三国史記 沾解王紀

沾解尼師今

現代語訳

 沾解尼師今が立った。助賁王の同母弟である。


漢文

 沾解尼師今立、助賁王同母弟也。

書き下し文

 沾解尼師今立つ。助賁の きみ の母を同じうする弟なり。

元年

現代語訳

 元年(247年)秋七月、始祖廟に謁す。父の骨正を世神葛文王に封じた。

 本件について論じよう。漢宣帝が即位したとき、有司が奏言した。「人の後継者となる者は、その者の息子となることです。だから自ら父母を降し、祭ってはならず、祖先の義を尊ぶのです。」こうして帝を生んだ父は親族と称され、 おくりな は『悼』、母を『悼后』とし、諸侯王に比された。これぞ普遍の正義に合致し、万世の法である。だから後漢の光武帝も宋の英宗も、これに則っておこなったのだ。新羅は王の親族から偉大なる王統の きみ を継承し、その父を王と称して封じ、崇めないことはなかったし、特別なのはこればかりではなく、その外舅にまで封じられる者もあった。これは非礼である。もちろん法としてはならぬことである。

漢文

 元年、秋七月、謁始祖廟。封父骨正爲世神葛文王。

 論曰、漢宣帝卽位、有司奏、爲人後者爲之子也。故降其父母不得祭、尊祖之義也。是以帝所生父稱親、諡曰悼、母曰悼后、比諸侯王。此合經義、 爲萬世法。故後漢光武帝、宋英宗、法而行之。新羅自王親入繼大統之君、無不封崇其父稱王、非特如此而已、封其外舅者亦有之。此、非禮。固不可以爲法也。

書き下し文

 元年、秋七月、始祖 はぢめおや みたまや まみ ゆ。父の骨正に さづ けて世神葛文王と爲す。

 論じて曰く、漢の宣帝の くらひ かば、有司 つかさ たてまつ るに、人の しりへ と爲る者は、之れの むすこ と爲るなり。故に其の父母 ちちはは を降して祭るを得ず、 おや よろ しきを尊ぶなり。是れ以ちて みかど の生む所の父は親と ひ、 おくりな は悼と曰ひ、母が悼后と曰ひ、諸侯王 もろきみ に比す。此れ經義 のり に合ひ、 萬世 よろづよ のり らむ。故に後漢の光武帝、宋英宗は、 のりと りて之れを行ひたり。新羅 しらき きみ うから 大統 おほしらす きみ に入り繼がば、 さづ けて其の父を崇めて きみ ばざること無く、 とりは けにすること此の如くのみに非ず、其の外舅 しうと さづ くる者も亦た之れ有らむ。此れ禮に非ず。固より以ちて法と爲す可からざるなり。

二年

現代語訳

 二年(248年)春正月、伊飡の長萱を舒弗邯とし、国政に参与させた。
 二月、使者を高句麗に遣わせて和睦を結んだ。


漢文

 二年、春正月、以伊飡長萱爲舒弗邯、以參國政。二月、遣使高句麗結和。

書き下し文

 二年、春正月、以ちて伊飡の長萱を舒弗邯爲たらしめ、以ちて國政 まつりごと に參らしむ。  二月、使 つかひ を高句麗に遣はして なぎ を結びたり。

三年

現代語訳

 三年(249年)夏四月、倭人が舒弗邯の于老を殺した。
 秋七月、南堂を宮の南に作り〈南堂は、あるいは都堂とも伝わる。〉、良夫を伊飡とした。


漢文

 三年、夏四月、倭人殺舒弗邯于老。秋七月、作南堂於宮南、〈南堂或云都堂。〉以良夫爲伊飡。

書き下し文

 三年、夏四月、倭の人は舒弗邯の于老を殺す。
 秋七月、南堂を宮の南に於いて作り、〈南堂は或いは都堂と云ふ。〉以ちて良夫を伊飡 らしむ。

五年

現代語訳

 五年(251年)春正月、聴政を南堂で始めた。漢祇部の人の夫道という者は、 家が貧しいのに諂うことがなく、工芸、読み書き、算術をして、当代に名を明らかにしていた。王は彼を して阿飡とし、物蔵庫の仕事を委任した。


漢文

 五年、春正月、始聽政於南堂。漢祇部人夫道者、 家貧無諂。工書算、著名於時。王徵之爲阿飡、委以物藏庫事務。

書き下し文

 五年、春正月、始めて まつりごと を聽くを南堂に於いてす。漢祇部の人の夫道なる者、 家は貧しくも諂ふこと無し。 たくみ かきもの かぞへ をし、名を時に於いて あきら む。王は之れを して阿飡 らしめ、委ゆるに物藏庫 くらのつかさ の事の務めを以ちてす。

七年

現代語訳

 七年(253年)夏四月、龍が宮の東の池に現れた。金城の南の倒れていた柳が自ら起きた。
 五月から七月まで雨が降らなかった。始祖廟と名山に祭祀と祈祷をすると、雨が降った。この年は飢饉となり、盗賊が多くあらわれた。


漢文

 七年、夏四月、龍見宮東池。金城南臥柳自起。自五月至七月不雨、禱祀始祖廟及名山、乃雨。年饑、多盜賊。

書き下し文

 七年、夏四月、龍は宮の東の池に見る。金城の南の臥したる柳は自ら起く。五月 り七月に至るまで あめふ らず、始祖 はぢめおや みたまや 及び名山に禱祀 いの らば、乃ち あめふ る。年に饑へ、盜賊 ぬすひと を多くす。

