三国史記 大武神王紀

大武神王

現代語訳

 大武神王が立った。〈あるいは大解朱留王と伝わる。〉諱は無恤、琉璃王の第三子である。生まれながらにして聡慧、壮年には雄邁なること他になく、大いなる知略を有していた。琉璃王の在位三十三年の甲戌 きのえいぬ に太子に立てられ、この時の年齢は十一歳、ここに至って即位した。母は松氏、多勿国王の松譲の娘である。


漢文

 大武神王立。〈或云大解朱留王。〉諱無恤、琉璃王第三子。生而聰慧、壯而雄傑、有大略。琉璃王在位三十三年甲戌、立爲太子、時年十一歳。至是即位。母、松氏、多勿國王松讓女也。

書き下し文

 大武の神王 かむぎみ 立つ。〈或は大解朱留王と云ふ。〉 いみな は無恤、琉璃王の第三子 みつご なり。生まれながらにして聰慧 さとし たけ にして たけ しきこと ほかになし 、大いなる はかりごと つ。琉璃王の位に在ますること三十三年 みそあまりみつとし 甲戌 きのえいぬ 、立てて太子 みこ と爲し、時に よはひ 十一歳 とあまりひとつ 。是に至りて位に きたり。母は松 うぢ 、多勿の國王 くにぎみ の松讓の むすめ なり。

二年

現代語訳

 二年(19年)春正月、京都 みやこ で震があった。大赦した。百済の民の一千戸余りが投降に来た。


漢文

 二年、春正月、京都震。大赦。百濟民一千餘戸來投。

書き下し文

 二年、春正月、京都 みやこ なゐ あり。大いに赦す。百濟 くだら の民の一千餘 ひとちあまり くだ りに來たり。

三年

現代語訳

 三年(20年)春三月、東明王の廟を立てた。
 秋九月、王が骨句川で狩猟をして神馬を手に入れ、駏䮫と名付けた。
 冬十月、扶餘王の帯素は使者を派遣し、ひとつの頭にしてふたつが身体の赤い烏を送った。初め、この烏を手に入れた扶餘人がそれを王に献上すると、ある人が、「烏は黒でしたが、現在は赤く変わっています。それにひとつの頭にふたつの身体なのは、二つの国を併合することの きざし でございます。王よ、高句麗を兼併されよ。」と言うと、帯素は喜んでそれを送り、ある人の言葉を併せて告げた。王は群臣と合議して返答した。
「黒とは北方の色で、現在は南方の色に変わっております。しかも赤い烏は瑞物でございますが、君はそれを手に入れながらも所有せず、そのまま我が国に送られました。両国の存亡はわかったものではありませんな。」
 それを聞いた帯素は、驚きながら悔やんだ。


漢文

 三年、春三月、立東明王廟。秋九月、王田骨句川、得神馬。名駏䮫。冬十月、扶餘王帶素遣使送赤烏、一頭二身。初、扶餘人得此烏獻之王、或曰、烏者黑也、今變而為赤、又一頭二身、幷二國之徵也、王其兼高句麗乎。帶素喜送之、兼示或者之言。王與群臣議答曰、黑者、北方之色、今變而為南方之色、又赤烏瑞物也、君得而不有之、以送於我、兩國存亡、未可知也。帶素聞之、驚悔。

書き下し文

 三年、春三月、東明の きみ みたまや を立つる。
 秋九月、 おほきみ は骨句川に り、神馬 かむうま を得、駏䮫と名づく。
 冬十月、扶餘の きみ の帶素は使 つかひ を遣りて赤き烏の ひとつ かしら にして ふたつ からだ なるを送りたり。初め、扶餘の人の此の烏を得て之れを おほきみ たてまつ れば あるひと は曰く、烏なる者の黑なるや、今は變はりて赤と り、又た ひとつ かしら にして ふたつ からだ なるは、二つの國を あは せたるの きざし なり。 おほきみ 其れ高句麗を兼ねむか、と。帶素は喜びて之れを送り、兼ねて或者 あるもの ことば を示す。 おほきみ 群臣 もろをみ とも はか りて答へて曰く、黑なる者は、北方 きたかた の色、今は變はりて南方 みなかた の色と為り、又た赤き烏は瑞物 みづもの なるも、 きみ は得てして之れを たず、以ちて我に送りたり。 ふた つの國の存亡 あるなし 、未だ知る可からずなり、と。帶素は之れを聞き、驚きて悔やみたり。

四年

現代語訳

 四年(21年)冬十二月、王は軍隊を出撃して扶餘を討伐しようとし、沸流水のほとりに次ぎ、水涯 みぎわ を望み見ると、鼎を担いで游戯している女がいるように見えた。そちらに近づいてみると、鼎だけが置かれていた。それを用いて(飯を)炊くと、火を待たずして自ずから熱され、それによって食事を作ることができ、悠に一軍 ひといくさ を超えるほどである。突然、一人の勇壮な男が現れて言った。
「この鼎は我が家の物だったのですが、それを我が妹が失くしていたのです。王が今これを見つけられましたので、背負って従軍したく思います。」
 こうして姓に負鼎氏を賜った。

 理勿林に行き着き、一晩泊まると、夜に金属音が聞こえてきた。明かりに向かって、人を使わせてそちらを調べてみると、金璽と兵物等が見つかったので、「天が賜られたのだ。」と言って拝み、それを受け取った。

 道の途上に、身長九尺あまりにして、白い顔をして目の光る人物がいて、王を拝して言った。
わたし は北溟人の怪由という者です。ひそかに大王が北扶餘を討伐されると聞きました。どうか わたし に随行させて扶餘王の頭と取らせてください。」
 喜んだ王は、これを許した。

