸黃山、問高年及貧不能自存者、賑恤之。

書き下し文

 三年、春二月、東に巡幸 みゆき して海を望む。三月、黃山を みゆき し、高年 としより 及び貧しくして自ら いとな むに能はざる者を たづ ね、之れに賑恤 ふるま ひたり。

五年

現代語訳

 五年(266年)秋八月、百済が烽山城を攻めて来た。城主の直宣は壮士二百人を率い、そちらに出撃すると、賊は敗走した。それを聞いた王は、拝して直宣を一吉飡とし、士卒に厚く報賞した。


漢文

 五年、秋八月、百濟來攻烽山城。城主直宣、率壯士二百人、出擊之、賊敗走。王聞之、拜直宣爲一吉飡、厚賞士卒。

書き下し文

 五年、秋八月、百濟 くたら は烽山城を攻めに來たり。城の あるぢ の直宣、壯士 ますらを 二百人 ふたほたり を率い、之れを擊ちに出で、 あた は敗れ のが る。 きみ は之れを聞き、 さづ けて直宣を一吉飡 らしめ、厚く士卒 いくさひと たま はる。

七年

現代語訳

 七年(268年)春夏に雨が降らなかった。群臣を南堂に会合させ、 みずか ら政治と執刑の功績と過失を問い、次に五人の使いを派遣して百姓の苦患を巡り訊ねた。


漢文

 七年、春夏不雨。會羣臣於南堂、親問政刑得失、又遣使五人、巡問百姓苦患。

書き下し文

 七年、春夏に あめふ らず。羣臣 もろをみ を南堂に あつ め、 みづか まつり しおき 得失 よしあし を問ひ、又た使 つかひ の五人 いつたり を遣はして、百姓 たみ 苦患 うれひ を巡り たづ ぬ。

十一年年

現代語訳

 十一年(272年)春二月、「おおよそ農事を害する者があれば、一切それを除くべし。」との いいつけ を下した。
 秋七月、霜と雹が穀物を害した。
 冬十一月、百済が国境付近から侵した。


漢文

 十一年、春二月、下令、凡有害農事者、一切除之。秋七月、霜雹害穀。冬十一月、百濟侵邊。

書き下し文

 十一年、春二月、 いひつけ を下す。凡そ はたけ つとめ そこな ふ者有らば、一切 のこらず 之れを除くべし、と。秋七月、霜と ひさめ いひ を害ふ。冬十一月、百濟 くたら くにへ を侵したり。

十五年

現代語訳

 十五年(276年)春二月、臣寮が宮室を改築するように要請したが、君上は人に労役させることを重んじており、従わなかった。


漢文

 十五年、春二月、臣寮請改作宮室。上重勞人、不從。

書き下し文

 十五年、春二月、臣寮 をみ 宮室 みや を改め作らむと請へり。 かみ は人を はたら かせしむるを重しとし、從はざりき。

十七年

現代語訳

 十七年(278年)夏四月、 はげ しく風が吹き、木を抜いた。
 冬十月、百済の兵が槐谷城を包囲しに来たが、波珍飡の正源に命じて兵を統領させ、それを防いだ。


漢文

 十七年、夏四月、暴風拔木。冬十月、百濟兵來圍槐谷城、命波珍飡正源領兵拒之。

書き下し文

 十七年、夏四月、 はげ しく かざふ き木を拔きたり。冬十月、百濟 くたら いくさ は槐谷城を圍みに來たるも、波珍飡の正源に みことのり して いくさ をさ めせしめ、之れを ふせ ぎたり。

十九年

現代語訳

 十九年(280年)夏四月、旱魃が起こった。囚人を記録した。


漢文

 十九年、夏四月、旱。錄囚。

書き下し文

 十九年、夏四月、 ひでり あり。 とがひと しる す。

二十年

現代語訳

 二十年(281年)春正月、拝して弘權を伊飡、良質を一吉飡、光謙を沙飡とした。
 二月、祖廟に謁した。
 秋九月、楊山の西にて大閱 デモンストレーション をした。


漢文

 二十年、春正月、拜弘權爲伊飡、良質爲一吉飡、光謙爲沙飡。二月、謁祖廟。秋九月、大閱楊山西。

書き下し文

 二十年、春正月、 さづ けて弘權を伊飡 らしめ、良質を一吉飡 らしめ、光謙を沙飡 らしむ。二月、 おや みたまや まみ ゆ。秋九月、楊山の西に大いに けみ す。

二十二年

現代語訳

 二十二年(283年)秋九月、百済が国境付近を侵した。
 冬十月、槐谷城を包囲し、一吉飡の良質に命じて兵を統領させ、それをとどめた。


漢文

 二十二年、秋九月、百濟侵邊。冬十月、圍槐谷城、命一吉飡良質、領兵禦之。

書き下し文

 二十二年、秋九月、百濟 くたら くにへ を侵したり。冬十月、槐谷城を圍み、一吉飡の良質に みことのり し、 いくさ をさ めせしめて之れを ふせ がせしむ。

二十三年

現代語訳

 二十三年(284年)春二月、国の西の諸城を巡撫した。
 冬十月、王が薨去し、大陵に葬られた。〈一節には、竹長陵と伝わる。〉


漢文

 二十三年。春二月、巡撫國西諸城。冬十月、王薨、葬大陵〈一云竹長陵。〉

書き下し文

 二十三年。春二月、國の西の諸城 もろしろ を巡り なぐさ む。冬十月、 きみ みまか り、大陵に葬らる。〈 あるふみ に竹長陵と云ふ。〉

注記

金閼智

 本書第一巻脱解王紀に登場。

鶏林

 本書第一巻脱解王紀に登場。現在の韓国における慶州国立公園にある小さな森。慶州金氏発祥の地として、後に新羅、そして朝鮮王朝の別称として用いられることになる。

金勢漢、金阿道、金首留、金郁甫

 他の記述がなく、よくわからない。

金仇道

 4代前の伐休王紀に臣下として登場する。

金城

 新羅の首都。現在の慶尚北道慶州市。

伊飡

 骨品制における第二位。

烽山城

 現在の韓国慶尚北道栄州市に比定される。

一吉飡

 骨品制における第七位であり、六頭品。

「おおよそ農事を害する者があれば、一切それを除くべし。」

 原文は「凡有害農事者、一切除之」とあるが、ここでの「害農事者」が人を指すのか、動物や事象について指したものなのかはよくわからない。

槐谷城

 現在の韓国忠清北道槐山郡に比定される。

沙飡

 骨品制における第八位であり、六頭品。

大閱 デモンストレーション

 大規模な閱兵。閱兵は婆娑王紀の※12を参照。

竹長陵

 現在の韓国慶尚北道にある大陵苑(天馬塚)に存在する古墳群のひとつ。竹長陵という名称は、次代の儒礼王の代以降に名付けられたとされる。

底本

三國史記 - 维基文库,自由的图书馆