九年

現代語訳

 九年(255年)秋九月、百済が侵しに来た。一伐飡の翊宗が槐谷の西で抗戦したが、賊に殺されてしまった。
 冬十月、百済が烽山城を攻めたが下せなかった。


漢文

 九年、秋九月、百濟來侵。一伐飡翊宗、逆戰於槐谷西、爲賊所殺。冬十月、百濟攻烽山城、不下。

書き下し文

 九年、秋九月、百濟 くたら は侵しき來たり。一伐飡の翊宗は、槐谷の西に於いて さかしま に戰ふも、 あた に殺さるる所と爲る。  冬十月、百濟 くたら は烽山城を攻むるも、下らず。

十年

現代語訳

 十年(256年)春三月、国の東の海から大きな魚が三匹出てきた。体長は三丈(約9m)、体高は二尺(60cm)あった。
 冬十月 みそか 、日食があった。


漢文

 十年、春三月、國東海出大魚三、長三丈、高丈有二尺。冬十月晦、日有食之。

書き下し文

 十年、春三月、國の東の海は大魚 おほうを みつ を出づ。 みのたけ 三丈 みたけ 高丈 たかだけ 二尺 ふたさし 有り。
 冬十月 みそか 、日の之れを食むこと有り。

十三年

現代語訳

 十三年(259年)秋七月、旱魃が起こり、蝗が発生した。収穫は荒れ、盗みが多くあった。


漢文

 十三年、秋七月、旱、蝗。年荒、多盜。

書き下し文

 十三年、秋七月、 ひでり いなご あり。 みのり は荒れ、 ぬすひと を多くす。

十四年

現代語訳

 十四年(260年)夏、大雨が降った。山崩れは四十箇所あまり。
 秋七月、ほうき星が東方に現れ、二十五日で消滅した。


漢文

 十四年、夏、大雨。山崩四十餘所。秋七月、星孛于東方、二十五日而滅。

書き下し文

 十四年、夏、大いに あめふ る。山の崩るること四十餘所 よそあまり
 秋七月、星孛 ほうきほし は東の ところ に于いてし、二十五日にして ゆ。

十五年

現代語訳

 十五年(261年)春二月、達伐城を築き、奈麻の克宗を城主とした。
 三月、百済が使者を遣わせて和睦を要請したが、許可しなかった。
 冬十二月二十八日、突然の疾病によって王が薨去した。


漢文

 十五年、春二月、築達伐城、以奈麻克宗爲城主。三月、百濟遣使請和、不許。冬十二月二十八日、王暴疾、薨。

書き下し文

 十五年、春二月、達伐城を築き、以ちて奈麻克宗を城の あるぢ らしむ。
 三月、百濟 くたら 使 つかひ を遣はして にき を請ふも、許さじ。
 冬十二月二十八日、 きみ には かの やまひ あり、 みまか れり。

注記

漢宣帝が即位したとき、有司が奏言した。以下……

 漢書武五子伝からの引用。漢宣帝(紀元前91年~前49年)は前漢(紀元前206年~後8年)の10代皇帝であり7代武帝の曾孫であったが、祖父と父親は武帝の疑心暗鬼によって刑死し、幼児の頃から民間で養育された。ところが、その後の8代、9代皇帝は短命に終わり、しかも後継者がいなくなってしまった。そんな中で抜擢されたのが民間から探し出された漢宣帝である。本文の引用は、こうした背景にあった景帝が即位にあたって、生父生母をいかなる地位に置いて王朝に顕彰するかの意見である。

舒弗邯

 現代韓国語では서불한 ソボルカン 。新羅の骨品制における一等官の伊伐飡の別名とされている(が、訳者は違うと思う)。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場し、宇流 うる は于老、助富利智干 そほりちか 舒弗邯 ソボルカン を指していると思われる。日本書紀の宇流助富利智干 うるそほりちか は新羅王とされている。また、新羅初代王の朴赫居世を拾ったおじいさんの蘇伐公の「蘇伐』は朝鮮語で소벌 ソボル であることから「ソボルの公(首長)」ではないかと申采浩は考察しており、新羅では古くから地方の首長官を カン ということから、舒弗邯 ソボルカン は「新羅の古都である蘇伐 ソボル の首長」という意味があるのではないかと推測できると思う。

聴政

 王が臣下から意見を聴取しながらの政治。王朝の開催議会。

漢祇部

 本書第一巻朴赫居世紀に登場する辰韓六部のひとつ「加利村」から同巻儒理王紀において漢祇部に発展したと記される。現在の韓国慶州道慶州市川北面東川里あるいは内東面普門里、または川北面西部から見谷面のあたりとされている。

名山

 宗教祭祀の対象となる山のこと。ここでの名山が具体的にどこを指しているのかは不明。中国の漢籍においては、泰山や崋山などが名山と呼ばれる。古来から洋の東西を問わず、山は宗教的な崇拝の対象であった。高い山というのは、天に近い存在だからである。たとえば古代メソポタミア地域では、『バアル』あるいは『バアル・ゼブル』と呼ばれる神が最高神として崇拝されていたが、これは『高い山の上の存在』『高い山の上の王』という含意がある。また、日本においても日本最古とされる神社のひとつ『大神神社(おおみわじんじゃ)』は、三輪山(みわやま)という山にあり、古事記によれば山の上に祀られることを求めた神に応じて創建されたものである。また、書経において最初の帝王とされる堯(紀元前2324年~前2255年)の臣下には『四岳』と呼ばれる四人の臣下が登場する。これは四つの大きな山に祀られた神を暗示し、帝王の名である堯という字は、「高い」という意味を有する。こうした点から、バアルと同様の山の守護神としての帝王という信仰が太古の中国にも存在していたことが想像させられる。

槐谷

 現在の韓国忠清北道槐山郡に比定される。

烽山城

 現在の韓国慶尚北道栄州市に比定される。

達伐城

 現在の韓国大邱広域市に比定される。

奈麻

 新羅の骨品制における五頭品。公服は青。

底本

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