 またしても人が現れて言った。
わたし は赤谷人の麻盧でおじゃる。どうか長矛で道案内をさせてくだされ。」
 またも王は、これを許した。


漢文

 四年、冬十二月、王出師、伐扶餘、次沸流水上、望見水涯、若有女人、舁鼎游戯。就見之、只有鼎。使之炊、不待火自熱、因得作食、飽一軍。忽有一壯夫曰、是鼎吾家物也、我妹失之、王今得之、請負以從。遂賜姓負鼎氏。抵理勿林宿、夜聞金聲。向明、使人尋之、得金璽兵物等、曰、天賜也。拜受之。上道有一人、身長九尺許、面白而目有光。拜王曰、臣是北溟人怪由。竊聞大王北伐扶餘、臣請從行、取扶餘王頭。王悅許之。又有人曰、臣赤谷人麻盧、請以長矛為導。王又許之。

書き下し文

 四年、冬十二月、王は いくさ をこ して扶餘を伐ち、沸流の かは ほとり に次ぎ、水涯 みぎは を望み見れば、女人 をみな 有りて かなえ かつ ぎて游戯 あそ ぶが ごと し。就きて之れを見れば、只だ かなえ 有るのみ。之れを使いて炊かば、火を待たずして自づから熱く、因りて いひ を作るを得、一軍 ひといくさ を飽くる。 たちま ひとり 壯夫 ますらを 有りて曰く、是の鼎は吾が家の物なるも、我が妹は之れを失ひたり。 おほきみ は今之れを得、負ひて以ちて從はむことを請ひたり、と。遂に かばね に負鼎 うぢ を賜ふ。理勿林に たりて宿れば、夜に金の こへ を聞けり。 あかり に向かひ、人を使 つか はして之れを尋ぬれば、金の しるし 兵物 つはもの 等を得、曰く、天の賜るなり、と。拜みて之れを受く。道を のぼ らば一人有り、身長 みのたけ 九尺許 あまり 、面は白くして目に光有り。 おほきみ を拜して曰く、 われ は是れ北溟の人の怪由なり。 ひそ かに大王 おほきみ の北に扶餘を伐ちたるを聞く。請ふ、 われ は從ひ行き、扶餘の きみ の頭を取らむことを、と。 おほきみ よろこ びて之れを許す。又た人有りて曰く、 われ は赤谷の人の麻盧、請ふ、長矛 ながほこ を以ちて しるべ と為らむことを、と。 おほきみ は又たしても之れを許す。

五年

現代語訳

 五年(22年)春二月、王は扶餘国の南に軍を進めた。その地は泥塗 ぬかるみ が多く、王は平地を選ばせて軍営を立て、鞍をほどいて兵卒を休ませたので、恐れおののくような態度はまったくなかった。扶餘王は国を挙げて戦に出た。自らの不備を隠そうとして、馬に鞭を打って前進したが、泥濘に嵌って進むことも退くこともできなくなった。王はそこで怪由に指揮し、怪由が劍を抜いて咆哮を上げ、そちらを擊ってかかると、一万の軍勢も勢いを恐れて壊走し、戦線を支えることができなくなった。まっすぐに進んで扶餘王を捉え、首を斬り飛ばした。扶餘人は自らの王を失ってしまったことで、鋭気は挫かれたが、それでもまだ自ら屈することなく、(我が国の軍を)何重にも包囲した。王は食糧を士に尽くして餓え、憂慮と恐懼でどうすることもできなかった。そこで御霊を天に乞うと、すぐさま大いに霧が起こり、僅かな距離でも人と物とが弁別できなくなること七日、王は草の偶人 でく を作らせて、兵士のように軍営の内外に立て、疑兵とした。その間に道に軍を潜ませて、夜になってから脱出した。骨句川で神馬を、沸流の源で大鼎を失い、利勿林までたどり着いたが、兵は飢えて起き上がることができず、野の獣を取ることで食事を給った。

 王は国にたどり着いた後、すぐに群臣を会して酒盛りをし、最後に言った。
わたし は不徳によって、軽々しくも扶餘を討伐した。その王を殺したとはいえ、まだその国を滅ぼしておらず、しかも多くの我の国の軍資を失ったのは、 わたし 一人の過ちである。」
 こうして みずか ら死者にお悔やみを述べ、傷疾者を慰問することで、百姓を存慰した。これによって国の人は王の徳義に感じ入り、皆が自身が国のために死んでもよいと思った。

 三月、神馬の駏䮫が扶餘の馬の百匹を引き連れ、ともに鶴盤嶺の ふもと の車廻谷までたどり着いた。
 夏四月、扶餘王の帯素の弟は、曷思水の浜辺にたどり着き、国を立て王を称した。彼こそが扶餘王の金蛙の末子であったが、歴史にその名は失われている。初め、帯素が殺され、国が滅亡しようとしていると知り、従者百人あまりと鴨渌の谷までたどり着き、海頭王が狩猟に出ているのを見計らい、そこで彼を殺し、その百姓を取り上げた。ここに至って都を新たに興し、これを曷思王という。
 秋七月、扶餘王の従弟は国の人に言った。
「我が国は先王の身も国も滅亡し、民は頼るところがない。王弟は逃げ出し、曷思に都を興し、私も不肖であるから、(国を)復興することはできぬ。」
 こうして一万人あまりと共に投降しに来た。(高句麗)王は(扶余)王を封じ、掾那部に安堵した。その背中に絡文 いれずみ があることから、姓に絡氏を賜わった。
 冬十月、怪由が卒去した。初め、疾病に危篤となり、王は みずか ら臨んで存問した。怪由は言った。「 わたし は北溟の賤しい身分の者でしたが、幾度となく厚恩を蒙りました。死してなお生き、報いを忘れようとは致しません。」その言葉を王は善しとし、また、大いなる功績があることから、北溟の山の陽に葬り、有司に命じて時ごとに彼を祀らせた。


漢文

 五年、春二月、王進軍於扶餘國南、其地多泥塗、王使擇平地為營、解鞍休卒、無恐懼之態。扶餘王擧國出戰。欲掩其不備、策馬以前、陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼擊之、萬軍披靡、不能支。直進執扶餘王、斬頭。扶餘人、旣失其王、氣折、而猶不自屈、圍數重。王以糧盡士饑、憂懼不知所為。乃乞靈於天、忽大霧咫尺不辨人物七日。王令作草偶人、執兵立營內外、為疑兵。從間道潛軍夜出。失骨句川神馬、沸流源大鼎。至利勿林、兵飢不興、得野獸以給食。王旣至國、乃會群臣飲至曰、孤以不德、輕伐扶餘。雖殺其王、未滅其國、而又多失我軍資、此孤之過也。遂親吊死問疾、以存慰百姓。是以國人感王德義、皆許殺身於國事矣。三月、神馬駏䮫將扶餘馬百匹、俱至鶴盤嶺下車廻谷。夏四月、扶餘王帶素弟、至曷思水濱、立國稱王、是扶餘王金蛙季子、史失其名。初、帶素之見殺也、知國之將亡、與從者百餘人、至鴨渌谷、見海頭王出獵、遂殺之、取其百姓、至此始都、是為曷思王。秋七月、扶餘王從弟、謂國人曰、我先王身亡國滅、民無所依、王弟逃竄、都於曷思、吾亦不肖、無以興復。乃與萬餘人來投。王封為王、安置掾那部。以其背有絡文、賜姓絡氏。冬十月、怪由卒。初疾革、王親臨存問。怪由言、臣北溟微賤之人、屢蒙厚恩。雖死猶生、不敢忘報。王善其言、又以有大功勞、葬於北溟山陽、命有司以時祀之。

書き下し文

 五年、春二月、 おほきみ いくさ を扶餘の國の南に進ませしむ。其の つち 泥塗 ぬかるみ 多く、 おほきみ 平地 ひらつち えら ばせ使 めて いほり と為し、鞍を解きて いくさひと を休ませしめ、恐懼 おそれ すがた を無からせしむ。扶餘の きみ は國を擧げて いくさ に出づ。其の不備 そなへなし かく さむと おも はば、馬を むちう ちて以ちて すす まば、 ぬかるみ ちて進むも退くも能はじ。 おほきみ は是に於いて怪由に す。怪由は つるぎ を拔きて號吼 をたけび して之れを擊たむとすれば、 よろづ いくさ あば なび き、支うること能はじ。 まつすぐ に進みて扶餘の おほきみ とら へ、 かしら を斬らむ。扶餘の人は旣に其の きみ を失ひ、氣は折れ、而れども猶ほ自ら屈むことなく、數重 いくえ に圍みたり。 おほきみ は糧を以ちて士に盡くせしめて饑え、憂ひ懼れて為す所を知らず。乃ち みたま を天に乞はば、忽ち大いに霧し、咫尺 わづか なれども人物 ひともの くるなきこと七日 なのか おほきみ は草の偶人 でく を作ら むめ、 いくさひと を執りて いほり 內外 うちそと に立て、疑兵 いくさひとのもどき と為す。間の道 いくさ を潛ませしめて夜に出づ。骨句の かは に神馬、沸流の源に大鼎を失ひ。利勿林に至らば、 いくさひと は飢えて興らず、野の けもの を得るを以ちて いひ を給ふ。 おほきみ の旣に國に至らば、乃ち群臣 もろをみ を會はせて飲み、 すゑ に曰く、 われ は不德を以ちて、 かるがる しくも扶餘を伐つ。其の きみ あや むと雖も、未だ其の國を滅ぼさず、 すなは ち又た多く我の軍資 いくさのたから を失ふは、此れ孤の過ちなり、と。遂に みづか ら死を とむら やまひ を問ひ、以ちて よろづ かばね たづ ね慰む。是れ以ちて國の人は おほきみ の德義に感じ、皆が からだ を國の事に殺すを許さむとせり。
 三月、神馬の駏䮫は扶餘の馬の百匹 ももたり ひき い、 とも に鶴盤の みね ふもと の車廻の谷に至る。
 夏四月、扶餘の きみ の帶素の弟は、曷思の かは の濱に至り、國を立て きみ よば ひ、是れ扶餘の きみ の金蛙の季子 すゑご なるも、 ふみ は其の名を失ふ。初め、帶素の殺さるるや、國の將に亡ばむとするを知り、從者 おとも 百餘人 ももたりあまり とも に鴨渌の谷に至り、海頭の きみ かり に出ずるを見、遂に之れを殺し、其の百姓 たみ を取り、此に至りて都を始め、是れ曷思の きみ と為す。
 秋七月、扶餘の きみ 從弟 いとこ は國の人に謂ひて曰く、我は先王 さきつきみ の身は亡び國も滅び、民は依る所無し、 きみ の弟は逃竄 げ、曷思に みやこ し、吾も亦た不肖 おろか 、以ちて興復 またおこす 無し。乃ち萬餘人 よろづたりあまり と與に くだ りに來たり。 きみ さづ けて きみ と為し、掾那部に安置く。其の背に絡文 いれずみ 有るを以ちて、 かばね に絡 うぢ を賜ふ。
 冬十月、怪由 す。初め やまひ あらた まり、 おほきみ みづか ら臨みて存問 たづ ぬ。怪由の まを したるは、 われ は北溟の微賤 いやしき の人なるも、 しばしば 厚き恩を蒙りたり。死すると雖も猶ほ生き、敢えて報いを忘るるなし、と。 きみ は其の ことば みし、又た大いなる功勞 いさを 有るを以ちて、北溟の山の陽に葬り、有司 つかさ みことのり して時を以ちて之れを まつ りたり。

八年

現代語訳

 八年(25年)春二月、拝して乙豆智を右輔とし、軍事と国事を委任した。


漢文

 八年、春二月、拜乙豆智、為右輔、委以軍國之事。

書き下し文

 八年、春二月、拜みて乙豆智を右輔 らしめ、委ぬるに いくさ と國の事を以ちてす。

九年

現代語訳

 九年(26年)冬十月、王は みずか ら蓋馬国を征し、その王を殺したが、百姓を慰安し、虜獲と掠奪を禁じ、その地を郡縣とするだけであった。
 十二月、句茶国王は蓋馬国が滅ぼされたと聞き、己に害が及ぶことに恐懼すると、国を挙げて降伏しに来た。これによって拓地は徐々に広がった。


漢文

 九年、冬十月、王親征蓋馬國、殺其王、慰安百姓、毋禁虜掠、但以其地為郡縣。十二月、句茶國王、聞蓋馬滅、懼害及己、擧國來降。由是拓地浸廣。

書き下し文

 九年、冬十月、 おほきみ みづか ら蓋馬國を ち、其の きみ あや め、 よろづ かばね 慰安 なぐさ み、 とりこ ぬすみ 毋〈禁〉 からしめ、但だ其の つち を以ちて郡縣 こほりとあがた と為すのみ。
 十二月、句茶の國王 くにぎみ は蓋馬の滅ぶを聞き、害の己に及ぶを おそ れ、國を擧げて降りに來たり。是れに由りて地を拓くこと やうや ひろ し。

十年

現代語訳

 十年(27年)春正月、拝して乙豆智を左輔とし、松屋句を右輔とした。


漢文

 十年、春正月、拜乙豆智、為左輔、松屋句為右輔。

書き下し文

 十年、春正月、拜みて乙豆智を左輔 らしめ、松屋句を右輔 らしむ。

十一年

現代語訳

 十一年(28年)秋七月、漢の遼東の太守の将兵が討伐に来た。王は群臣と会し、戦守の計を問うた。右輔の松屋句は言った。
わたし は『徳に恃む者は繁栄し、力に恃む者は滅亡する』と聞いております。今の中国は荒廃し、盗賊が蜂のように起こり、出兵には名分がありません。これは君臣によって定めた策ではないでしょう。国境付近の将が利得を図り、ほしいがままに我が国を侵略しているに違いありません。天に逆らい人に違う軍隊には戦功はあり得ません。険難の地に寄りかかって奇襲に出れば、あちらを破るのは必然となりましょう。」
 左輔の乙豆智は言った。
「小敵が強く出たところで、大敵の餌食となるだけです。 わたし が大王の兵を量ってみたところ、どうやって漢兵の多さに敵うつもりでしょうか。謀略によって討伐すべきです。力によっての勝利はありませんぞ。」
 王が「謀略によって伐つとはどういうことか。」と言うと、答えて言った。
「今の漢兵は遠征してきているのですから、その先鋒に当たってはなりません。大王は城を閉ざして自陣を固め、その軍隊が衰えるのを待ってから、あちらに出撃するのがよろしいでしょう。」
 王はそちらに同意し、尉那厳城に入って守りを固めること数十日、漢兵は包囲を解かなかった。王は力尽き、兵の疲弊をもって乙豆智に言った。
「このざまでは守り切ることはできぬ。どうすればいいだろうか。」
 乙豆智は言った。
「漢人は、我が国は岩がちの地勢であり、水源がないと考えているでしょう。だから長らく包囲することで、我が国の人の困窮を待っているのです。どうか池の中の鯉を取り、氷と水草で包んでから、旨い酒をいくらか一緒に持って行き、漢軍をもてなすとよいでしょう。」
 王はそれに従い、文書を伝え残した。
寡人 わたし は愚昧にして罪を上国から獲、将軍と統帥される百万の軍勢に、つまらぬ地の果ての露天に晒してしまいました。厚くご親切を致そうにもすることはできませんが、つまらぬものを持たせ、左右の者からお供えさせましょう。」
 こうして漢の将は(城の内側に水があるのか……。すぐに陥落させることはできぬ。)と思い、そこで「我が皇帝は わたし を愚鈍とはされず、軍隊を出して、大王の罪を問うように いいつけ を下された。国境にたどり着いて十日を えたが、いまだに要領を得ない。今回来られた旨を聞いてみると、言葉は従順であり、しかも恭順で、言い訳もしなかった。そのままを皇帝に報告しよう。」と返報し、そのまま引き上げて撤退した。


漢文

 十一年、秋七月、漢遼東太守將兵來伐。王會群臣、問戰守之計。右輔松屋句曰、臣聞恃德者昌、恃力者亡。今中國荒儉、盜賊蜂起、而兵出無名、此非君臣定策、必是邊將規利、擅侵吾邦。逆天違人、師必無功、憑險出奇、破之必矣。左輔乙豆智曰、小敵之强、大敵之禽也。臣度大王之兵、孰與漢兵之多、可以謀伐、不可力勝。王曰、謀伐若何。對曰、今漢兵遠鬪、其鋒不可當也。大王閉城自固、待其師老、出而擊之、可也。王然之、入尉那巖城、固守數旬、漢兵圍不解。王以力盡兵疲、謂豆智曰、勢不能守、為之奈何。豆智曰、漢人謂我巖石之地、無水泉、是以長圍、以待吾人之困。宜取池中鯉魚、包以氷水草、兼旨酒若干、致犒漢軍。王從之、貽書曰、寡人愚昧、獲罪於上國、致令將軍帥百萬之軍、暴露弊境。無以將厚意、輒用薄物、致供於左右。於是、漢將謂城內有水、不可猝拔。乃報曰、我皇帝不以臣駑、下令出師、問大王之罪。及境踰旬、未得要領、今聞來旨、言順且恭、敢不藉口。以報皇帝。遂引退。

書き下し文

 十一年、秋七月、漢の遼東の太守の將兵 もののふ は伐ちに來たり。 おほきみ 群臣 もろをみ を會はせ、戰守 いくさ はかり を問ふ。右輔の松屋句曰く、 われ は聞けり、德に恃む者は さか え、力に恃む者は亡ぶ、と。今の中國は荒儉 あれはて 盜賊 あた はちのごとく 起こり、而りて兵の出づるも名無し、此れ君臣 きみをみ の定むる はかりごと に非ず、必ずや是れ くにへ かしら の利を はか り、 ほしいまま に吾が邦を侵さむとせむ。天に逆らひ人に違ふ いくさ は必ず いさを 無し、險しきに憑きて奇を出ださば、之れ破ること必ならむ、と。左輔の乙豆智曰く、小敵 をあた の强きは大敵 おあた とりこ なり。 われ 大王 おほきみ つはもの はか るに、孰か漢兵 からのいくさ の多きに かな はむ。謀を以ちて伐つ可し、力に勝つ可からず、と。 おほきみ 曰く、謀りて伐つは若何 いかむ 、と。對へて曰く、今の漢兵 からのいくさ は遠くに たたか ひ、其の さき は當たる可からざるなり。大王 おほきみ は城を閉ざして自らを固くし、其の いくさ おとろ ゆるを待ち、出でて之れを擊つは、 よろ しきなり、と。 きみ は之れを然りとし、尉那巖城に入り、守りを固むること數旬 いくとほか 漢兵 からのいくさ は圍みて解かず。 おほきみ は力の盡きて いくさひと の疲るるを以ちて、豆智に謂ひて曰く、 さま は守るに能はじ、之れを奈何 いかむ と為すか、と。豆智曰く、漢人 からひと おもへ らく、我は巖石 いはほ つち にして水泉 いずみ 無し、と。是れ以ちて長く圍み、以ちて吾が人の ゆるを待つ。宜しく池の中の鯉魚を取り、包むに こをり 水草 みずくさ を以ちてし、旨き酒の若干 いくらか を兼ね、漢軍 からのいくさ ねぎら ひて致すべし、と。 おほきみ は之れに從ひ、 ふみ つたゑのこ して曰く、寡人 われ 愚昧 おろか にして罪を上國 かみつくに に獲、將軍 いくさのかしら ぶる百萬 ももよろづ いくさ をして、 しき くに 暴露 さら させ むるに いた す。以ちて將に厚き こころ をせむとすること無かれども、 すなは 薄物 つまらぬもの を用ちて、左右 すけ そなえ を致さむ、と。是に於いて、漢の かしら おもへ らく、城の內に水有り、猝かに拔く可からず、と。乃ち報ひて曰く、我が皇帝 みかど われ を以ちて にぶ きとせず、 いひつけ を下して いくさ をこ せしめ、大王 おほきみ の罪を問ふ。 くに に及びて とほか ゆるも、未だ要領 かなめ を得ず、今は來たるの旨を聞き、 ことば すなお 且つ うやうや し、敢えて藉口 いひわけ せず。以ちて皇帝 みかど に報せたらむ、と。遂に引き退きたり。

十三年

現代語訳

 十三年(30年)秋七月、買溝谷人の尚須が、その弟の尉須や堂弟の于刀等とともに投降しに来た。


漢文

 十三年、秋七月、買溝谷人尚須、與其弟尉須及堂弟于刀等來投。

書き下し文

 十三年、秋七月、買溝谷の人の尚須、其の弟の尉須及び堂弟の于刀等と とも くだ りに來きたり。

十四年

現代語訳

 十四年(31年)冬十一月、雷が起こった。雪は降らなかった。


漢文

 十四年、冬十一月、有雷。無雪。

書き下し文

 十四年、冬十一月、雷有り。雪無し。

十五年

現代語訳

 十五年(32年)春三月、大臣の仇都、逸苟、焚求等の三人を罷免して庶人とした。この三人は、沸流部の長であったが、自らの利益ばかりに卑しい者たちに出資し、人の妻妾や牛馬、財貨を奪い、その欲望をほしいままにし、与しない者がいれば、すぐさまそれらを鞭で打ち、人は皆が怒りと怨みを心に懐いた。それを聞いた王は、彼らを殺そうとしたが、東明の旧臣であったことから極刑を致すのは忍びなく、罷免して追放するだけにとどめた。こうして南部の使者の鄒素を使わせて、代わりの部長とした。鄒素は着任した後、別に大室を作って在居させることで、仇都等の罪人は堂に昇ることが許されなかった。仇都等はその前まで行って告げた。
「我らは小人であるが故に王法を犯してしまいましたが、慙愧の念に堪えません。公よ、どうか過ちを赦し、自ら新たにさせていただけませんか。そうすれば、死んだとしても悔いはございません。」
 鄒素は彼らを引き上げ、共に座って言った。
「人は過ちを犯さないことなどできません。過ちを犯しても改めることができれば、それより大いなる善はないのです。」
 こうして彼らと友となった。恥を感じた仇都等は、二度と悪事を為すことがなかった。それを聞いた王は、「鄒素は威厳によってでなく、智によって悪を懲らしめることができたのだ。有能と言わねばならぬ。」と言って、姓に大室氏を賜った。
 夏四月、王子の好童が沃沮で遊んでいると、楽浪王の崔理が出てきて、そこで彼を見ると、「あなたの顔色をよくよく見れば常人ではない。もしや北の国の神王の子ではないか?」と質問した。こうして一緒に帰り、娘を彼の妻にやった。その後、国に帰った好童は、ひそかに人を遣わせて、崔氏の娘に告げさせた。
「もしお前の国の武器庫に入って、太鼓を割り、角笛を壊すことができたら、私は礼をもって迎え入れてやるが、そうでなければしてやれんぞ。」
 それ以前のこと、楽浪には太鼓と角笛があり、もし敵兵あらば、自ら鳴らしていた。だからそれを壊すように言いつけたのだ。こうして、崔氏の娘は刀を研いで、ひそかに武器庫の中に入り、太鼓の面と角笛の口を壊すことで、好童に報いた。好童は王に楽浪を襲うように勧めた。崔理は太鼓と角笛を用いたが鳴らなかったので、(戦に)備えることができず、我が国の兵は不意を打って城の下までたどり着き、その後になって太鼓と角笛がすべて壊されているのに気付いた。そこで娘を殺し、降伏しに出た。
〈あるいは、楽浪を滅ぼそうと思い、そこで婚姻を要請し、その娘を娶って息子の妻として、その後に本国に帰らせ、その兵物を壊させたとも伝わる。〉
 冬十一月、王子の好童が自殺した。好童は王の次妃の曷思王の孫女から生まれた。顔容は美麗であり、王は非常に彼を愛し、だから好童と名付けられたのだ。元妃は嫡子を奪って太子となるのを恐れ、そこで王に「好童は礼によらず妾を侍らせております。ほとほと乱倫を好んでいるようで……。」と讒言したが、王は「もしや他の子に嫉妬しておるのか?」と言ったので、妃は王が信じていないことに気付き、災禍が及ぼうとしていることを恐れ、そこで涙を流しながら告げた。
「大王よ、どうか密かにお覗いください。もしこれが事実でなければ、 わらわ は自ら罪に服しましょう。」
 こうなっては、大王も疑わないわけにはいかず、彼を罪にかけることにした。ある人が好童に「あなたはどうして自ら釈明しないのですか。」と言うと、「私がもしこのことで釈明すれば、母の悪が明るみとなり、王に憂いを残してしまうだろう。孝と言えようか。」と言い、こうして つるぎ に伏して死んだ。

 本件について論じよう。今回の王は讒言を信じて無辜の愛する我が子を殺した。なんと彼の不仁は道理からかけ離れたものであったことか。それなのに、好童は罪なき罪を得たのはなぜか。というのも、子が自らの父から責められた際には、舜が瞽叟にしたようにせねばならぬ。小杖であれば受けても、大杖であれば避けて逃げ、その折に父を不義に陥れないものだ。好童はその出典を知らず、だから死ぬべきでないところで死んだのだ。小事には謹んでも、大義には蒙昧な手段に出たのだ。この公子は『申生の譬』を思い起こさせるものである。

 十二月、王子の解憂を太子に立てた。使者を遣わせ、漢に入らせて朝貢した。光武帝はその王號を戻した。これが建武の八年のことである。


漢文

 十五年、春三月、黜大臣仇都、逸苟、焚求等三人為庶人。此三人為沸流部長、資貪鄙、奪人妻妾、牛馬、財貨、恣其所欲、有不與者卽鞭之、人皆懷忿怨。王聞之、欲殺之、以東明舊臣、不忍致極法、黜退而已。遂使南部使者鄒素、代爲部長。素旣上任、別作大室以處、以仇都等罪人、不令升堂。仇都等詣前、告曰、吾儕小人、故犯王法、不勝愧悔。願公赦過、以令自新、則死無恨矣。素引上之、共坐曰、人不能無過、過而能改、則善莫大焉。乃與之為友。仇都等感愧、不復為惡。王聞之曰、素不用威嚴、能以智懲惡、可謂能矣。賜姓曰大室氏。夏四月、王子好童、遊於沃沮。樂浪王崔理出行、因見之。問曰、觀君顔色、非常人、豈非北國神王之子乎。遂同歸、以女妻之。後、好童還國潛遣人、告崔氏女曰、若能入而國武庫、割破鼓角、則我以禮迎、不然則否。先是、樂浪有鼓角、若有敵兵、則自鳴、故令破之。於是、崔女將利刀、潛入庫中、割鼓面、角口、以報好童。好童勸王襲樂浪。崔理以鼓角不鳴、不備、我兵掩至城下、然後知鼓角皆破。遂殺女子、出降。〈或云:欲滅樂浪 遂請婚 娶其女 爲子妻 後使歸本國 壞其兵物〉冬十一月、王子好童自殺。好童、王之次妃曷思王孫女所生也。顔容美麗、王甚愛之、故名好童。元妃恐奪嫡為太子、乃讒於王曰、好童不以禮待妾、殆欲亂乎。王曰、若以他兒憎疾乎。妃知王不信、恐禍將及、乃涕泣而告曰、請大王密候、若無此事、妾自伏罪。於是、大王不能不疑、將罪之。或謂好童曰、子何不自釋乎。答曰、我若釋之、是顯母之惡、貽王之憂、可謂孝乎。乃伏劍而死。

 論曰、今王信讒言、殺無辜之愛子、其不仁不足道矣、而好童不得無罪。何則。子之見責於其父也、宜若舜之於瞽叟。小杖則受、大杖則走、期不陷父於不義。好童不知出於此、而死非其所、可謂執於小謹而昧於大義、其公子申生之譬耶。

 十二月、立王子解憂為太子。遣使入漢朝貢。光武帝復其王號、是建武八年也。

書き下し文

 十五年、春三月、大臣の仇都、逸苟、焚求等の三人 みたり しりぞ けて庶人 らしむ。此の三人 みたり は沸流部の をさ と為るも、貪鄙 いやしき あた え、人の妻妾 つま 牛馬 うしうま 財貨 たから を奪ひ、其の欲する所を ほしいまま にし、 くみ せざる者有らば卽ち之れを むちう ち、人は皆が忿 いか りと怨みを懷く。 おほきみ は之れを聞き、之れを殺さむと おも ひたるも、東明の ふる をみ なるを以ちて、極法 きはみののり を致すに忍びず、黜退 しりぞ きたるのみ。遂に南部の使者の鄒素を使 つか ひて、代えて部長と爲す。素は旣に上任 き、別に大室 おほむろ おこ して以ちて り、以ちて仇都等の罪人 つみひと 、堂に升るを ゆる さじ。仇都等は前に いた り、告げて曰く、吾儕 われら 小人 をひと 、故に きみ のり を犯し、愧悔 くゆ えず。願はくば公よ、過ちを赦し、以ちて自ら新たせ むれば、則ち死せども恨み無きなり、と。素は之れを引き上げ、共に坐りて曰く、人は過ち無きに能ふことなし、過ちて能く改むれば、則ち よき の大なるもの莫し、と。乃ち之れと與に友と為る。仇都等は はぢ を感じ、 ふたた び惡を為すことなし。 きみ は之れを聞きて曰く、素の威嚴 いかめしき を用ゆることなく能く智を以ちて惡を懲らしむるは、 よし と謂ふ可きなり、と。 かばね を賜ひて大室 うぢ と曰ふ。

 夏四月、王子 みこ の好童、沃沮に遊びたり。樂浪の きみ の崔理は出で行き、因りて之れを見ゆ。問ひて曰く、君の顔色を觀るに、常に非ざる人、豈に北の國の神王 かむぎみ むすこ に非ざるか、と。遂に同じく歸り、 むすめ を以ちて之れを とつ がせしむ。後に好童は國に還りて潛かに人を遣り、崔 うぢ むすめ に告げて曰く、若し能く なむぢ の國の武庫 たけくら に入らば、鼓角を割破 さきわ らば、則ち我は禮を以ちて迎え、然ずば則ち否なり、と。是れより先ず、樂浪に鼓角有り、若し敵兵 あたいくさ 有らば、則ち自ら鳴らし、故に いひつけ して之れを破らしむ。是に於いて、崔の むすめ まさ かたな ぎ、 ひそ かに くら うち に入り、鼓の おもて と角の口を割り、以ちて好童に報ゆ。好童は おほきみ に勸めて樂浪を襲はしむ。崔理は鼓角を もち ゆるも鳴らず、備なし、我が いくさ には かに城の下に至り、然る後に鼓角の皆破るるを知る。遂に女子 むすめ を殺め、降りに出づ。〈或いは云く、樂浪を滅ぼさむと おも ひ、遂に くがなひ を請ひ、其の むすめ を娶りて子の つま と爲し、後に本國 もとのくに に歸らせ使 め、其の兵物 つはもの を壞させしむ、と。〉  冬十一月、王子 みこ の好童は自ら あや む。好童は王の次妃の曷思王の孫女 まごむすめ の生む所なり。顔容 かほのかたち 美麗 うるはし おほきみ は甚だ之れを愛し、故に好童と名づく。元妃は よつぎ を奪ひ太子 みこ と為るを恐れ、乃ち おほきみ そし りて曰く、好童は禮を以ちてせずに妾を はべ り、 ほとほと 亂るを欲するかな、と。 おほきみ 曰く、若しや他の を以ちて憎み ねた むか、と。妃は おほきみ まこと とせざるを知り、 わざはひ の將に及ばむとするを恐れ、乃ち涕泣 なみだした りて告げて曰く、大王 おほきみ の密かに うかが ふを請へり。若し此の事無かりければ、 わらわ は自ら罪に伏さむと、と。是に於いて、大王 おほきみ は疑はざるに能はじ、將に之れを罪せむとす。 あるひと 好童に謂ひて曰く、子は何ぞ自ら いひわけ せざるか、と。答へて曰く、我の若し之れを いひわけ せば、是れ母の惡を あきら め、王の憂ひを のこ す。孝と謂ふ可きか、と。乃ち つるぎ に伏して死す。

 論じて曰く、今の きみ 讒言 そしり まこと とし、無辜 つみなし 愛子 まなむすこ を殺したるは、其の不仁たること道を まざらむ。而れども好童は無罪 つみなき を得ざるは何ぞ。則ち、子の其の父より責めらるるや、宜しく舜の瞽叟に於けるが ごと くすべし。小杖 をづえ なれば則ち受くるも、大杖 おほづえ なれば則ち のが れ、 おり に父を不義 よろしからず に陷れず。好童は此れに出づるを知らず、而ち死するは其の所に非ず、小に於いて謹みて大義に於いて おろか を執り、其れ公子 きみ は申生の たとへ と謂ふ可きか。
 十二月、王子 みこ の解憂を立て太子 みこ と為す。使 つかひ を遣りて漢に入らしめ朝貢 たてまつ らせしむ。光武の みかど は其の きみ よびな もど す。是れ建武の八年なり。

二十年

現代語訳

 二十年(37年)王は楽浪を襲い、これを滅ぼした。


漢文

 二十年、王襲樂浪、滅之。

書き下し文

 二十年、 おほきみ は樂浪を襲ひ、之れを滅ぼす。

二十四年

現代語訳

 二十四年(41年)春三月、京都 みやこ に雹が降った。
 秋七月、霜が降りて穀物が がれた。
 八月、梅の花が開いた。


漢文

 二十四年、春三月、京都雨雹。秋七月、隕霜殺穀。八月、梅花發。

書き下し文

 二十四年、春三月、京都 みやこ ひさめ らしむ。
 秋七月、霜を らしめ いひ ぎたり。
 八月、梅の花は きたり。

二十七年

現代語訳

 二十七年(44年)秋九月、漢の光武帝が兵を遣わせ、海を渡らせて楽浪を討伐し、その地を取って郡縣とし、薩水から北は漢に属した。
 冬十月、王が薨去した。大獣林の原に葬り、大武神王と よびな した。


漢文

 二十七年、秋九月、漢光武帝遣兵渡海、伐樂浪、取其地、為郡縣、薩水已南北屬漢。冬十月、王薨。葬於大獸林原、號為大武神王。

書き下し文

 二十七年、秋九月、漢の光武の みかど いくさ を遣りて海を渡らしめ、樂浪を伐ちて、其の つち を取り、 こほり あがた つく り、薩の かは り南≪北≫は漢に きたり。
 冬十月、 おほきみ は薨りたり。大獸林原に葬り、 よびな は大武の神王 かむぎみ と為す。

注記

大解朱留王

 高句麗好太王碑文には、無恤の名が『大朱留王』と記されている。

骨句川

 満州の哈達河に比定する説がある。

理勿林、利勿林

 どこか不明。

金璽

 金の印璽。金印のこと。

北溟人

 北溟とは、道家思想並びに道教において、北の果てに広がる暗く広い海のことだが、第一巻の南解王紀にも北溟人が登場し、ここでも特定の国や地域を指すかのように登場する。どこかは不明。

赤谷人

 赤谷とは韓国忠清北道堤川市水山面の赤谷里だろうか?

鶴盤嶺、車廻谷

 鴨緑江流域の満州地方にあったと思われる地名。

曷思水

 鴨渌江北側または渤海湾一帯にあったと考えられる。

鴨渌谷

 おそらく鴨渌江近辺の谷だと思われるが、よくわからない。

掾那部

 三国志の高句麗伝によれば、高句麗は「涓奴部」「絶奴部」「順奴部」「灌奴部」「桂婁部」の五つの部族に分かれていたとされている。これらは掾那部と表記は一致しないが、「那」は「奴」と音通であり、絶奴部や順奴部に比定する説や、高句麗が上記五部に再編される以前に存在した部とする説もある。

蓋馬国

 現在の朝鮮国の蓋馬高原の周辺に存在した国家。朝鮮国両江道、咸鏡南道などに属す。

句茶国

 どこか不明。

 古代中華の統一王朝。大漢帝国。

遼東

 漢王朝の郡。中国北東部に存在し、朝鮮半島に隣接する。

太守

 郡の長官。

『徳に恃む者は繁栄し、力に恃む者は滅亡する』

 原文は『德者昌、恃力者亡。(德に恃む者は さか え、力に恃む者は亡ぶ)』。これは史記商君伝に書経の引用として登場する一節であるが、現存する書経にはこの一節は登場しない。

尉那厳城

 国内(地名。現在の中国吉林省集安。)の山岳に築いた山城。典型的な朝鮮式山城として有名。王都の国内城は別に存在しており、そちらに王宮、官庁、市民の住居が置かれ、他国からの侵入にあたっては、国王と軍隊の籠城、市民を避難させる場として使用した。

買溝谷

 朝鮮半島の中北部に存在していたと推定される。

沸流部

 三国志の高句麗伝によれば、高句麗は「涓奴部」「絶奴部」「順奴部」「灌奴部」「桂婁部」の五つの部族に分かれていたとされている。これらは沸流部と一致しないため、高句麗が上記五部に再編される以前に存在した部とする説がある。ただ、「流」と「婁」が音通であるため、桂婁部に比定する説もある。

「人は過ちを犯さないことなどできません。過ちを犯しても改めることができれば、それより大いなる善はないのです。」

 人が過ちを犯すことをあくまで必然と捉え、それを改めることこそ至善とすることは、儒教の基礎を為すテーゼのひとつ。論語において孔子は、「過ちを犯して改めないこと、これこそが過ちなのだ。(過而不改、是謂過矣)」「過ちを犯したら改めることを憚ってはならない。(過則勿憚改)」と言い、あるいは孟子は「人が過ちを改めることができるのは、いつだってそれを犯してしまった後だ。(人恒過、然後能改)」と言う。人間の不完全性を認めた上で、変化を求めることが儒家の思想の要件である。

沃沮

 朝鮮半島北東部に在居していた部族であるが、ここでは地名として用いられている。部族としての詳細は、後漢書東夷伝の東沃沮伝を参照。

楽浪王の崔理

 楽浪郡は漢王朝の郡の名であるが、三国史記では頻繁に国家名として登場する。

十五年夏四月の記事

 この逸話は、「自鳴鐘説話」「好童説話」と呼ばれ、現在の韓国でもシェイクスピア「ロミオとジュリエット」に比せられる悲恋の物語として有名であるが、話の筋書きが越南(ベトナム)の歴史書である大越史記全書外紀第一巻の安陽王紀に記された仲始と媚珠の説話に酷似している。この二書を日本語訳で読めるホームページは他にないので、ぜひともご確認いただきたい。

舜、瞽叟

 舜は儒教における太古の聖人王。親孝行として有名。瞽叟は舜の父親で、ろくでなしの乱暴者とされている。舜の母親は早くに亡くなり瞽叟は後妻を娶ったが、そちらとの間にできた子の方を可愛がるようになって、舜を疎むようになった。瞽叟は舜に暴力をよく振るったが、舜は親孝行を尽くしたという。その孝行ぶりが時の帝王の堯の耳に入り、舜は取り立てられて宰相となり、遂に帝王の座を堯から譲られたという。

小杖であれば受けても、大杖であれば避けて逃げ、その折に父を不義に陥れないものだ。

 孝行息子の舜は愚かな父親の瞽叟から理不尽な暴行を受けても孝行を尽くした。しかし、小さな杖で殴られる時には、甘んじてそれを受けたが、殴られれば死に至るような大きな杖で殴られそうになった時には、それを避けて逃げ出したという伝説がある。これは子を殴り殺してしまうと父親に罪が及ぶため、それを甘んじて受けることは却って不孝になるからだと解釈される。

申生の譬

 申生は春秋時代の国家である晋の公太子であったが、父親の献公は寵愛していた妾姫の驪姫との間にできた息子を太子にしようと考えるようになった。その後、その驪姫と芸人の優施が姦通し、申生を陥れようとした。驪姫は髪にはちみつを塗って外に出て、ミツバチがたかりにくると、悲鳴を上げて申生に助けを求めた。申生は必死でミツバチを追い払ったが、通りがかりの献公には、それが驪姫と浮気をして戯れているように見えた。そこで申生は、献公に槍で襲われ、以後は嫌われるようになった。また、今度は驪姫が申生の亡母の祭祀のために用意した肉と酒に毒を混ぜた。献公がそれらを飲み食いすると、そこで申生が毒を盛ったのだと疑った。申生は弟の重耳から釈明をするように促されたが、父を悲しませたくないと言って拒絶し、亡命を勧められても断り、そのまま自殺した。これはひとつ美談としても伝わるが、同時に過度の献身として批判もされている。

光武帝

 後漢王朝を打ち建てた皇帝。漢王朝中興の祖。漢王朝は宰相の王莽に帝位を譲り渡して一度滅亡したが、その反王莽を御旗に掲げる漢王朝の皇族が次々と群雄として名乗りを上げ、王莽を打倒し、次いで彼らの間で争った。その中で勝ち残ったのが光武帝こと劉秀である。

薩水

 清川江のこと。朝鮮国の慈江道の狼林山脈に水源を持ち、平安北道から平安南道境を経て黄海に流れ出る河川。

大獣林

 どこか不明。大武神王の別称である大朱留王は、大獣林から取られたものとも考えられる。

底本

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